第27話 貧乏神すら魅了して
すでにお弁当は空なはずなのに、そこにあった香りや形状が執念深く追随する。また食べたいという味に対する好奇心は時に人を喰らうのだと、山から下りてきた獣の被害を報道していた今朝のニュースを思い出した。
「お父さんにはあたしから話しておくわ。大丈夫、責任なんて感じなくていいの。
「ちょ、ちょっと待って
「分かってる。そう言わなくちゃならないのよね。誰かにやらされているんでしょう? でもね、楓が誰かの人生を背負う必要なんかどこにもないじゃない。それに、音儀白雪に生まれ変わったってことは、音儀白雪はもう死んでいるんでしょう? なら、気にすることないじゃない」
きっと獣も、悪気なんかないんだ。飢えた獣はただ生きたいという本能に従って抗った。そしてなんとか生き延びることができた。手にした希望がたまたま人の血肉だったというだけで、きっと。
悪いのは、そうじゃないと生きられない状況を作り出した血肉の方だ。
「昨日、楓が描いた絵。あの絵には楓の『また絵を描きたい』って気持ちが込められていた」
真昼に浮かぶ暗闇の中で、眼光が鋭くこちらを射貫く。
「驚くことないわ。言ったでしょう、あたしはこの世で一番、楓の絵が好きなの。楓がどういう思いで描いたのか、絵を見れば分かるわ」
首を横に振ることはできなかった。確かに私は、絵を描くのが楽しい。もっと描きたい。そう思いながら筆を走らせていた。
「楓は絵を描いていればいいじゃない……アイドルなんか、似合わないわ」
そりゃあ、そうかもしれないけど。アイドルが似合うような人間だったら、きっと私はここにいない。
転生なんかしない。私は私の人生に満足してるから。
そう言って、暗闇の中で目を瞑っていられたことだろう。
けど、私はそうじゃない。未練ばかり、後悔ばかりの、まだ何も成し遂げられていない、自分の人生に一つも納得していない死に損ないだ。
「櫻坂さんになんて言われても、私はアイドルやるよ」
奥歯の軋む音が、こちらにまで聞こえてきた。地鳴りのようなそれと同時に、美桜は私の手を掴む。
「どうして……? 楓……せっかく会えたのに、なんでまた、遠くへ行こうとするの?」
「櫻坂さん、私、楓じゃない」
「違う、あなたは楓よ。間違えるわけない。跳ねるみたいな喋り方も、今にも転びそうな歩き方も、右頬に手を添える癖も、絵の描き方も全部楓のものよ!」
「
死んだ。
その言葉を改めて口にすると、心臓の近く、一番太い血管が詰まったかのような圧迫感が胸を締め付ける。私はきっとどこかで、この転生というものを楽観的に捉えていた。
死んだからまたやり直す。それくらいの気概で臨んでいたのだ。
けど、紅葉楓は間違いなく死んだ。
「葬式だってしたでしょ」
私のお世話をしてくれていた親戚のおばちゃんあたりが、きっと葬儀を開いてくれたに違いない。
「お墓だってあるでしょ」
まだこの目で確かめてはいないけど。でも、いつかは訪れなきゃいけない場所に、私は眠っている。
「紅葉楓は死んだんだよ」
骨もなく血肉もなく、皮膚も、内臓も、髪の毛すら一本残らず、もうこの世には存在しない。
私という私は、本当はこの世界で思考していることすら許されない存在なんだ。
「死んでない、楓は死んでない……! 楓は生まれ変わって、またあたしの目の前に……!」
「死んだの!」
紅葉楓は死んだ。紅葉楓は死んだ。
何度も言い聞かせた。美桜だけじゃない。私にだって、そうだ。
なんとなくだけど、私はこのままアイドルになればまた不思議な力が働いて時間が逆戻り。気付けば紅葉楓だった頃の私に戻って、音儀白雪もアイドルとして復活してハッピーエンドを迎えるものだと思っていた。
そんなの都合のいい妄想だ。楽観的な盲信と根拠のない希望ばかりを胸に抱いている、私の悪い癖だ。
そんなこと起こりえない。私は別に、音儀白雪と身体が入れ替わっているわけでもあるまいし。
「紅葉楓は死んだの! あの日、隕石に打たれて、死んだ!」
「違う、違う違う! 楓は生きてるじゃない! 生きてるじゃない……!」
顔を覆う両手の指の隙間から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
美桜の言っていることは、一つも間違っていない。勘違いでもない。
「ごめん櫻坂さん。私、先に教室戻るね」
お弁当をバッグにしまって、ベンチから立ち上がる。
「待って、お願い……楓!」
悲痛な私の名前を呼ぶ声に、一瞬、足が止まりそうになる。
振り返って、駆け寄って、今すぐ美桜を抱きしめてあげられたら、どれだけいいだろう。
私がもっと、最初から、美桜に寄り添ってあげられていたら。
美桜に助けられるだけじゃない私でいられたら、きっと山から下りてきた獣も、血肉に飢えることもなかったのだと思う。
だからこれは、全部紅葉楓のせいだ。
「あたし、楓がいないと、生きていけない……っ!」
神様はよく見てる。
おばあちゃんがよく、仏壇に手を合わせていた意味がようやく分かった。
惰性に生きていると、こうしていつか、罰を受けなければいけな日が必ずやってくる。
私は美桜の声を振り切って、校舎に向かって走った。
廊下を駆け、屋上に続く階段を上る。
錠のかかった扉の前でうずくまって、私は口に手を当て嗚咽を抑えた。
床に落ちる水滴が、本当に自分勝手で、格好悪い。自分で決めた道のくせに、一度決めたことは絶対にやり通すとか身の丈に合わないことを言っておきながら。
親友に別れを告げたことが、辛すぎて泣いている。
紅葉楓が死んだという事実を告げるだけで、こんなにも胸が苦しいとは思わなかった。
「でも、やらなきゃ」
私は袖で涙を拭って顔をあげた。
楓がいないと、生きていけない……?
「なんのためのアイドルだ」
生きていけないなら、生きていける希望を届けるだけ。美桜がまた前を向いて歩けるように、私が、音儀白雪が、希望になってやればいいだけだ。
美桜の言う通りだ。……本当、なんでこんなことになってるんだか。
どうして私が、音儀白雪なんかの人生を背負わなきゃならないんだろう。
胸に手を当てた。
美桜が書いた小説の中に、私の大好きな一節がある。
『人は必ずどこかで貧乏くじを引かなくちゃならない』
きっと、それが今の私なんだろう。
どこか諦めたかのような、その言葉。
だけど、うん、そうだ。諦めてるんだ。美桜もそう書いていた。だから私は好きなんだ。
何回読み返したか分からない、美桜の書いた小説の一節を思い出しながら私は階段を降りる。
教室に戻って、午後の授業の準備をする。教科書の裏にスマホを隠して、自分のダンスを見直すのはすでに慣れっこだ。先生には申し訳ないけど、今だけは、許して欲しい。
教科書を立てている途中でチャイムが鳴って、先生が教室に入ってくる。
ただ、授業が始まっても、美桜が戻ってきていないことが気がかりだった。
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