第26話 アイドルなんかやめちまえ


 朝起きた時、まだ胸の奥で滾るものがあった。


 一度やると決めたこと、一度頑張るぞって決めたものを、夢の中に置いてこなくてよかった。


 枕元に置いてあったスマホがアラームを鳴らしている。私は布団を足で蹴っ飛ばして、身体を起こす。すぐ五分後にまたアラームが鳴って、スヌーズ設定をかけていたのを思い出した。


「大丈夫だって」


 五分刻みに鳴るように設定されたタイマーに苦笑して、私は洗面所に向かった。


 顔を水で洗うと、想像以上の冷たさにその場で足踏みする。タオルで顔を拭くと、鏡の向こうで音儀おとぎ白雪しらゆきが真っ直ぐ、私を見つめていた。


「やるって、最後まで」


 定規で測ると、音儀白雪は154cmほど。これに関しては、紅葉楓の圧勝だ。けれど、やはり定規というものは、人生においてあまり重要ではない。


 指先で分度器を作り、鏡い当てはめてみる。


 タオルで拭き損ねた水滴が、顎を伝って落ちていく。落ちていくということは、傾斜があるということ。大丈夫、私はきちんと、前を向けている。


 朝ご飯を食べ終えて歯を磨いてから、アパートを出る。


 学校に向かう途中、白い息を浮かせながら走って行く人たちとすれ違った。野球部かな。けど、ユニフォームはうちの学校のものじゃない。


「頑張れー!」


 その人たちの背中に、精一杯の激励を投げかける。すると、その中の一人が振り返って目を丸くした。


「え! 今の音儀白雪じゃん! え!? やばない!」

「はよ走れ!」


 そんな声が後ろから聞こえてきた。


 努力は尊いもので、人生に必要なものだと、私はずっと思っていた。


 だけど、必死に息を吐いているときは、自分の人生なんてものを俯瞰して見ていられない。みんな、光のように過ぎ去っていく今に縋り付いているだけ。


 結局は、高鳴る自分の鼓動と、あの日抱いた憧れと夢を忘れなかった者だけが、人生というものを後に振り返ることができる。


 踵を鳴らしながら、私は学校に向かった。


 教室に着くと、私の机にヤンキーが座っていた。とはいえ、これまでは独断と偏見で勝手にヤンキーと呼んでいただけで、実際のところ、彼女には倉石くらいし朱莉あかりという名前があった。


「おはよう。あのー、そこ私の席なんだけど」

「あ、おはよ音儀さん! やー、やっとツッコんでくれたね!?」

「ええ? それ、ボケだったの?」

「違うよ、朱莉ってば、音儀さんと仲良くなりたいくせに話しかけるきっかけがなかったから、構って欲しかっただけなんだよ」


 倉石さんの隣にいた子が補足すると、倉石さんは「おおい! 全部言うな!?」と怒ってみせた。巻き舌まじりのその声は、ちょっとだけやっぱりヤンキーっぽくて、私はつい笑ってしまった。


「朱莉こういうところあるからー、不器用なのさ」

「そうなんだね。あはは」

「やめろ! そんな見守るような目で見るんじゃない!」


 朝の一幕とは、こういうものなのか。


 顔をあげた世界の景色は、朝靄と共に、太陽の輝きをより鮮明に伝えてくる。


紅葉もみじさんとも、もっと喋りたかったんだけどな……」


 倉石さんは寂しそうに、視線を落とした。そして悔しがるように拳を握っている。

 

 隣の子も、慰めるみたいに倉石さんの背中に手を添えた。


「……そうだね」


 後悔というものを、今目の前に突きつけられている。

 

 人の命が有限である以上、いつか必ず「もう遅い」と感じる時はくる。だから人は焦るし、がむしゃらになる。


 倉石さんにかけてあげたい言葉はたくさんあったけど、私は何も言わないことを決めた。音儀白雪は、紅葉楓の生きた証に、これ以上干渉しない。


「あ」


 何の変哲もない教室のドアが開く音。


 だけどすぐに分かった。


 美桜みおだ。


 私は倉石さんたちに「ちょっとごめん」と言ってから、美桜の元へと駆け寄った。


「おはよう、櫻坂さくらざかさん」


 櫻坂さん。ただ呼んだだけじゃない。これは、私は音儀白雪であり紅葉楓ではないという主張でもあった。


 怒られるかなぁ、なんて思いながら、美桜の反応を窺う。


 しかし、美桜は私の予想とは裏腹に、憑きもののとれたような笑顔を作って言った。


「おはよう、かえで


 この教室の中で、およそ五ヶ月ぶりに放たれたその名前に、クラスメイトの息が一瞬止まったのを肌で感じる。


 美桜は私の隣に並ぶと、その細い指でそっと私の裾を掴んだ。


「今日は天気がいいわ。お昼は外で食べましょう。楓、中庭のベンチで食べるのが好きだったものね」

「え? あ、うん。それはいいんだけど」


 強ばっていた筋肉が、そっと幕を下ろしていく。


 てっきり美桜と顔を合わせれば昨日の続きが始まるのだと思っていた。教室のど真ん中であんな問答繰り広げるわけにはいかないので、すぐに美桜を教室の外に連れて行く算段だったんだけど。


「あんまり、楓って呼ばないで。私、音儀白雪なんだけど」


 周りの目を気にしながら耳打ちすると、美桜は本当に、心の底から幸せそうに笑いながら私の腕に抱きついた。


「ええ、分かったわ」


 あ、あれぇ?


 


「楓、小松菜のおひたし好きだったわよね。はい、あーん」

「あ、あーん」


 お昼休み、私は中庭のベンチで、美桜にあーんされていた。


 こ、これどういう状況あーん。


「あたしのお母さんも笑ってたわ。味覚がおばあちゃんっぽいのよ楓は」

「あの、櫻坂さん。だから私、楓じゃ――」

「もう、食べながら話さないの。口、付いてるわよ」


 美桜が取り出したハンカチはシルク素材で、より強い黒が印象的だ。これは美桜の誕生日に、私がプレゼントしたものだから、今でも覚えている。そして美桜は、そのハンカチを常備していて、基本、私にしか使わない。


 口元を拭かれたことも、インクで汚れた指を拭かれたこともある。そのときの感触と、まったく変わっていない。


「あ、ありがとう」


 美桜はお尻を浮かせて、私との距離を詰めてくる。肩がぶつかり合う距離で、箸を口に持って行く動作はひどく窮屈に感じる。けれど、その窮屈さが時折、人との触れ合い、美桜との、親友との触れ合いというものを実感して学校で過ごす時間を彩ってくれる。


 だから私は、学校にも毎日来られたし、目標も進路もない中、意味のない授業も頑張って受けようって思えた。


「って、さ、櫻坂さん……泣いてるの?」


 快晴には似つかわしくない雨が落ちて、私は箸を止めた。


「ごめんなさい。楓とこうして一緒にいられるのが、また嬉しくて」


 美桜の目からは次々と涙が溢れ出ていた。


「あたし、楓が死んだって聞いて、絶望してた。あたしは楓がいたから、こんな世界でも生きてこられた。それなのに、楓がいないなら、こんな世界で生きてる意味ないじゃないって、ずっと思ってたのよ」


 隕石が落ちたあの日、いや、次の日だろうか。私が死んだという情報は、学校中に広まっただろう。それを聞いたとき、美桜がどういう表情をしていたか。想像するだけで胸が苦しくなってくる。


「けど、本当によかった。ありがとう楓、こうしてまた、会いに来てくれたんだね」


 美桜が私の右頬に手を添える。まるで存在を確かめるみたいに、ゆっくりと撫でていった。


「私、楓じゃないよ」


 だから私は、その手を掴んで離した。


「私、音儀白雪だよ。紅葉楓じゃないの」


 私は美桜から目を絶対に離さないようにして、口にした。


 美桜は一瞬、悲痛な表情を浮かべたけど、すぐに、不気味なくらいに、口元を三日月のように歪めて笑った。


「放課後、どこに行く? あたし、楓が行きたい場所ならどこにでも付いていくわ。楓が行きたい場所、教えてちょうだい?」

「放課後は、レッスンが――」

「そんなもの行く必要ないわ」


 冷たい声が、そよ風に乗って私の魂を削いでいく。


「どうして楓がそんなことしなくちゃいけないの?」

「え? で、でも櫻坂さん。私はアイドルで」

「安心して、楓」


 美桜に手を握られる。このまま握られていたら、存在ごと、癒着してしまうかのように。


「もうアイドルなんか、しなくてもいいのよ」

 

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