第25話 さようなら、私

 意識って徐々に薄くなっていくものなんじゃないかと、混濁する思考の中で思った。


 崖から突き落とされたような気分だ。痛みを感じた次の瞬間には、自分が立っているのか座っているのかも分からなくなっていた。


かえで!? 大丈夫!?」


 耳鳴りの中に、美桜みおの声が混じって聞こえる。


 しかし、返事に割く余力がない。


 この虚脱感と、身体ごと失われるような喪失感を、私は知っている。


 死ぬ。


 これは間違いない、死ぬ直前に感じる、永遠にも近い苦痛だ。


「はいそこまで、ちょっとお邪魔するよ。そこのお嬢さんはちょい席外してくれへん?」


 そして、この声もまた、死に一番近い場所で聞いたことがある。


「ちょ、ちょっと、あなた誰!? 急に部屋に入ってきて……楓、この人知り合――」

「あー、そこまでいっとんのか、やばいわあ。手荒くなるかもしれんけど、悪く思わんといてな」

「あっ、なにを」


 部屋の空気の流れがふわっと変わった感覚を肌で感じた。


 その瞬間、身体を襲っていた激痛が嘘のように消える。


「ハァ……ッ! ハッ、はぁ、ハァ……!」


 不規則な呼吸が数秒続く。肺が痙攣しているようで、断続的な呻き床に吐き出した。


「間一髪やったな」


 視線の先で、金糸が舞った。


「ぎゃ、ギャル神様……」


 顔をあげる頃には、すでに身体がいつもの調子を取り戻していた。ギャル神様は私を見下ろしながら、いつになく真剣な表情で言った。


「言ったんか?」


 その問いが、私が紅葉楓であると他言したか、というものだということはすぐに分かった。私は口元についたヨダレを拭き取って、首を横に振る。


「言ってません。ただ、美桜はどうも……」


 ハッとしてあたりを見回す。さっきまで、美桜が私の部屋にいたはずなんだけど。


「あの子には消えてもらった。今頃自分の部屋でぐっすり寝てるはずやから安心しい。ただ、まぁあの調子だと夢オチにはさせてくれなさそうやな」

「美桜は、私の癖とか、喋り方とか、そういうので、気付いたみたいです」

「不思議なもんや。普通そういうのって、感じ取っても、似てるなぁくらいにしか思わないんやけど」


 ギャル神様は神妙な顔で、考えるように唇に指を当てた。


「さっきの発作は、まぁ白雪しらゆきちゃんも気付いている通り、転生したことがバレたときの発作や。もう少しうちが来るのが遅かったら、白雪ちゃんは死んでたな」

「死……」


 その単語に、ゾワっと背筋が震える。


「すみません……もう少し気をつければよかったです。まさか話し方や仕草で、バレるなんて」

「いや、うちも油断しとったわ。普通他言しなければ発作が出ることはないんやけど、さっきの子、美桜ちゃんに関してはそうじゃないみたいや」

「どういうことですか?」

「どういうことって」


 ギャル神様はここに来て初めて、堅い表情を崩してくしゃっと笑う。八の字になった眉は、どこか困っているようにも見えた。


「それ、うちから言わせるんか?」

「え、だって……ギャル神様から言ってもらわないと、分からないです」

「あんな、そんなの、それくらい思ってたことやんか」

「えっと?」


 ギャル神様の言っていることがピンとこない私。


「話し方や仕草で分かるくらい、確信できるくらい、あの子は白雪ちゃんのことが好きなんや」

「それは、私たち、親友だったので」

「いやそこは察するところやで、白雪ちゃん」

「え?」


 察するって、何を?


「まぁええわ。ともかく、白雪ちゃん。もたもたしてる場合じゃないで。今回の発作は、うちが現れたことによって美桜ちゃんの思考が切り離されたから止まったんや。やけど、美桜ちゃんが、白雪ちゃんの正体が楓ちゃんやって確信するのはそう遠くない話や。そうなったら、いくらうちでも、もう助けられん。白雪ちゃんの心臓はそこで止まって、即人生終了や」

「そ、そんな……」

「まぁ、どうせ他人の人生やし死んでも結構って言うんなら、それでもええんやろうけど」


 確かに、私は一度死んだ身だ。死が怖いというわけではないし、心臓が止まって死ぬというのは、隕石で死ぬよりはよっぽど人間として全うな死に方と言える。


 でも、今ここで私が死んでしまったら、色々なものを置いていってしまいそうで怖い。


 死ぬことが怖いんじゃなくて、もう生きることができなくなるのが、怖い。


 今までそんなこと思ったこともなかった。生きようが死のうが、変わらない平凡な人生。


 それはきっと、何もしなかったから、失うものもなかったからだったんだろう。だから、自分の生き死になんかどうだってよかった。


 けど、今は違う。


「死にたくないです」


 まだ、夢を叶えてない。


 アイドルになって、音儀白雪という人間を知らしめる。


 私と、そして音儀白雪、それから夕莉さんの夢を、置いてなんて死ねない。


「転生したときも言ったと思うけどな、紅葉もみじ楓として生きるのも音儀白雪として生きるのも自由や。けど、紅葉楓として生きるっていうのは、同時に死を意味するっていうことを理解しておかないとあかんで」

「分かってます」


 美桜はきっと、私に会いたがっている。あれだけ泣いていたんだ。


 紅葉楓の死をまだ乗り越えられていない美桜に「私は楓だよ! 転生したの!」って言えば、美桜もまた、自分の人生を歩んでくれるはず。


 私が「頑張れ」「前を向け」と言えば、美桜は一人でも私の死を乗り越えて歩いて行ける。美桜はそれができる、強い人のはずだ。


 そして、それを果たした瞬間、私は死ぬ。紅葉楓が生きた証を美桜に残して、今度こそ、この世から消えるのだ。


 ……それはできない。


「音儀白雪として生きます」


 私が言うと、ギャル神様は目を丸くして口を開けた。


「驚いた。まさか即答されるとは思わんかった。平気か? もう少し悩んでもええんやで」

「もう十分悩んだので」

「そっか、ほな、あとは分かるな? 美桜ちゃんに、きちんと伝えてくるんや。それ以外の方法はあらへん。単純明快。その代わり、難しいかもしれんよ」

「それでもやります。まだ死ねません」


 せめて、音儀白雪と夕莉さんの夢みた、トップアイドルになるまでは。


 そして、私の、私がやっと見つけた。傾斜のある人生の生き方を、貫くまでは。


「それに、私あれなんですよ。紅葉楓のときからそうなんですけど、明日から頑張るぞ! って決めても、次の日、朝起きたらそんなの忘れちゃってるし。頑張ってる途中に、あれもいいなこれもいいなって寄り道しちゃうことばっかりで、全然、何か一つを、人生賭けて、命を賭けて成し遂げたことがないんです」


 何度も思った。変わりたい、進みたい。


 このままじゃダメだって思いながら、私は堕落を選んで、また何もしない一日が過ぎたと夜寝る前に後悔する。そんなことばっかりだった。


「だから今度こそやりきります。トップアイドルになる。一度決めたことは最後までやり遂げます。寄り道はしません」

「全部、捨てることになるんやで」


 ギャル神様は微塵も動かない、強い視線で私を射貫く。


「紅葉楓のときに築いたもんは全部や。喋り方や仕草はもちろん、頑張ったこと、辛かったこと、楽しかったことや嬉しかったこと、全部、無かったことにするんや」

「全部……」

「絵も、そうや」


 ハッとして顔をあげると、ギャル神様は私を見ていなかった。代わりに、カバンから飛び出したノートと、シャーペンに視線を移している。


「言ったはずや、もう、以前のようには生きられないんやって」


 じょり、と。髪を切り落とされたときの光景が脳裏を過る。


 そうだ、当然だ。音儀白雪として生きるということは、紅葉楓を殺すということ。


 今日のタイミングといい、美桜は、私の絵を見て、確信に至ったのだと思う。


 話し方や仕草よりも、なによりの証拠となったその絵は、あまりにも高いリスクを伴っている。どれだけ隠しながら描いていたとしても、どこかで私の描いたものが美桜の目にとまった瞬間、私の心臓は止まってしまう。


「大丈夫、です。絵は、もう……」

『音儀さんって、絵が描けるの!?』


 今日、美術室で言われたことが脳裏に蘇る。


『これだって下書きとは思えないくらい丁寧だし、それなのにすごく力強い。私、この絵が完成したところ見たいもん!』


 あんなに褒められたのは初めてだった。

 

 私が唯一続けてきた絵が、誰かに肯定された。


『絵、好きじゃないの?』


 初めて、絵を描いてて良かったって思えた。


『いつでも待ってるからね』


 なんで、今なんだろう。


 どうして紅葉楓のときに、言ってくれなかったんだろう。


 もう遅いよ。


 遅いんだ、何もかも。


「あ」


『楓の絵は誰かの心を打つ絵よ。それはあたしが保証する。だってあたしも、楓の絵に救われた一人だから』


 何言ってるんだろう。


 言ってくれている人、いたじゃん。一番近くに。


 全然気付かなかった。


 それなのに私は、私の絵なんかって自虐して、誰にも見せようとしないで……。


「好きじゃない……」


 目の奥がツンとして痛い。自分の声が、鼻声なのも分かった。


「絵なんか、好きじゃない」


 下唇を噛んで、覚悟を決める。


 きっと、言ってしまえば、後戻りはできない。


 それでいい。


 今までずっと、後戻りしてきたんだから。


「絵なんか嫌い。だからもう、描かない」

「そうか」


 いつのまにか、私はギャル神様に背中をさすられていた。


「うちはな、そこらの口渋る神様とは違って、ちゃーんと白雪ちゃんの味方や。いつだって助言したるし、危ないときは教える。だからな、頑張りや」


 人に励ましてもらってばかりだ、私。


 でも、これからは違う。


 私だって、誰かを励ます存在になる。それがアイドルであり、誰かが望む、私の姿でもあった。


「あと二日は大丈夫や。安心しい、実例があってな、ちょっと特殊なんやけど」

「他にも、バレて死にそうになった人がいたんですか?」

「いや、発作が出る前に死んだんや」


 あっちがな、と、ギャル神様は少しだけ、哀しそうな目をしていた。


「不思議なもんや、人間ってのは」


 時計を見ると、もう八時になっていた。


 ご飯を食べて、お風呂に入って、早く寝なきゃ。


 明日は、レッスンも入っている。


「だからこそ、おもろいんやけど」


 ギャル神様は、私の背中をパン! と思い切り叩くと、快活な笑みを浮かべて言った。


「きちんとやり遂げるんやで、音儀白雪!」

「……はい!」


 そして煙のように消える、わけでもなく。ギャル神様は丁寧にドアを開けて部屋を出て行った。


 私は冷蔵庫を開けて、トマトジュースを取り出して口に流し込んだ。


 音儀白雪の意思が、血肉となって、私の中を循環する。そういう気にさせてくれる。


 私はこの身体も、心も、これから音儀白雪一色にしていかなければならない。


「さよなら」


 私はノートを破ってから、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。


 私はこれから、死に損なっている紅葉楓を、殺しに行ってきます。

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