第4章
第17話 リスタート
「それじゃあこの契約書にサインしてくれたら、契約成立だから。最初のお給料はさっきも言ったけど、事務所を通す関係でギャラをもらった翌月になるから一ヶ月遅れになるっていうことを覚えておいて欲しい」
「は、はい!」
「それからレッスンは、こちらで紹介するつもりでいたけど、専属のトレーナーさんがいるんだって?」
「あ、えっと、リモートですけど、ネットのボイトレ教室に登録しています。でも、ダンスはまだ、独学で」
「そっかそっか、じゃあダンスレッスンのトレーナーさんだけこちらで探しておくよ。専属は難しいかもしれないけど、信頼できる教室なら心当たりがあるから」
テーブルを通して、美桜の《みお》のお父さんがこれからのことを詳細に説明してくれる。いや、もう美桜のお父さんというよりは、社長、になるのかな。
私は二週間ほど前から、本気でアイドルを目指すことにした。
それもまた、執念の一つであるような気がしたからだ。
それからというもの、アイドルになるため、まずは事務所を探すことにした。オーディションにたくさん応募したはいいものの、音儀白雪という悪名のせいで書類審査で落ちることがほとんとだった。
直接事務所へ行っても門前払いされることが多く、まともにオーディションを受けさせてくれたのは、以前夕莉さんが話を通してくれていたカラフルマーケティングだけだった。
その間インターネットで受け付けができるボイストレーニング教室にも登録して、ダンスは動画を見ながら基礎を一から学び、体力作りのため毎日町内を走っている。音儀白雪が残した、あの青いシューズを履いて。
けれどオーディションを受けさせてもらえなければ話にならない。困り果てていたとき、なんと美桜がアデリアプロダクションに来ないかと誘ってくれたのだ。
私、というか音儀白雪のことが嫌いな美桜がどうして急にそんなことを言い出したのか分からないけど、これは千載一遇のチャンス! 逃すわけにはいかない。
そんなわけで美桜のお父さんが経営する事務所、アデリアプロダクションに来た私。
先ほどオーディションを終えて、なんとあっさり合格してしまった。
「基本的に宣材費用は事務所が負担するからね。宣材写真は所属してるアイドルのみなさん個人で撮ってもらうことになってるんだけど、一応指定されたプロのカメラマンさんがいるスタジオがあるから、そちらに一度出向いてもらうことになると思う。だいたい1万円から2万円になるとは思うんだけど、そこだけ自己負担になるから、覚えておいてね」
「はい! お金のことはあんまり気にしてないです!}
「殊勝で何より。けれど、仕事をする以上は、お金のことも気にする必要はあるよ。給料っていうのはご褒美じゃなくて、対価だからね」
美桜のお父さんと話すのは三年ぶりだ。
美桜の家に泊まったとき、私が美桜と一緒にお風呂に入ろうとしたら何故か美桜が嫌がって、脱衣所の前で口論していたらお父さんが先に入ってしまった、ということがあった。
水を流す音に交じって聞こえた「決断はお早めに」という美桜のお父さんのセリフが今でも頭に残っている。どこかマイペースで、けど、ユーモアもある、そんな不思議な人だった。
「最終確認はこんなところかな」
美桜のお父さんの目が、私の手元に映る。印鑑を持った私の手が、中々差し出された書類にまで落ちていかない。
もちろん、オーディションに合格したのは嬉しい。
これで晴れて、アイドルになれるのだから。
でも、音儀白雪は、本当にこれでいいのだろうか。
音儀白雪と、夕莉さんの夢は、ただアイドルになるだけじゃ、ない気がした。
「お、オーディション」
今から自分が、生意気なことを言おうとしていることが分かっていたから、言葉に詰まった。
「オーディションは、どうでしたか」
「どうしたんだい? 急に」
「合格したのは嬉しいです。でも、それって、私が音儀白雪だからですか? それだったら、私、辞退します。知名度だったり、ブランドだったりで、受かっても、嬉しくないです。お、オーディションで見た、私の、ダンスと、歌は、この事務所に所属するに、値するものでしたか」
私がそう言うと、美桜のお父さんの顔つきが変わった。眉間にシワを寄せて、難しい顔をしている。
や、やっちゃった!
「あいやすみません生意気言ってほんと、わざわざ見てくださったのにすみません何でも無いです!」
言わなきゃよかった。私、何思い上がってるんだろう!
こんな私なんかを採ってくれるところ早々ないんだから、黙って印鑑押せばいいのに!
「ダンスが上手ければダンサーにでもなればいい」
「え?」
「歌が上手ければ歌手になればいい、そうは思わないかい?」
「は、はぁ。それはそうですけど」
「でも、キミはアイドルになりたい」
「はい」
「なら上手さではなく、強さを求めるべきじゃないかい?」
つ、強さ?
「キミのダンスと歌は、僕から見ても粗い。技術的にも他のアイドルに劣っているだろう。でも、キミのダンスからは、絶対認めさせてみせるっていう強い意志を感じた。キミの歌には、絶対届かせて見せるっていう強い想いがこめられていた」
私の知らない、どこかの誰かを褒められている感覚だった。けれど、美桜のお父さんは、あの日、脱衣所の前で見た飄々とした表情のまま言った。
「知名度も、もちろんある。きっと話題になると思った。うちの事務所も駆け出しだ、正直、最初のアイドルにはインパクトが欲しい。だから、そうだね、オーディション合格っていう言い方が悪かった」
美桜のお父さんは、なんとテーブルに着きそうなほど、頭を下げた。
「キミも大変だろう。キミのことは、このアデリアプロダクションが責任を持ってプロデュースしてみせる。だから音儀白雪さん、キミも責任を持って、このアデリアプロダクションを救って欲しい」
「す、救うだなんて」
「きっと救ってくれると思ったから、僕はキミをこの部屋に通したんだ」
美桜のお父さんは頭を下げたまま言う。
「この返答じゃ、不服かい」
「い、いえっ! そんな、こちらこそ! そんなこと思ってもらえてるなんて! せ、誠心誠意、頑張らせていただきます! そして、絶対、立派なアイドルになってみせます!」
私も同じように、頭を下げた。ゴチン! と音がした。
「いだぁ!」
頭を下げすぎて、額をテーブルに打った。
そんな様子を見て、美桜のお父さんもようやく顔を上げて笑った。
私はチカチカとした視界のまま、契約書に印鑑を押す。
かと思ったら全然違うところに押してしまって、再び美桜のお父さんに笑われるのだった。
もう遅いので、明日また来てくれと言われてその日は解散となった。
社長室を出ると、廊下で美桜が手を組んで壁にもたれていた。
「終わった?」
「え、あ、うん」
どうしたんだろう、美桜。もしかして待っててくれたのかな……まさかね。
「そ、それじゃあ、
本当は美桜ともっと話をしたかったけど、私は現在嫌われ中の身だ。下手に関わらない方がいいだろう。ほとぼりを冷めるまで待つのが最善な気がして、私は美桜の前を通り過ぎた。
「道、分からないでしょう」
振り返ると、腕を組んだまま、美桜が私を見ていた。
「途中まで送るわ」
「へぇ!?」
「何よその反応」
「あ、えーっと、うん! ありがとう、そうしてくれると、嬉しいな……」
いきなりのことでビックリしてしまい、変な声を出してしまった。
まだ整理が追いついていない私をよそに、美桜が事務所のドアを開ける。
「何してるの? さっさと行くわよ」
「う、うん!」
私は急いで靴を履いて、美桜の背中を追いかけた。
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