第16話 面影をなぞる

 それから一週間経った頃だった。


 家で、お父さんが顔を真っ青にして項垂れている。声をかけるのもはばかられる空気だったので、あたしはそっとお父さんの後ろを通り過ぎて冷蔵庫からお茶を取り出した。


「やばいかもしれんのぉ」


 また、口調が老いている。お父さんは追い込まれるとよく、おじいちゃんになるのだった。


「最初から分かってたことなんじゃないの? まさか、倒産とか言わないわよね、お父さん」

「それは、大丈夫だとは思うが」


 程度の低いダジャレに付き合う余裕はないようだった。


「広告費に取って置いた預金を大口のお得意様に貸してしまって……今月までに返済してくれるはずだったんだが、さっぱり連絡が取れなくなったんだ。まぁ、ちょっと忙しい時期なのかな、はは、ははは」

「すっぽかされたんでしょ。そうやって横の繋がり作ろうとするから足元掬われるのよ」

「や、やっぱりそうなんだろうか! ど、どうしよう! 来月までは大丈夫だが、それ以降はかなり大変になる。早い内に事業を開始しないとならないんだが」

「アイドルが見つからないと」

「ああ……広告費もないから、知名度のないアイドルを雇うのは難しいな。けど、そんなことも言ってられないし。しょうがない、へそくりを崩すか、ロードバイクを売ってみるか」


 そんなお父さんの話を、台所で料理をしていたお母さんは鼻歌を歌いながら聞き流している。おそらく、金銭面の話は、生活に影響するほどのものではないのだろう。


 きっとお母さんは、お父さんの趣味が一個減ってくれるのをありがたがっているに違いない。


「はぁ」


 なにやってるんだか。


美桜みおこそどうなんだ。最近は小説の話を全然しないじゃないか。コンテストはどうなったんだ?」


 あたしが部屋を出ようとすると、お父さんが腕を組みながらそんなことを言った。


「小説はもう書かない」

「夢はどうしたんだ夢は」

「人の心配してる場合じゃないでしょ」

「たしかに!」


 お父さんが再び悩み始めたので、あたしは自室に戻ってベッドに寝転んだ。


 夢、夢って、バカみたい。


 そんなもの、永遠には続かない。


 だって夢って、いつかは醒めるものじゃない。




 昼休み、弁当を持って校舎の中を歩いていたら、いつも座っている中庭のベンチに人が座っているのが見えた。


 ついてないなと思いつつも、別にあたし専用の場所ってわけじゃないし。


 ただあそこは、かえでが好きな場所だったのだ。お昼になるとあったかい日差しが当たって、気持ちがいいんだって、あたしに教えてくれた。


 楓がいないのなら、あそこに執着する理由はない。


 あたしは静かに食べられる場所がないか探して、最終的に屋上へ続く階段へ辿り着いた。


 屋上は基本的には閉鎖されているけど、先生に許可を取れば鍵を貸してくれる。とはいえ、いまどきわざわざ屋上でお昼を食べるような人はいない。


 ここなら静かに食べられるだろうと思って、階段の踊り場で弁当を広げた時だった。


 屋上から声が聞こえた。話し声ではない。歌うような、伸びる声だった。


 ……なに? 屋上に誰かいるの?


 扉にかかった錠は開いていた。あたしはおそるおそる、屋上の扉を開く。


 そこには、音儀おとぎ白雪しらゆきの姿があった。


 タブレットをスタンドに立てて、お腹を押さえながら、何かを歌っている。


「ここのところずっとああなの」


 いきなり後ろで声がしたので、思わず振り返った。


 あたしの後ろから屋上の様子を覗き見ていた吾妻あずま先生は、驚いているあたしをよそに、音儀白雪の姿を優しい目つきで見守っている。


「何をやってるんですか、あれ」

「アイドル復帰を目指して、頑張ってるんだって。お昼休みになるとね、必ず私のところに来て屋上の鍵を貸してくださいって言うの。毎日ああやって、レッスンをしてるんだって」

「そんなのスタジオでも借りて……」


 そこまで言って、音儀白雪が今は事務所に所属していないフリーのアイドルだったことを思い出す。


「なんで、今更」

「それは……きっと、色々あるんだよ」


 吾妻先生は、何か事情を知ってそうな口ぶりだった。


 ふと、音儀白雪の鼻から血が流れた。雪のように白い肌に、赤いものが流れる。ここからでも視認できるほどだった。


 無理して高い音を出そうとしすぎだ。あれでは、身体に負荷がかかりすぎる。


「ああ、練習しすぎだよ音儀さん……」


 吾妻先生は、心配そうに言って、行こうかどうか迷うように、身体をうずうずさせていた。


「吾妻先生は、なんでそんなに音儀白雪のこと応援してるんですか。ファンでしたっけ」

「ファン、っていうか、なんだろうね」


 吾妻先生は、どこか懐かしいものを見るように、目を細めた。


「放っておけないんだ。ああいう子」

「面食いですね」

「だ、誰が面食いですか! そうじゃなくって、なんていうか、ああやって、不器用に、でも真っ直ぐに頑張ってる子って、カッコいいじゃない?」

「まぁ……」


 音儀白雪は、シャツに鼻血が垂れて、始めて鼻血が出ていることに気付いたようだった。慌ててハンカチで拭くけど、かえって汚れを伸ばしているだけだった。


 すぐに洗いに行けば良いのに。音儀白雪はまだレッスンを再開する。


「似てるよね、ちょっとだけ。ああいう頑張り方は」

「は? 何にですか」


 吾妻先生は最初から教える気などなかったのだろう。あたしが聞くと、含みのある笑い方をして、音儀白雪に視線を戻した。


 チャイムが鳴ると、吾妻先生が飛び上がった。


「や、やば! 午後の授業遅刻しちゃう!」

「先生が遅刻はマズイですね、急いだ方がいいですよ」

「生徒もね!? 櫻坂さくらざかさん、音儀さんにも早く教室戻るように言っておいて!」


 吾妻先生は転がるように階段を降りていってしまった。


 なんだか最近、いろんなものを押しつけられているように感じる。


 あたしが屋上の扉をわざと音を立てて開けても、音儀白雪は気付かない。


 近くまで言って「ねぇ」と声をかけて、音儀白雪はようやくあたしを見た。


「み、さ、櫻坂さん!?」


 みってなんなの。この女は、驚くと「み」と言うのか。


「もう予鈴が鳴ったわ。そろそろ切り上げたら?」

「あ、もうそんな時間!? 全然気付かなかった……! 教えてくれてありがとう、櫻坂さん」


 音儀白雪はガチャガチャとタブレットを片付け始めたが、立てかけてあったペットボトルが落ちて水がこぼれた。慌ててキャップを閉める音儀白雪と目が合う。音儀白雪はにへらと笑ってから、あたしの目の前を通っていった。


「アイドル、復帰するの?」


 あたしは地面についた黒いシミを見下ろしながら言った。


 音儀白雪は、足を止めて、一拍おいてから「うん」と力強く答えた。


「絶対、アイドルになる」


 カラフルマーケティングのオーディション会場で会った時もそうだった。音儀白雪は、顔をあげて、胸を張って、けれど、自信なさげに、瞳を震わせる。


 本当に、変な奴だ。


 あれだけ、アイドルという職業に対して誇りもプライドも持っていなかったのに。いや、きっと今も、そんなものは持っていないんだろう。


 それなのに、音儀白雪は鼻血を出しながら、水をこぼしながら、決して格好良いとは言えない努力を積み重ねている。


「とはいっても、全然、オーディションにも落ちまくりなんだけどね、あはは」


 そのくせ、自虐をする。自分なんか取るに足らない存在だと、卑下しながら、それでも前へ進む。


 この地面に落ちた黒い染みだってそうだ。さっきこぼした水だと思っていたけど、違う。これは、音儀白雪が流した、汗で出来た染みだ。


「あっ、って、時間、櫻坂さんも、急がないと!」


 音儀白雪が走って行く。屋上の扉に手を掛けた。


「じゃあ、来る?」

「え?」


 自分でも、嫌気が刺した。


 場所も、言葉も、まるっきり。楓と出会った時と一緒だ。


「うちの事務所」


 音儀白雪は、ピタッと動きを止めて「いいの?」と言った。


 そういえば、あたしのお父さんが事務所を経営しているということを省いて話してしまった。しかし、音儀白雪は特に気にした様子はなかった。


「オーディション、受けてもらってからだけど、受かるかどうかは知らないわ。それでもいいなら」

「う、うん! 全然いいよ! よ、よかったぁ。実は応募時点で断られることも多くって、オーディション受けさせてもらえるだけで嬉しい! ありがとう! 櫻坂さん!」


 あたしの手を握って、ぴょんぴょんと跳ねる音儀白雪。


 どうしてだろう。こんな奴、放っておけばいいのに。


 喜ぶ音儀白雪を見ながら、あたしは、さっきの吾妻先生の言葉を思い出していた。


 そうなのかもしれない。


 この不器用さ、アンバランスさ。危うさと、自信のなさに共存する、推進力。


 ほんの少しだけど。


 似ているのかもしれない。

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