第15話 折れた筆
昔から笑うのが苦手だった。
人が言う楽しい嬉しい、という感情は、私にとって好奇心や興味に似ているものだと思っていたが、それは違ったようだ。
美味しいものを食べて、また食べたいと思っても。楽しい絵本を読んで、また読みたいと思っても。大人は、笑わないあたしの将来を心配した。
大人はきっと、子供を自分の映し鏡にしたいんだと思う。意地でも自分が通った道を歩いてもらいたいと思ってる。そういうの、押しつけと言うんじゃない?
そう言って、怒られたことも何度かあった。
感情を表に出すのは苦手だったが、感情を言語化するのは得意だったあたしは、いつしか自分の思ったことをノートに書き記すことにした。
今思えば、それが小説を書き始めたきっかけだった。
人間と向き合うよりノートと向き合っている時間の方が長かったあたしは、どんどん人間との関わり方を忘れていった。本当はもっとあたしから歩み寄ればよかったのに、どうせ誰も受け入れてくれないと諦めるばかりか、他人を見下すようになった。群れる人間はバカだと、自我のない機械だと。
そう思わないと自分を正当化できなかった。それが悔しくて、ノートに書き記される感情は、ナイフのように鋭く、誰かを攻撃するようなものばかりになっていった。
それは、はじめて自分の書いた小説をコンテストに出したとき、帰ってきた評価シートにも書かれていた。
物語は愚痴を吐き捨てる場ではないのだと、一蹴されたのだ。
「なんで誰も、受け入れてくれないの」
あたしは屋上から、小説の原稿を破り捨てた。
あたしだって、楽しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣く。だけどあたしはみんなみたいに表情を上手く作れないから、だから文字にして表現した。
それなのに、あたしはいつのまにか、誰かを攻撃する文章ばかり書いていた。バカな大人たち、くだらない世界、みみっちい人生。そんなことばかりを羅列して。あたしは文字でも、誰にも受け入れてもらえることはなかった。
「これ、あなたの!?」
屋上の扉が開いたのは、さんざん泣いて、涙が枯れた頃だった。
突然現れたその女の子は、ビリビリに破いたはずの原稿の切れ端を持って、息を切らしている。
「あなたが、書いたの!?」
「そうだけど」
「あっ、ご、ごめん……」
不思議な子だった。
茨の道だって突っ切ってしまような勢いをさっきまで持っていたのに、突然失速して、まるで自分なんか生きてる価値もないとでも言うような絶望的な表情を浮かべて、あたしから距離を取る。
「で、でも、この、一節……すごく、よかった」
その子は破れた原稿用紙をくっつけて、まるで我が子をあやすかのような手つきで撫でた。
「誰が言いなりになるか、ばーか、って」
「え?」
「わ、私と同じことを思っている人がいて、なんだか、救われた気がした……あっ、急にこんなこと言って、キモいよね、ごめんね!」
その子が弾かれたように踵を返したので、あたしは慌ててその子の腕を掴んだ。
「家に、まだあるの」
「そ、そうなの!?」
その子は目をキラキラさせて、あたしの手を握った。
もしかしたら、思い違いかもしれない。
「良かったら、来る?」
あまりにも衝撃的だったから、脳が都合の良い解釈をしているのかもしれない。
「う、うん!」
とんだ勘違いかもしれないけど。
あたしはその時、初めて人間を好きになりたいと思えたのだ。
「
あの日握った手はあんなにも温かかったのに、墓石はこんなにも冷たい。
雨が降ってきたので、もう一度墓石を綺麗に拭いて、あたしは墓地を後にした。
私は楓がいなくなってからというもの、毎日ここの墓地に来ている。
昔はお墓のことを、死んだ人間の骨が埋まっているだけの石だと思っていた。
けど、大切な人を失って初めて分かる。縋るものがあるというのは、これほどまでに救われるものなのだ。
ただの石に語りかける。死んだ人間に届くわけもない。宗教的だ。それでも、私にできることは、もうこれしかないのだった。
家に帰ると、お父さんが難しい顔でパソコンを睨んでいた。おおよそ、経理周りが回っていないのだろう。
あたしがカバンを置いた音で気付いたのか、お父さんが顔をあげる。
「誰か、いいアイドルいないか?」
「それを探すために事務所を作ったんでしょ。バカなの?」
「言い過ぎじゃ」
何故かおじいちゃん口調になっている。悩みすぎて、いっきに老いてしまったのかもしれない。
お父さんは背にもたれながら、ため息を吐いた。
「どこかにいないかなぁ、顔も名前も売れてて、どこの事務所にも所属してないフリーの子」
「そんな都合のいい夢を見るより、ちゃんと仕事してよ。白米と漬物だけの生活は嫌だからね」
「ふん! 金の心配はいらん!」
とか言いながら、再び頭を抱え始めるお父さん。
事務所を立ち上げて、一年も経たずに破産では、世間にも、お母さんにも、メンツが立たないだろう。
あたしもお父さんには成功してほしいし、新しいうちの事務所で誰かが夢に向かって羽ばたいてくれるのは、アイドル好きなあたしにとっても嬉しいことだ。
どうにかしてあげたい気持ちはあるけれど、こればっかりは……。
二階にあがって、自分の部屋に入ると特段やることもなく机に向かった。
パソコンに手を伸ばしたが、キーボードを押し入れにしまったことを思い出して、そのまま机に突っ伏した。
頬に当たる机の冷たい感触を感じながら、投げ出されたマウスをぼやっと眺める。
楓が死んでから、あたしは小説を書けなくなっていた。
あんなに感情を言語化するのは楽しかったのに、あたしが考えた物語を面白いと言って貰えるのは嬉しかったのに。今では文字を打つことすら億劫だ。
けど、それも当然かもしれない。
だって、書いた小説を見せる相手が、そもそも、もういないのだから。
「楓……」
テーブルに突っ伏したまま、目を瞑る。
「楓がいないと、あたし……」
また、逆戻りだ。
嫌いだった世界。鬱屈だった生活と、剥き出しの感情。誰かを傷つけるばかりの言葉。
この世の全部を憎んでいた頃のあたしに、また戻ってしまう。
あたしはお母さんが晩ご飯に呼びに来るまで、楓の名前を繰り返し呼び続けていた。
睡眠もまともに取れなくなっていた。目にクマはできて、なおさら目つきの悪さが助長される。
もう、どうでもいいか。
嫌うなら嫌えばいい。あたしも、あんたたちのことが嫌い。この世界が、死ぬほど嫌いだ。
学校での生活も、特に楽しみはなく、無味無臭の毎日だ。もうじき体育祭があるということで校内は盛り上がっているように見えるが、あたしはそんな行事まったく興味ない。
生徒は必ず何かの係にならなければならなかったので、あたしは一番仕事の少ないパネル係になった。どうせ美術部の人たちが、あたしの変わりに書いてくれるだろうし、ミーティングにあたしがいかないくらいでは、支障はでないはずだ。
楓がいたら、きっとパネル係を選んでいたはずだ。そしたらあたしは、また違う理由でパネル係になっていたのかもしれない。
「あ、
昼休みに廊下を歩いていたら、上級生に話しかけられた。とはいっても、面識はない。
「何の用ですか?」
あたしと目が合うと、その人は一瞬たじろいたが、あくまでフレンドリーに、という空気をわざとらしく充満させて口を開いた。
「実は緑軍のパネル係、二年生の子だけ来てないの」
そういうことか。
要は、集まりくらい来たらどうなんだという催促の話らしい。
しかし、二年生だけ来てないというのが気になる。あたしは確かに一度も顔を出していないが、同じパネル係である
とりわけ、あたしがミーティングに顔を出さないのは、音儀白雪がミーティングに出ているのだしいいだろう、という思いもあったのだ。
「音儀さんも最近は全然来てくれてないし。今日も探しているんだけど中々見つからなくって。よかったら櫻坂さん、音儀さんにも言っておいてくれない? そろそろ書き始めたいから、人手が欲しいんだって」
そういえば、音儀白雪は最近、昼休みや放課後になると教室を飛び出してどこかへ行っているようだった。前みたいに妙な突っかかりかたされても迷惑だし、あたしはありがたいのだけど。
「分かりました。見つけたら、声をかけてみます」
「ありがとう! じゃあ、お願いね!」
あたしが頷くと、その人はホッとしたように息を吐いて、来た道を戻っていった。
なんであたしが……。
そもそも、なんで音儀白雪はパネル係なんかに入ったの? おかげでいらない仕事押しつけられちゃったじゃない。
申し訳ないけど、あたしはまだ音儀白雪のことを許していない。
そもそも音儀白雪といえば、炎上して引退したアイドルとして一般人には知られているが、その炎上の発端は番組のプロデューサーと身体の関係を持っていた事が発覚したからだ。
アイドルとして、最もやってはいけないことを音儀白雪はやった。当然、番組のプロデューサーも一緒に干されて、芸能界では音儀白雪という名前を出すだけで突っぱねられるほど、音儀白雪は腫れ物として扱われている。
それに、音儀白雪。あいつは、誰から聞いたのか知らないけど、楓のことを平然とあたしに話して。それで、あろうことか楓の死を、侮辱したのだ。
放課後、上級生に言われたことを思い出して音儀白雪に話しかけた。
「え、あ? 櫻坂さん!?」
あたしに話しかけられると、音儀白雪はビクッと肩を震わせて顔を上げた。
その拍子に流れた髪は、赤みがある毛色ということもあって流砂のようだ。真珠のような瞳は、まるで星が瞬くように煌めいている。一切の無駄を省いた輪郭に、艶のある唇。けれど、童顔ではなくどこか気品のある女性らしい顔立ち。
こいつは腐ったアイドルだ。間違いない。
けれど、顔だけは、本当に一級品だ。悔しいけれど。
「パネル係のミーティングちゃんと出てって、三年生の人が言ってたわ。あたしは今日行くけど、あなたは?」
「あ、えーっと」
音儀白雪は現役時代とはほど遠い決まりの悪さで、あたしを見たり、窓の向こうを見たりした。挙動不審だ。
「ごめん、今日は行けない!」
風船に空気でも入れすぎたのだろうか。パン! と弾けるような音と共に音儀白雪は立ち上がって、廊下へと走って行った。
「ちょっと!」
なんなの? あいつ。
転入初日は、やたらあたしにひっついて来たくせに。
ここ最近は、常に急がしそうにしている。
引いたままの椅子を戻して、あたしは教室を後にした。
そういえば、楓も椅子を戻し忘れることが、よくあった。
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