第7節

「燈子!」


 右手に人魚の屍体を掴んだまま橋の上を歩いていると、前方から亜鈴が走り寄ってきた。大量に出現していた眷属体は人魚の死亡と同時にその姿を消したようで、亜鈴達は負傷者の介抱を行なっている最中だった。燈子の体を侵食していた魚鱗も既に泡沫の如く消滅していた。


 亜鈴は燈子の姿を間近に捉えると、その表情に絶望の色を浮かべだ。


「燈子、貴方……、左腕が……」


 亜鈴に指摘されて、ああそう言えば、と燈子は自身の惨状を思い出した。戦いによる疲労感と人魚の断末魔に意識を割かれていたせいですっかり忘れていた。欠損した左腕に視線を向けると、脳がたった今損傷を認識したかのように痛烈な痛みが襲ってきた。


「ああ、これ。最後人魚に組み付く時に持って行かれちゃって」


 自身の酷い有様に反して、燈子の口から出た言葉は酷く落ち着き払ったものだった。それが腕を失った人間が見せる一般的な反応から随分と離れたものだったせいか、亜鈴は見るからに混乱していた。


「あの、えっと……。燈子、貴方左腕がなくなったんですよ。なのにどうしてそんなに冷静でいられるのですか⁉︎」


 亜鈴のその言葉を聞いて、そう言えばまだ自分の体についてちゃんと説明していなかったな、と燈子は内心で思った。ならば彼女の狼狽えようにも納得がいく。


「そんなに焦らなくても大丈夫よ、亜鈴。左腕くらい、一日経てば勝手に元に戻るから」

「???」


 亜鈴の混乱はますます深まっている様子だった。


 燈子としても亜鈴の疑問をすぐに解消させたいのは山々なのだが、説明にはそれなりの時間を要する。ならば話をするのは今ではなく、もう少し状況が落ち着いてからの方が好ましい。


「それも含めて、私のことについては時間が出来たらちゃんと話すから。それより先に、今は負傷者の治療と戦後処理を終わらせないと」

「……分かりました。話はまた後程聞かせて頂きます。大妖を討伐した後に話すと言ったのは貴方なのですから、約束はしっかりと守って下さいね」

「ええ、勿論」


 亜鈴と言葉を交わしながら、燈子は前方の様子を眺めた。予想していた通り、負傷者はかなり多いように見えた。現在橋の上で介抱に当たっている人員は十人弱といったところか。


「亜鈴、貴方の従者の被害状況は?」

「軽症八名、重傷十名、機能停止に陥ったのが十二名です」


 淡々と述べた亜鈴の言葉の中には、違和感のある表現が含まれていた。燈子自身も彼女の従者から救援を頼まれた時に薄々察してはいたのだが、ここでようやく確信が持てた。


「ねえ亜鈴、亜鈴の従者の方達ってもしかして」

「はい、側近の霧島を除いて、全員が私の手で創られた擬似生命、高位の式神です。ですから今回の戦いにおける戦死者はゼロ。救援に来てくれた際に散々文句を述べた私が言える義理ではありませんが、死人が出なかったのは貴方のおかげです。ありがとうございます、燈子」


 そう語る亜鈴の声音は、妙に平然としていて、そして心の奥底にある感情を必死に押し留めているように燈子には感じられた。


「ごめんなさい、亜鈴。私がもっと上手く立ち回れていれば」

「謝る必要はありません。戦地に赴いた以上、犠牲を全く出さずに事を終わらせるのは不可能です。状況を鑑みた上でも、必要最小限の犠牲で勝利を得られたのは確かでしょう。まずはそこを喜ぶべきです。

 それに私が窮地に陥った時、従者達は貴方に私の救援に向かうよう頼んだのでしょう? その時点で彼女達も自身が犠牲になる覚悟は出来ていた筈です。彼女達の死を悲しみ後悔するのではなく、その心意気を褒めることこそが、生き残った私達が死した彼女達に贈れる最大の賛辞であると私は思います」


 亜鈴は決然とした表情で、そう言い切った。


 燈子は亜鈴のその姿を見て、——ああ、彼女は正しく士族の当主なのだな、と思った。

外見は未だ幼くとも、人の上に立つ者としての心構えと覚悟は既に完成している。

 個よりも全を優先し、悩みはすれども迷いはしない。その在り方を、彼女は既に体現している。


 初めて亜鈴に会った時、幼さに似合わず妙に大人びた少女だと燈子は思った。

 それはきっと、彼女が幼少の時から当主としての役目を背負ったからに他ならない。彼女を取り巻く環境が、きっと亜鈴の精神性を早期に大人の領域へと押し進めたのだろう。


 燈子は亜鈴の在り方を尊敬している。自身が未だ到達していない覚悟の域に、自分より二歳も年下の少女が至っている事実に憧憬の念すら抱く。

 けれど同時に、その姿からは割れる寸前の氷の上を歩いているような危うさも感じられた。


 亜鈴は当主に相応しい心構えを完成させてはいるが、それと同時に一人の一四歳の少女であることもまた事実だ。当主の顔に埋もれてはいるが、少女としての彼女の弱さも確かに存在する。その片鱗を燈子は昨夜も、そして今日の戦いの最中にも垣間見ていた。


 昨日の夜、亜鈴は自分から逃げようとした燈子を見て、向けられる奇異の視線を恐れ、孤独に怯えていた。

 今日の戦いの最中で、亜鈴は助けに来た燈子に怒りながらも、最後には安堵と喜びの表情を浮かべていた。


 燈子は不安に思ってしまう。人生で初めて出来た友人の心が、当主としての役目の重さにある日突然ポキリと折れてしまわないかと。彼女の周りにいる従者達はその危うさに気付いているのか、いや、気付けるのだろうかと。

 きっと問題の根は深い。なぜなら、おそらく亜鈴当人が自身の危うさに気付いていないだろうから。本人に直接指摘したとしても、彼女がそれを自覚出来るかどうかも正直なところ怪しい。


 なればこそ、自分が友人として亜鈴を出来る限り支えてあげよう、と燈子は思う。お互いの物理的な距離や役目の関係上、頻繁に顔を合わせるのは難しいだろうが、亜鈴の式神を伝書鳩代わりに手紙のやり取りをするくらいは可能だろう。親しい誰かと繋がっている感覚があるだけでも少しは気晴らしになる筈だ。あとは彼女の側近である霧島に、燈子が感じている懸念を伝えて常に気にかけておいてもらえば良いだろう。


「そうね。亜鈴の言う通り、身命を捧げた勇士達には哀悼ではなく礼賛こそが相応しいと私も思う。それじゃあ、私達も戦後処理に入りましょうか」

「はい。それではまず初めに燈子。ずっと右手に持っているそれはどうするのですか? 随分と変わり果ててはいますが、姿形からして、それが人魚の亡骸なのでしょう?」


 亜鈴に指摘されて、燈子は枯れ木と化した人魚の屍体の存在を思い出した。最初は適当に海に放り投げておけば良いと思っていたのだが、人魚の断末魔に憐憫を感じてしまったせいか、ただ打ち捨てることに妙な罪悪感を抱いてしまっていた。


「うーん。特に考えてはいなかったんだけど、どうしようか、これ」

「でしたら私が貰っても良いですか? 折角なので、色々と試してみたいことがあるのです」


 そう言う亜鈴の瞳には、好奇心の光がチラついていた。もし亜鈴が当主以外の人生を歩んでいたとしたら、きっと学者にでもなっていたのだろうな、と内心で思いながら燈子は人魚の屍体を亜鈴に渡した。


「それで色々試したいって、何をするつもりなの?」

「そうですね、やはり最初は解剖からですね。大妖の死体が手に入る機会など二度とないでしょうから、まずは体の仕組みを解明しなければ」

「水分抜けて干からびてるけど、解剖なんて出来るの?」

「方法はこれから考えます。……乾燥しているのですから、ワカメのように海水に浸せば元に戻ったりしないでしょうか」

「それは……、多分無理だと思う……」


 人魚の屍体を掲げ持って饒舌に語る亜鈴に苦笑いを浮かべながら、燈子は海岸の方へと歩き出した。




 彼女達の上空を覆う天蓋は、未だ黄昏色に染まっている。

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