第6節(4)
人魚の元へと急ぐ燈子の移動速度は、開戦直後の精彩さを欠いていた。原因は負傷した左手にあった。左手が動かせないために体運びのバランスが崩れ、全速力が出せなくなっているのだ。とは言っても足腰は健在のため、到着までの時間が三十秒余計にかかるだけなので特に問題にはならなかった。
橋を五百メートル程進むと例の如く鰯の群れが突撃を開始してきたが、炎の鎧を纏う燈子には何の障害にもならない。
そして橋の中程で展開されている亜鈴の従者達と鳥型眷属の交戦地帯に足を踏み込んだ。
交戦地帯では燈子の予想通り、従者達の半数が負傷で動けなくなっていた。燈子は走りながら火属性の中級呪術『炎柱』を横方向に放ち、両者の戦闘に乱入する。それで地上で従者達と戦っていた鳥の内、二十羽が消し炭になる。上空から遠距離戦を仕掛けられた際は苦戦を強いられたが、地上にいる分には厄介な鳥達も燈子にとっては雑魚同然だった。
従者達に援護を加えつつ、燈子はそのまま走り抜ける。人魚との距離が二百メートルまで縮んだ所で、赤黒い相貌と視線が交差する。そこには「愚か者がまた無駄骨を折りに来たか」と言わんばかりの嘲笑が含まれていた。
燈子はそれを無視して人魚に向かって特大の火球を三発打ち放った。火属性上級呪術『爆炎球』。対象物との接触時に爆発を引き起こし、周囲に炎と熱波を齎す、広範囲殲滅用の術である。その変わりに局所的な破壊力には欠けるため、人魚のような強力な個を倒すには不向きな術でもある。それを見抜いたためか、人魚は攻撃を防ぐ素振りも見せず、ただ受けるに身を任せていた。
しかし燈子はなぜ、わざわざ相性の悪い術を人魚への攻撃手段に選んだのか。それは至極単純明快。燈子の狙いは人魚に傷を負わせることではなく、攻撃と見せかけて自身の姿を眩ますことにあったからである。実際、人魚の前方の視界は爆発した炎によって遮られていた。
爆炎球を放ち終わった燈子は炎の中に身を躍らせ、姿を隠したまま人魚へと近づいていく。そして橋が途切れた所で跳躍し、爆炎から姿を表すと同時に人魚へと飛びかかった。
ここからは人魚との秒刻みの駆け引きが勝敗を左右する。
人魚は爆炎の中から突然飛び出して来た燈子に面食らった様子だったが、すぐさま血刃で応戦した。血刃は燈子の左の肩口に食い込み、傷だらけになった左腕を切断しながら後方へと飛んでいった。左肩の切断面から、蛆虫うじむしに体を侵食されるような不快感が伝わって来る。おそらく人魚の血に触れたことで侵食が始まったのだろう。
燈子は血刃に体の勢いを減衰されながらももがいてバランスを取り、伸ばした右手で人魚の首元を掴み込んだ。
燈子が人魚の首を鷲掴んだ瞬間、人魚が急に悶え苦しみ出す。それと同時に、燈子は右手から莫大な力が流れ込んで来る感覚を抱いた。
人魚の苦しみ方は尋常ではない。それは腹を鮫に食い付かれた鯨のような、己が捕食されるという根源的な恐怖から必死で逃げ出そうとする動物の姿そのものだった。
これで、燈子の狙い通りの状況へと持ち込むことは出来た。
燈子が実行した作戦とは、燈子と人魚による、純粋な一対一の我慢比べである。より具体的な表現をするならば、燈子が眷属として取り込まれるのが先か、人魚が命を食い尽くされるのが先かの勝負である。
※ ※ ※ ※ ※
天神国に伝わる御伽噺の一節に、こんな問い掛けがある。
曰く——春が訪れると、桜の樹が目を奪われる程に美しい花を咲かせるのはどうしてか?
問い掛けの答えはこうである。
——それは、桜の樹が屍体の養分を吸い取って生育する恐ろしい植物だからだ。
この御伽噺では、桜が美しい花を咲かせる理由に、「生き物の命を糧として成長しているから」という論理を当て嵌めている。命を吸い取るくらいのことをしなければ、これ程万人を魅了する花を咲かせられる筈がないだろうと。
この御伽噺は天神国内において比較的知名度の高いものであるが、同時に、あくまで創作上の作り話であるということも広く知られている。実際、桜が生育で必要とする栄養源は他の植物と同じであるし、美しい花を咲かせるのは桜の遺伝的要素と天神国人の感性が影響しているにすぎない。所詮、御伽噺は御伽噺、ということである。
ところで、どうして今こんな話を持ち出したのか。それは、ある少女についての説明を行うためである。
今から十七年前。名士のひとつである緑川家の当主の娘として、一人の少女が生まれた。少女は生まれつき他者には見られない特殊な能力を宿していた。それは植物・生物を問わず、触れた者の生命力を無尽蔵に奪うという、呪いに類する力であった。
少女が幼少の頃、少女の呪について知っていたのは緑川家の当主である少女の父と、その弟だけであった。情報が必要最低限の人物だけに秘されたのは、ひとえに少女を出来るだけ普通の子供として育てたいという、父親の親心が反映されたが故だった。
しかし少女が五歳の時に父親が死に、彼女の呪いは一族内で広く知れ渡るところとなった。一族内では少女の処遇について議論が交わされ、それは紛糾した。得体の知れない力を持つ少女を恐れて殺処分を主張する者達と、力があるのだから戦力として有効活用するべきだと主張する者達に二分されたからだ。
結果として、彼女を取り巻く当時の情勢が少女の命を救った。ひとつに、次の厄災の発生が十年後に迫っていたこと。ひとつに、緑川家の手によって傘下に堕ちた『黄子家』が再び反乱の兆候を見せ始めていたこと。そして、次期当主に就任した少女の叔父が、無駄を嫌い実利を優先させる人物であったこと。他にも要因は色々とあったが、最終的に少女は将来的な兵器としての期待を寄せられ、命を永らえたのである。
しかし父親が亡くなったことで、少女の生活は一変した。
唯一の庇護者がいなくなり、少女は孤独になった。一族の人間は少女の力を恐れ、誰も近付こうとはしない。偶に話しかける者がいても、それは少女を気遣ってのことではなく、自分達が所有する武器が錆び付いていないかの確認をするためのものであった。
少女には味方がいなくなった。誰も彼も、少女を守ろうとしてはくれない。少女の心を労ろうとしてくれる者はいない。唯一近しい存在であると言える叔父は少女を戦いの道具としてしか見ておらず、声をかけるのは業務命令を行う時だけであった。
その少女こそが『緑川燈子』であり、彼女が生来持つ能力は先程紹介した御伽噺に準えて『桜の呪い』という俗称が現在では付けられている。
十年前になされた目論見通り、燈子の呪術師としての才能は他の士族とは一線を画すものへと成長した。
保有呪力量は平均のおよそ三十倍。『植物』、『火』、『土』の三つの属性に適性を持ち、植物属性と火属性に至っては五段階の最高位『絶級』までの術が使用可能。また生命力を吸い取るという呪いの副産物によるものか、脳と心臓さえ無事なら、どんな重傷でも一両日あれば回復するという人外ぶりである。
燈子は叔父に命じられるがままに、様々な場所で力を振るった。今もなお、周囲の人間達に望まれた通りに、彼女は兵器としての役目を果たし続けている。そして厄災が始まってからは、妖をひたすら屠り続ける日々を送っていた。今回零幻島を訪れたのも、その内のひとつに過ぎなかった。
※ ※ ※ ※ ※
燈子の呪いによる生命力の吸収速度は尋常ではない。一般人であれば五秒、士族であれば十秒、名士の当主相当であっても三十秒あればその命を食い尽くせる。
しかし燈子が相対する人魚の生命力もまた人の域を超えたものだった。人魚の首を掴んでからそろそろ二分が経過しようとしているが、未だその全てを奪い尽くせてはいなかった。
しかし勝負は既に決していた。人魚の動きは明らかに精細さを欠き、青く輝いていた魚鱗も色褪せて茶色く変色しつつある。時間はかかったが、あと一分もあれば人魚の命その全てを奪い取ることが出来るだろう。人魚も首を掴まれてから何度も抵抗を試みているが全てが失敗に終わっている。今も手元で血刃を形成しようとしたが、形を成す前に崩れ去りただの血液に還ってしまう。
一方、燈子の体にはまだ余裕があった。左肩から始まった侵食は未だ上半身の半分と頬の辺りで留まっており、あと二、三分は耐えられるだろう。
人魚は生命力を更に奪われ続け、体は次第に痩せ細っていき、鱗は朽ちた大木の色へと近づいていく。人魚の命は風前の灯となりつつあった。もう人魚には、燈子を害する手段もそのための力も残ってはいない。燈子は勝利を確信した。
しかし人魚は往生際悪く、最後の抵抗を示して右腕を燈子の首元へと伸ばしてきた。燈子は人魚の動作を遮ることはせず、ただそれを眺めるに留めた。その時だった。
『カ……エ、セ。カエ……セ。ワタ、シ……ノ……、…………ヲ、カエ……、セ……』
人魚は燈子の首を弱々しく掴みながら、赤黒い両目から血の涙を流して干涸びた声を発した。
その所業に、燈子は驚愕で両目を大きく見開いた。
——妖が、人の言葉を喋った……?
燈子が驚きに囚われている間にも、人魚の体は死の相に包まれていく。そして燈子が人魚の生命力を奪い始めて三分が経過した頃、人魚の右腕は糸が切れた人形のようにダラリと力を失い、瞳からも意思の輝きが消えた。燈子が正気に戻った時には、既に即身仏の姿へと変わり果てた人魚の死体が、彼女の右手に握られているだけだった。
燈子の心中には、強敵に勝利した高揚感など微塵も湧かなかった。人魚が死ぬ直前に垣間見せた、悲しそうに泣き叫ぶ姿がいつまで経っても脳裏から離れない。
——人魚が最後に見せた悲しそうな表情。あんなの、理性のない化け物なんかじゃなくて、まるで……。
人魚の消滅に併せて心地良い海風が吹き始める中、理解の出来ない後味の悪さだけが燈子の中に残り続けた。
こうして、此度の厄災における二体目の大妖『人魚』の討伐は、天神国の歴史においても稀に見る少数精鋭の下、此処に成ったのである。
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