第6節(1)
燈子が零幻島に到着してから三日後、天神歴一七〇二年十月二十七日午前九時。
燈子と亜鈴、そして黒装束を纏った亜鈴の三十人の従者達は、燈子が上陸した場所とは反対側、島の東側に位置する砂浜へと集結していた。砂浜には燈子と亜鈴の二人が波打ち際に揃って立ち、その後ろに従者達が三列横隊で控える形だ。
これより始まるは妖退治の大捕物。本来であれば討伐に数百人が必要とされる大妖相手に、僅か三十二人の少数精鋭で挑む無謀に思える戦い。しかしそんな状況において、当事者である彼女達に緊張の面持ちはあれど、恐怖といった感情は感じ取れない。
燈子はふと視線を陽の昇りきった空に移し、黄昏色に変色した天蓋を見上げながら、何となしに頭に浮かんだ疑問を横にいる人物に投げかけた。
「この空を見て、亜鈴はどう思う?」
特に意味のある答えを期待した問いかけではなかった。しかし亜鈴の返答は思っていた以上に示唆に富んだものだった。
「特には何も。あるとしても、人とは存外にいい加減な生き物なのだなと思うだけです。空が異常をきたしていても、一年も同じ状態が続けば違和感を感じなくなるのですから」
全くもってその通りだ、と燈子は思った。
これを「慣れ」と言うのだろう。「適応力」と言っても良いかもしれない。どんな異常や違和感が生じていても、長く続けば人はそれを日常の中に埋没させ、自分達の「当たり前」の一つに組み込んでいく。それは人が生きていく上で必要な機能であるのは確かだが、ひと度日常の中に埋没した異常はそれ自体を異常と認識出来なくもなる。亜鈴が言っているのはそういうことなのだろう。厄災も、既に日常へと埋没した異常の一つになっていると。
燈子は視線を空から水平線の先へと戻す。濃藍色に染まった広大な海。その只中、前方二キロメートルの場所に、白霧に包まれた一帯が存在していた。霧の中からは薄らと、巨大な影が蠢くように見え隠れしていた。
「それでは最終確認を行います」
亜鈴の言葉に、燈子は静かに頷いた。
「今回私達が討伐するのは前方の霧の中に潜む大妖。事前の情報収集から『人魚』と呼ばれる個体と推定されます。人魚とは元来、その血を飲んだ者に不老不死の力を与えると言われていますが、大妖として出現した人魚が持つ能力は伝承とは少々異なるようです。あの大妖は自身の血を媒介として生物を妖化、眷属に変化させます。おそらく、既に海中生物の八割方は人魚の眷属と化しているでしょう。偵察で放った私の式神も何体か犠牲になっています。戦う際には相手の血に触れないよう、細心の注意を払って下さい」
ここまでを一息で言いきった亜鈴は、呼吸を整えるために一度深呼吸をした。そして続きを話し始める。
「そして戦闘形態ですが、前衛を燈子、後衛を私と従者の『霧島』、そして中衛を残りの従者二九人が担当します。前衛の燈子が大妖と相対し、中衛の従者達が眷属体の処理、後衛の私が式神を飛ばして戦場全体を援護します。役割的に燈子にかかる負担がかなり大きくなりますが、その点は問題ありませんね?」
「ええ、この中では私が一番火力を持っているからそこは心配しないで大丈夫。亜鈴も後衛といっても危険なことに変わりはないんだから、危なくなったらすぐに逃げてね」
今回の討伐戦は少数精鋭で行うため、最も人員を要する前衛を火力に富んだ燈子が一人で担当し、他の人員は全て燈子の補助戦力に回す形を取る。人数の少なさを可能な限り補うための人員配置である。
燈子は亜鈴の身を気遣いながらも自身の装備の最終確認に入った。
着ている服自体は島に来た時と同じ真紅の着物だ。しかし動きを阻害しないように、袖と足元はたくし上げられ、それぞれを帯で堅く結び止めている。露出した手足には籠手や脛当てが装着され、胸元では鎖帷子が見え隠れしている。燈子にとって防具を身に着ける必要性は大してないのだが、今回は大妖が相手である。どんな不測の自体が起こるか分からない。念のための措置というやつである。
そして最後に腰の両側に提げた呪符入れの中身を確認する。左右それぞれに百五十枚ずつ、合計三百枚。それが今回の戦闘で燈子が使用出来る呪符の総数となる。備えとしては十分な量と言えるだろう。ちなみに呪符の配分は、中衛を務める亜鈴の従者達も各三百枚、後衛から戦場全体を援護する亜鈴は多めに五百枚となっている。
自身の装備確認が終わり、燈子は横の亜鈴を見やる。彼女は丁度、目元の包帯を外している最中だった。
亜鈴の服装も普段と変わらず外套着のような黒服だ。内側には鎖帷子を着込んでいるとは言っていたが、後衛とはいえ防備の薄さは少しばかり不安になる。しかし彼女も名士の当主を務める以上それなりの力量はあるだろうし、近接戦に長けた従者が護衛に付く手筈になっているため問題はないだろう。
後ろの従者達にも視線を向けると、どうやら彼女達の準備も完了しているようだった。最前列にいる筆頭従者の『霧島』が燈子に向かって大きく頷きを返してきた。
「それじゃあ、始めて大丈夫? 亜鈴」
「はい、お願いします。どうかご存分に、燈子」
亜鈴の返答を合図に、燈子は腰元から呪符を十枚取り出し、それらを等間隔に砂浜へと並べていく。海上に佇む大妖相手にまず行うべきこと。それは自分達が戦うための足場作りである。
——『母なる大地は生命を育む』
燈子の呪力と詠唱に反応して、並べられた呪符が深緑色に染まる。するとすぐさま、それぞれの呪符を起点として巨大な樹木の根が生育を始め、グングンと沖に向かって伸びていく。十本の巨大な根は幾重にも枝分かれし、他の根と寄り合うように絡まり、三分程で横幅三十メートルの巨大な橋を形成する。橋は沖合に見える白霧のさらにその奥までへと続いている。これで戦うための足場作りは完了である。
燈子は木製の橋に何度か体重を掛け、耐久性に問題が無いことを確認してから亜鈴へと声をかけた。
「それじゃあ、行ってくるね。援護の方、よろしく」
「はい、お任せを。十分にお気をつけて」
燈子は全身に呪力を循環させ、己の身体能力を強化する。その状態を維持したまま、燈子は橋の上を全力で駆け抜け、大妖が潜む白霧へと向かって走り出した。
※ ※ ※ ※ ※
呪力を用いた身体能力の強化は、呪術師であれば誰もが行使可能な基本技能である。
身体能力強化によって向上するのは、筋力と持久力。向上幅は筋力が平均して約三倍、持久力は呪力が続く限り継続する。つまり、海上を全力疾走する燈子の移動速度は一般女性平均の三倍に当たる時速六十キロメートル。加えて持久力の向上により速度を落とす心配はない。身体能力を強化した現在の燈子は、大妖までの二キロという距離を僅か二分前後で走破することが可能である。
しかしことはそう思い通りには運ばない。何者かの接近を感知した大妖が迎撃もせずに易々と見逃してくれる筈はないからである。燈子が橋を五百メートル程進んだ所で、大妖の眷属たる妖達の攻撃が始まった。
橋の下からはガシガシと何かがぶつかる音が聞こえ始め、橋の左右からは眷属と化した鰯の群れが飛び魚のように海面から飛び出し数十体単位で突撃してくる。天然の鰯であればこのような動きは絶対に出来ないが、妖化した影響で身体機能も既に生物の範疇から逸脱しているらしい。幽鬼のように赤黒く光る無数の眼が一様に燈子へと向けられている。
——これに一々対処するのは面倒ね。
内心でそう思った燈子は呪符を五枚取り出し、術を発動させる。
——『荒ぶる炎を我が身に纏う 我が身が纏うは不可視の聖炎』
詠唱に合わせて、燈子の全身を不可視の炎の鎧が包み込む。自身に触れたものを問答無用で燃やし尽くす、自動発動型の防御結界である。術を発動させた燈子は左右から襲いかかる鰯の群れを意識の外に追いやり、速度を緩めず走り続けることだけに集中する。
我先にと燈子に突撃してくる鰯の群れは、燈子との距離数センチの所で不可視の炎の壁に衝突し、次々と跡形も無く蒸発していく。焼き魚になる暇もない程に、燈子の纏った炎の鎧が高温であることが見て取れる。その後も鰯の群れは諦め悪く燈子へと突撃を続けているが、ひとつの例外もなく全てが昇華の憂き目に遭っている。
またしばらくすると、体表が青色の魚鱗に覆われた、体長一メートル半程の十体の巨大な蟹が海面から這い上がり、燈子の行く手を阻もうと橋を塞いでくる。これには数十個の小火球で対応し、一匹残らず炭蟹へと変貌させる。
その後も数多の妖が燈子を大妖に近づけさせまいと立ち向かってくるが、燈子は走る速度を微塵も緩めることなくその全てに対応していく。燈子は海岸から大妖までの二キロの距離を二分きっかりで走破しきり、濃霧の手前で足を止めた。
一呼吸おいて後ろを振り返ると、遅れて追い付いてきた白崎家の従者達が眷属との戦闘を始めたところだった。海の生物が妖化しているという話の通り、彼女達が戦っている妖の種類は実に様々である。
今も燈子に突撃を続けている鰯の他に、鮫などの肉食魚、蛸や烏賊いかなどの頭足類からウミウシなどの後鰓類(こうさいるい)に至るまで、海のありとあらゆる生き物が妖に変じてしまっていることがよく分かる。妖化の影響か、青の魚鱗に体が覆われたそれらは海から突撃してくるのは勿論、橋に登って襲いかかる個体も多数見受けられた。
多種多様な妖が襲い掛かる中、亜鈴の従者達の戦いぶりは中々に見事だった。加えて上空には人工の白い小鳥が数十匹単位で飛び回り、隙を見ては妖へ攻撃・撹乱を行なっている。亜鈴が放った式神だろう。
その様子から戦線維持に問題がないと判断した燈子は正面の白霧へと向き直る。まずは霧を散らして、大妖の姿を明らかにしなければならない。
——『大気に我が炎熱を奉ずる』
燈子は三枚の呪符を用いて、霧が立ち込める全範囲の空気を一気に熱し始める。しばらくすると気温の上昇に伴い霧が少しずつ晴れ、前方の視界が明瞭になっていく。そして燈子は、五十メートル程先に佇む大妖の姿を捉えた。
亜鈴は大妖の正体を『人魚』と言っていた。伝承として残っている絵画と比べると差異は見受けられるが、それでも目の前にいるのは正しく人魚と呼べる姿をしていた。
上半身は二十代半ばの女性体。平均より一回り程豊満な胸部に、海藻のようにうねりを帯びた黒の長髪。珊瑚に似た硫黄色の二本の角。人間に近い目鼻立ち。
予想以上に人間に近しい外見的特徴を持つ人魚である。しかし言い方を変えれば、人間らしい特徴はそこしかなかった。
しなやかで女性的な上半身と相貌が纏っているのは人の皮膚ではなく青く輝く魚の鱗。黒の前髪から怪しく覗いているのは眷属達と同様に赤黒く底光りする瞳。口の端は釣り上がるように耳元まで裂けており、その表情から人が持つ理性を感じ取ることは出来ない。
そして近くの海面では、人魚の足であろう魚の尾びれが見え隠れしている。
視覚的な違和感は他にもあった。人魚の鱗の隙間からは、血の雫が流れ続けている。
既に外傷を負っているのかと思った燈子だったが、それは違うとすぐに気付いた。
亜鈴が言っていたではないか。人魚は、自身の血を媒介として他の生物を眷属化させると。つまりこの流血は、人魚にとっての繁殖行為に他ならない。事実、絶えず水が循環する海において、人魚の周囲十メートルだけが真っ赤に染まっているのは明らかに不自然である。
そのため、人魚本体には出来るだけ近付かずに遠距離呪術だけで倒し切るのが望ましい。
燈子は人魚から百メートル程距離を取り、高威力の火炎呪術を撃ち放った。
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