第5節(2)

 地下迷宮を歩き続けて更に十五分が経過した。目的地である厠は未だ見つからず、むしろ歩けば歩くほどに迷っている感覚を燈子は抱いていた。気付けば階段を三階分も降り、心なしか廊下も怪しい雰囲気を纏い始めているような感じがした。既に客室に戻れるのかすらも正直怪しい。そして燈子の体も我慢の限界が刻一刻と近づきつつあった。


 白崎家の当主には大変申し訳ないが、とりあえず呪術で廊下を上にぶち抜いて初期位置から再度出発しようかと思案し始めた時、燈子の耳は微かに響く異音を捉えた。


——バリっ、バリっ。グシャグシャ。

——ブチぃ、ムチぃ。モグモグ。


 通路の奥から聞こえてくる、肉を無理矢理千切るような生々しい物音に燈子は眉根を寄せた。


——猛獣でも飼育しているのだろうか。しかもこんな地下深くで?


 燈子が今歩いているのは地下七階。客室が地下四階に配置されていることを考えると、この場所は部外者の立ち入りは想定していない、白崎家における立入禁止区域となっている可能性が高い。きっと外部に漏らしたくない極秘物なども多分にある筈だ。そう考えると、たとえ道に迷った結果とは言え、他家の人間である燈子が機密情報を故意に嗅ぎ回るような行為は歓迎されざるものだ。


 燈子は選択を迫られる。未だ響き続ける異音は聞かなかったことにして引き返すか、それとも先に進んで音の発生源を確認するか。士族としての礼儀を取るか、自身の好奇心を優先させるかの公私の選択だ。


 五秒間思案した結果、燈子は音がする方へ足を進めることに決めた。礼儀を守る大切さも十分に理解しているが、それよりも音の発生源を確かめたい気持ちの方が勝ってしまったのである。


 燈子は出来る限り足音を殺し、廊下の奥へと進んでいく。そして二百メートル程歩いて辿り着いたのは、開けた広大な空間だった。


 横幅十メートル、奥行き二十メートル、高さは地下迷宮の二階分、十五メートル程はあるだろうか。空間の両側には天井まで伸びる巨大な石柱が奥に向かって一メートル間隔で並んでいるため、そこは広間というよりは回廊といった雰囲気の場所だった。そして回廊の奥には、もう一つの出入り口が世界に穿たれた空隙のようにぽっかりと姿を見せていた。


 例の異音は燈子が歩き続けている間も響き続けており、それは次第に大きくなっていた。そして回廊に辿り着いた今も止まずに聞こえてきている。音の聞こえ方からして、発生源はこの回廊内で間違いなかった。


——こんな場所に、一体何がいるんだろう。


 燈子は自分の姿が見えないように体を壁際に寄せつつ、回廊内を見渡した。そしてこの生々しい音を響かせ続けるものの正体を視界に捉えて、


「え……?」


 燈子は無意識に驚きの声を漏らしていた。


——バリっ、バリっ。グシャグシャ。

——ブチぃ、ムチぃ。モグモグ。


 それは燈子が音から予想した通り、食事の一風景だった。

 しかしその光景は、幾つかの点が燈子の予想とあまりにも違っていた。


 まず、食事をしている存在が違った。

 捕食行為を行なっているのは、子飼いの猛獣などではなく一人の人間だった。

 そして燈子はその人物に見覚えがあった。


 腰まで伸びる漂白された髪に、外套着のような黒服に身を包む小柄な少女。燈子の視線の先にいたのは間違いなく白崎家の当主、白崎亜鈴だった。彼女は地べたに座り込んで食事に夢中になっている。


 目の前の少女から受ける印象は、昼間のものとは大きくかけ離れていた。

 昼間の彼女は、感情の表現と起伏が少なく冷静沈着で物静か、まさに深窓の令嬢という言葉が似合いの少女だった。


 しかし今は、飢餓に苦しむ獣そのものだった。腹を満たすための食材を片端から掴み取り、齧り付き、何度も懸命に咀嚼する。そこに理性の光などは見受けられず、どこか必死ささえ感じさせる。今になって初めて気付いたが、彼女の歯は肉食獣のそれだった。一本一本が鋭く尖り、犬歯は人間のものよりも明らかに長い。


 そして目の前の光景と燈子の予想が食い違っていたもうひとつの点。それが亜鈴の食べている「モノ」にあった。

 あれを「モノ」と表現するのが正しいのか、燈子は自信が持てなかった。亜鈴が捕食している物体を、燈子は今までに見たことがなかったからだ。


 まず、明らかに実体を持つモノではないだろう。何せ白く半透明に透き通っているのだから。そして「それら」は皆人間の形を取っているのだが、普通の人体とは異なり体毛の類は無く、顔はのっぺりとしていて性別や造作の差異などを判別することは出来そうになかった。


「それら」は等しく黒い半透明の鎖で手足を縛られ、念の為とばかりに腕ごと胴体にも鎖が巻かれていた。亜鈴の周囲には「それら」が三体ばかり転ばされており、皆逃げ出そうと必死に踠き続けている。大声で何かを叫んでいる様子だが、その声は不思議と全く聞こえてこない。


 燈子がしばらくその光景を見続けていると、不意に亜鈴が近場にいる「それら」の内の一体に手を伸ばし、片腕を鷲掴みにした。どうやら先程まで貪っていた分が食べ終わったため、次の一体へと手を出したようだ。亜鈴に腕を掴まれた瞬間、「それ」は一段と泣き叫び始めた、ように見える。

 亜鈴は片手で持ち上げた「それ」を両手で掴み直し、おもむろに鋭い牙の生えた口元へ「それ」の頭を運んでいく。


 己の頭が亜鈴の口元まで運ばれた「それ」は、彼女に捕食される実感をより強く得てしまったせいか、阿鼻叫喚の様相で恐慌に陥っている、風に見える。そして亜鈴は「それ」の頭部を天頂から額の辺りにかけてまでを一口で噛み千切った。実体がないように見えるのに、噛んだ瞬間にバリっと音が響いた。その後には肉を噛み潰すかのようなグシャグシャという音がする。


 見た目が違うのと同様に身体構造も普通の人間とは異なるのか、「それ」は頭部を食われた後も変わらずに亜鈴の手元から抜け出そうと必死にもがき続けている。頭を失っても動き続けるその様は、雌に捕食される雄のカマキリを連想させた。


 しかしいくら動いても、「それ」を掴んでいる亜鈴の非力そうな細腕はびくともせず、無駄な足掻きに終わっている。当の亜鈴はいくら「それ」が動いても気にする様子を見せず、一心不乱に食事を続ける。次第に顔を食われ、腕を食われ、胴体を食われ、最後に残った左足が爪先から太腿にかけて食われた。亜鈴に食われ続ける「それ」は、左足一本だけになっても逃げようと最後まで動き続けていた。


 そして「それ」を一欠片も残さず食べ終わった亜鈴は、次の一体へと手を伸ばした。


——もしかしてあれは、人間の魂を食ってる?


 燈子の中で困惑が広がる。亜鈴の豹変した様子もそうだが、そもそも人間の魂が実体化して肉眼で視えること自体聞いたことがないし、信じることも出来なかった。この状況において唯一分かることは、目の前の光景は燈子が見て良いものではなかったということ。それだけは直感的に理解出来た。


 燈子は亜鈴に気付かれないように、物音を立てずにゆっくりと、気配を殺して慎重に、体を前に向けたまま少しずつ後ろ手に下がっていく。ゆっくりと、ゆっくりと。


 しかし動揺で体が上手く動かせなかったせいか、三歩目を踏み損じ、草履と床が擦れる音がザリッと廊下と回廊内に響き渡った。咀嚼音が響き続けるこの場において、その音は不自然な程に鳴り響いた。


「誰⁉︎」


 音が響いた瞬間、高く澄んだ美しい声と共に、亜鈴の顔が燈子の方を向いた。


 その時燈子は、亜鈴の瞳を初めて視界に収めた。今の彼女は、目元に包帯を巻いていなかったのだ。

 亜鈴の瞳は、お世辞にも綺麗とは言い難く、死んだ魚のように白濁としていた。本来は黒い筈の瞳孔は、髪と同じく色素が抜け落ちているせいで虚ろに見える。既に視覚器官としてまともな機能を果たしていないことがありありと分かる状態だった。


 しかしやはり亜鈴には両目以外に視覚情報を補完する術があるのか、視線の先にいるのが燈子であることには気付いている様子だった。亜鈴は胴体の中程までを失った食べかけの「それ」を膝下に落とし、悪戯を見咎められた子供のように怯えた表情を浮かべていた。お互いに無言で向き合ったまま、その場を静寂が数秒間支配した。


 静寂を先に破ったのは燈子だった。この気まずい状況から早く抜け出したいと無意識に思ってしまったせいか、燈子の足は自然と後ろへ一歩後退した。するとすぐさま、


「待って‼︎ 逃げないで‼︎」


 必死さの籠った叫びが、亜鈴の口から放たれた。亜鈴の叫びを聞いて、燈子の足はピタリと止まる。


「お願い、逃げないで……。私を、怖がらないで……。お願いですから、私から、離れていかないで、ください……」


 次いで亜鈴の口から漏れ出たのは、先程とは対照的な、悲痛さを多分に含んだ弱々しい声だった。


 亜鈴のその声と言葉を聞いた瞬間、燈子は急速に冷静さを取り戻していった。何故ならそれは、燈子にとって聞き逃すことの出来ない、無視することの出来ない、孤独を恐れる人間の言葉だったから。

 他者の視線に酷く怯える亜鈴の姿が、かつての自分の姿と重なる。他者から避けられることを、奇異の目で見られることを酷く恐れるその姿。本能的に独りぼっちの世界を恐れる弱々しい少女の姿は、合わせ鏡に映し出された、かつての自分そのものだった。



——『近寄るな! 人殺しの化け物が!』


 もう十年も前に浴びせられた言葉が、昨日聞いたばかりの如く鮮明に蘇る。

 それは極寒の湖から汲んできた冷水を浴びせるように、今でも体を凍えさせる。

 変わり果てた娘を抱えて怨嗟の声を放つ■■■の父親の顔が、地に伏して泣き続ける■■■の母親の姿が、烙印のように鮮明な映像として脳裏に焼き付いている。

 全方位から向けられる敵を射抜かんとする老若男女の鋭い視線が、未だ心に突き刺さり続ける。

 それらはどれだけの時間が経とうとも消え去ることがなく、罪科の如く残り続けている。

 お前が犯した罪を決して忘れるなと言い聞かせるように。

 お前が奪ったものを一生かけて清算しろと追い立てるように。

 自分を恐れ、疎い、離れていく人々の姿が、何度も、何度も、思い起こされる。



 気付けば、燈子の中にあった恐怖も戸惑いも気まずさも、綺麗さっぱり消え去っていた。


 燈子が見た亜鈴の姿と所業は、明らかに普通の人間のものではなかった。

 しかし彼女がどのような事情を抱えていようと、燈子にとってはもう関係のないことだった。


 燈子は己が身をもって知っている。他者とは違うことで感じる疎外感を。異常であることへの恐怖を。燈子はそれを誰よりも知っている。

 だからこそ、未だ怯え続ける白崎亜鈴という一人の少女と向き合いたいと思った。その気持ちだけが、燈子の心を満たしていた。


 燈子は出来る限りの優しい笑顔を浮かべながら、ゆっくりとした足取りで亜鈴に近づいていく。そして亜鈴の前に辿り着くと膝を折り、亜鈴の白く濁った瞳に己の目線を合わせた。亜鈴は燈子の行動の真意を汲み取れていないのか、呆けた表情を浮かべている。


「はい、もう逃げません。怖がりもしません。そして離れることも致しません。ですから、どうか安心して下さい、白崎様。私は、ちゃんとここにいますよ」


 はっきりと、燈子は亜鈴に言い聞かせるように語りかけた。安心して良い、怖がらなくて良い。貴方の元から去ろうとする人間は、この場においては誰もいないのだから。そんな自分の想いが伝わってくれと願いながら、燈子は少女に笑いかけた。


 燈子の顔を見た亜鈴は、その場で泣き出してしまった。ただその姿からはもう、他者への怯えや恐怖は感じられなかった。

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