第3節

 緑川燈子(とうこ)は船頭へ別れを告げて海の中を歩き、零幻島へと足を踏み入れた。


 後ろを振り返ると、丁度渡し舟が沖合に向かって動き始めたところだった。燈子は沖合の舟を見つめながら、心の中で改めて船頭の老人に感謝を述べた。燈子が船頭へ別れ際に渡したのは魔除けの呪符だ。それさえあれば、妖が海遊する海の上を通っても襲われることなく無事に帰ることが出来る。命の危険を顧みずここまで送り届けてくれた船頭に対する、彼女なりの心遣いの現れだった。


 燈子は船影が水平線の先に没するのを見届けてから、懐に手を入れて短冊形の白い紙を一枚取り出した。燈子は短冊形の紙——『式符』に呪力を込め、術を発動させる。

 

——『優しき熱が我が身を包む』


 詠唱に呼応して式符が赫色に染まり、次いで燃えるように消え去った。すると熱された空気が彼女の全身を包み込み、濡れた着物の水気がみるみる内に抜けていく。


 燈子は着物の水気が完全に抜けたのを確認すると、体を反転させて島の全景を見渡した。島は老人が言っていた通り、『死の島』という言葉が似合いの雰囲気に包まれていた。島に命を食われる、ではなく命の気配を感じない、という意味合いの違いはあるが。


 零幻島は中心に行くほど緩やかに地高が高くなっている、全土が無骨な岩で覆われた岩石島だった。

 燈子が立っている砂浜を除けば、右を見ても、左を見ても、正面を見ても、どこもかしこも岩の地肌が続いている。かろうじて生命と呼べるものは、岩の隙間から僅かに顔を覗かせる下草の群れだけだった。動物の気配も無ければ、生い茂った森の気配も無く、木の一本でさえも見当たらない。人の気配すらも全く感じないが、唯一、島の中央に聳える木造の屋敷だけがここに人が住んでいることを主張していた。


 燈子は自分が住んでいる場所とは真逆な島の環境を目の当たりにして、驚きで少しの間呆けてしまった。そして直感的に悟った。


——ここは、人間が住む場所ではないな、と。


 燈子が驚きを覚えた理由。その中には自然環境の劣悪さももちろん含まれていた。しかし中でも彼女が強い衝撃を受けたのは、こんな生命なき終末の如き島に本拠を構える士族が存在するという事実に対してだった。しかもそれを治める領主が名士の一角である『白崎家』となれば尚更である。


 燈子は一族の当主でこそないものの、士族の端くれであることに変わりはない。だからこそ理解している。領主とは治める土地、そして何よりそこに住む「領民」が存在するからこそ成り立つものだ。支配欲、利己欲、利他欲の違いこそあれ、領主という役割を務めるモチベーションの源泉は基本的に「人」を軸として生まれる。


 しかし燈子が見る限り、この島の領地運営はその根幹からして破綻している。

 領民なき領主。それはまるで、観客のいない舞台で一人寂しく踊り続ける悲しき道化のようだ。


 燈子自身、この島においては完全なる部外者である。今日零幻島を訪れたのも、白崎家から齎された要請に応じたに過ぎない。故に、他所の事情に首を突っ込むことも思考を巡らせることも、歓迎されないし時間の無駄だということは燈子自身も十分に理解している。


 しかし荒涼とした島の景色を眺めていると、十二年前、在りし日に眺めた活気溢れる街並みの光景が自然と脳裏に思い起こされる。それを見て嬉しそうに、自慢げに語っていた父の姿も合わせて。

 だからこそ、燈子はどうしても巡る思考を止めることが出来なかった。


——白崎家の領主は、誰もいないこの場所を一体どんな思いで統治しているのだろうか、と。

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