駿河血風録2



「なんと、若は川太郎退治だと」

「左様で」

 助九郎と玄蕃は屋敷の一室で話しこんでいた。

「確かに土地の者の話では、巨大魚は昔からいたらしいが」

「どういうつもりなのでしょうか」

「これも武徳の祖神の導きかもしれぬ」

 助九郎は急に厳しい顔つきになった。玄蕃は息を呑んだ。

「玄蕃、旅芸人一座を探れ」

「は、ははっ」

「働き次第では武士になれるぞ」

 助九郎は言った。三代将軍家光の時代には大名のみならず、幾つもの旗本の家が取り潰しになっていた。

 跡継ぎの嫡男がいないため、という理由がほとんどだ。武士の養子縁組が認められるようになるのは、まだ時がかかる。

 七郎の父である又右衛門は、伊賀甲賀の忍びを密偵にしていた。

 働き次第では、お取り潰しになった旗本の家禄を継がせて武士に取り立ててもいた。

「ははっ!」

 玄蕃は畳に額をこすりつけた。働き次第では武士になれるのだ。

 武士になれば七郎に先んじて、おたまを妻に迎える事ができるかもしれない。玄蕃の魂が燃えぬわけがなかった。

(若に何かあれば一大事)

 助九郎は心中に思う。

 この駿河に七郎が来る必要はない。

 七郎は御書院番であり、将軍家光の側仕えの親衛隊だ。

 それが駿河に密偵として派遣されるなど、死ねという事と同義だ。

(川太郎退治に専念しておられれば良いが)

 七郎に何かあれば、助九郎もお咎めを受けるだろう。

 七郎が隠密働きから一時的でも離れた事は天の配剤に思われた。



「でっけえ魚を退治するべか」

「ああ」

 おたまは七郎の部屋にいた。七郎は腕組みして考えこんでいる。

「川の中では刀も無刀取りも使えんしなあ」

「だったら銛がいいべ。海女さんは銛を使って魚を取るべ」

「なるほど、さすがおたまだ」

「お、おっほん。さて、おらも仕事に行くべ。七郎もがんばるべ」

「ああ、気をつけてな」

「……おら、一生懸命な七郎が好きだべ」

「ん、なんだって?」

「なんでもねえべ!」

 おたまは鼻息荒く部屋から出ていった。彼女は今夜も船宿で女中の仕事がある。



 駿河城下町郊外で、旅芸人一座は幕を張って休んでいた。

「お嬢、背中を流します」

「うむ、頼んだぞ」

「佐助がのぞいたりしてないだろね。全く、あの助平は」

 女芸人三人は湯浴みの準備をしていた。

 お嬢と呼ばれたのは、短刀投げの少女だ。

 綱渡りと蛇使いの女芸人二人は、油断なく周囲を見回していた。

 軽業を披露していた大男の芸人、佐助はといえば――

「おうおう、今日も大ねずみだ」

 佐助は近くの林に潜んでいた忍びを見つけていた。

 助九郎配下の、玄蕃とは別の隠密だ。黒装束に身を包んだ隠密は、刀を抜いて佐助に斬りかかった。

「おっと危ねえ」

 佐助は高く跳躍して白刃を避けた。

 宙返りしながら隠密の背後に降り立つや、背から抱きしめた。

「うぐぐぐ……」

 隠密は戦慄して声も出ない。

 六尺五寸はあろうかという巨体が宙を舞い、背後に降り立つとは。

 まるで猿の化身のごとき身軽さだ。.

「伊賀甲賀の技も錆びついちまったねえ」

 隠密を背から抱きしめたまま、佐助は笑った。

「帰んな、見逃してやっから。うまく言い訳しろよ」

 佐助が身を離すと、黒装束の隠密は茫然自失した様子で林の中に姿を消した。

 それを見送った佐助は不敵に、そして陽気に笑っていた。

 歳は三十半ばほど、だが陽気な顔はまるで少年のごとくだ。

 佐助の軽業は「猿飛の術」と称されている。

 かつて大阪の陣で徳川陣営を戦慄させた真田の勇士がいた。

 佐助はその一人だ。



 かつて大阪の陣で、徳川方を散々に悩ませた真田信繁。

 家康公に死を覚悟させたほどの奮戦ぶりは、後世にも伝えられている。

 その信繁に付き従う勇士の中に「猿飛」とあだ名された者がいたという。

「親父殿が申した事ですぞ」

 助九郎は七郎に言った。

「猿飛……」

 七郎の身がぶるぶる震えていた。武者震いだ。

 かつて父の又右衛門も対峙した勇士が今、七郎の前に巨大な壁となって立ちふさがっているのだ。

「そ、それで父上はどうしたのだ」

 七郎は珍しく平静を欠いていた。

 幼い頃の兵法修行で右目を失った七郎は、感情の働きが鈍かった。

 七郎は自身の心境を「捨心」と称している。

「何しろ神出鬼没、討ち取るどころか手合わせしても逃げられたと」

「父上の一刀から逃れたという事か」

 七郎の脳裏に大男の身のこなしが思い返された。

 彼の無刀取りの妙技を軽くいなした身のこなし、父又右衛門の一刀も及ばなかったのではないか。

「まあ何にせよ偉大なる難敵、得難き好敵手ではありますな」

「なぜ嬉しそうな顔をする」

「敗れて死すとも悔いのない相手でありますよ」

「ふうん」

 助九郎の心理、七郎にわからなくもない。

 七郎にも挑みたい対手がいる。父の又右衛門、恩師の小野忠明の二人だ。

 戦国の剣聖、上泉信綱の無刀取りを受け継いだ祖父から指導を受けた又右衛門。

 もう一人の剣聖、伊藤一刀斎景久から直接指導を受けた小野忠明。

 二人の武の巨人に挑むのは、男子の本懐ではないか。

 だから七郎には助九郎の心が理解できる。

 助九郎もまた七郎の心が理解できる。

 そんな二人を、実は又右衛門は苦手としていたーー

「若は川太郎退治に専念なさってください」

 助九郎は晴れ晴れとした顔だ。彼は自分の死に場所を求めているのだ。満足して死ぬために。

 又右衛門ならば、それを匹夫の勇と呼ぶだろう。天下のために働く又右衛門は、簡単に死ねる立場にない。

「俺は俺だ」

 七郎は言った。彼は全てから自由になりたかった。

 家と父からも、幕府からも。

 七郎は自由になりたかった。

 いや、欲しかったのは心の自由だ。

 失った右目と引き換えに、七郎は心の自由を得た。

 その自由な自分が告げている。

 理想に死すべしと。


   **


 七郎は助九郎と共に道場に来た。

 二人とも稽古袴に着替えていた。そして七郎の右腕には帯が巻かれ、胴体に固定されている。

「これは……」

「こんな修行もあるのですよ」

 助九郎はニヤニヤしていた。右腕もしくは左腕を封じる稽古もあるのだ。

 これは戦場で片手がふさがっている事が珍しくないからだ。

 討ち取った敵将の首をぶら下げているかもしれない。

 そのような状況で新たな敵に襲われたらどうするか。

 それを探るための修行なのだ。

「さあ始めますか若」

「応!」

 七郎の全身に活力が満ちた。

 全身全霊で挑む、七郎は今も昔も変わらない。

 だが相手ははるか格上だ。

「ほ」

 助九郎の右足が、踏みこんだ七郎の左足を横から払う。

 ダダアン!という小気味良い響きと共に、七郎は道場の床に横倒しになった。

「大丈夫ですか若? 手加減はしたのですが……」

「も、問題ない」

 七郎、うめいて起き上がった。

 右腕を使えないというのは、想像以上に難儀だ。

 たとえ両腕が使えても、助九郎相手に勝機をつかむのは至難の業だ。

 それを左腕一本で挑むとは――

「ふ〜……」

 七郎は静かに呼吸を整えた。

 そしてゆっくりと助九郎の右手側に回りこもうとする。

 右手側は刀の刃の死角だ。

 自分からは近く、対手からは遠く。

 そのような位置から攻める、それが勝機をつかむ。

 だが右腕を封じられた七郎は、普段の実力の半分も発揮できない。

「甘いですな」

 助九郎はまっすぐに踏みこみ、右肩から体当たりした。

 手加減はしているはずだが、それでも七郎は一間ほどふっ飛ばされた。

 戦場は変幻自在、千変万化。

 嵐の海に似た闘争の中で勝機を掴むには、どうすればいいか?

 七郎は寸秒の間に、それをつかまなければならぬ。

「まだまだ!」

 七郎の闘志が燃え上がる。それは命の尽きる直前の灯火に似た。

 その全てを捨てた気迫を、父の又右衛門や師事した小野忠明、そして助九郎も愛するのだ。

「は!」

 七郎は素早く踏みこみ、助九郎の右踵を右足で払う。柔道における小内刈だ。

「浅い!」

 体格に勝る助九郎は七郎と組みつき、持ち上げて背後の床に投げ落とした。後世の柔道の裏投げだ。

 うめきながらも七郎は立ち上がった。助九郎が手加減しなかったら、今の裏投げで意識を失ったろう。

 七郎は戦場の呼吸を知った。

 命をかけた闘争の場では、痛みや恐怖が麻痺する事があるのだ。

「おおお!」

 七郎のしかけた無心の一手。

 素早く左手で助九郎の右袖をつかんだ。

 そして右足を助九郎の右足に引っかけ、体を回した。

 助九郎は足を引っかけられた上に右手を引かれて、体勢を崩しながら板の間に背中からダアン!と落ちた。

「それですぞ、それこそが最高の心技体!」

 助九郎は何事もなかったように起き上がった。

 対する七郎は今の技の余韻に浸っていた。

「今のは……」

 いつか見た父の技ではなかったか。

 稽古の際、又右衛門は七郎の右袖を捉えて瞬時に投げ落とした事がある。

 父、祖父、更には先師から伝わった技かもしれぬ。

 何にせよ、自分が一個の球と化したように錯覚した。

「もう一本!」

 叫んで七郎は助九郎に踏みこんだ。

 速い。

 左手で助九郎の右袖を捉えると、瞬時に体を回して投げた。

 バアン、と助九郎は背中から道場の板の間に落ちた。

 隼が獲物を捕らえて即座に喰らうが如しだ。

 それは小野忠明が七郎に伝えた、一刀流の真理である。

「……ふー、ふー、ふー」

 助九郎は起き上がってきた。顔は笑っているが目が笑っていない。

 七郎の顔から血の気が引いた。今の技――後世の柔道における左手一本の体落――は、助九郎を本気にさせたらしい。

「やりますな、若! さあ本番ですぞ!」

 助九郎は大きく両手を広げ、かかってこいと言わんばかりに七郎を威圧した。

 真田の遺臣、佐助の手強さに助九郎も頭を悩ませていた。

 そんな助九郎は激しい稽古で、日々の鬱憤を晴らそうとしていたのかもしれない。

「ギャ……」

 七郎は力なく笑った。左手一本の体落で全身全霊を使い果たしていた。

 感情の働きが乏しかった彼も、苦しい時は笑えば気が軽くなる事を覚えた。

「七郎がんばるべ……」

 おたまは七郎と助九郎の荒稽古を眺めて微笑し、道場の入口の床に握り飯の小皿を置いた。

 彼女もまた船宿で仕事だ。おたまには良妻賢母の素質があった。


   **


 翌日、七郎は川に小舟を出した。

 彼は漁師らから川太郎退治を依頼されている。

 駿河湾へと続く大河に潜む巨大魚。

 まさか駿河に来て奇妙な死闘に臨む事になろうとは。

「旦那あ、どうすんですか」

「まずは餌でおびきよせよう」

 七郎は小舟の上から水面に餌をまく。川で釣った小魚を細かく刻んだものだ。

「来ますかね……」

 漁師は小さな声でつぶやいた。彼も命がけだ。川太郎に殺された友人の仇を取るために、七郎に協力していた。

「来てもらわねばな」

 七郎は右手を伸ばす。小舟には銛を積んでいた。

 水中で刀は、ましてや無刀取りは無力だ。そのために銛を用意した。

 鋭い切っ先は人間の胴体を簡単に貫くだろう。

「旦那、腹が減っては戦はできませんぜ」

 漁師は包を開いた。中には握り飯が入っていた。

「いただこう」

 そう言って七郎が漁師に振り返った時だ。

 彼の背後の水面に、魚影が浮かんだのは。

 それは頭部だけで一尺を越える巨大魚、川太郎が現れた瞬間であった。

「だ、旦那あ!」

 漁師の絶叫が虚空に響き、次いで豪快な水音と共に七郎は小舟から姿を消していた。

 川の水面に大きな波紋が生じて広がっていく。

 漁師は悪い夢を見ている気分だ。まさか七郎が川太郎によって水中に引きずりこまれるとは!



 朝から助九郎の屋敷を訪れたのは忠長からの使いである。

「'詮索無用」

 そう言い残して使いは去った。

 忠長は知っているのだ。助九郎は駿河の剣術指南役であると同時に、幕府の放った密偵である事を。

 これは脅しだ。忠長と真田の遺臣の接触を邪魔するな、という事だ。

「いかがされますか」

 幾分、血の気の引いた顔で玄蕃は言った。

 若き江戸城御庭番として、剣と忍びの技を磨いた玄蕃。

 彼はこの度、七郎の護衛として駿河に赴き、その後は助九郎の命によって密偵働きをしてきた。

 が、力や技に長けても、どうにもならぬ事を知った。

 駿河は得体の知れぬ世界になりつつある。

 大納言忠長による猿狩りのお触れが出され、多くの浪人が駿河にやってきていた。

 中には気晴らしに人を殺すような凶賊もいるのだ。江戸も治安が悪くなってきたが、駿河はそれ以上だ。

 忠長と接触を図る大名もいる。真田の遺臣は伊達政宗公の名代らしい。

「これまで……とは言えんなあ」

 言った助九郎は厳しい顔をしていた。強い決意の現れだ。

「敵が大きければ大きいほど勝負というのは面白いではないか」

 助九郎はニヤリとした。

 格上の対手に得意技一つで挑む……

 七郎の心意気が助九郎にも伝染したようだ。

 かつては助九郎も七郎と同じだった。

 永遠の挑戦者だったのだ。

「ははっ」

 玄蕃も怯んではいなかった。侍になる野望が胸の奥で燃えている。

 おたまを妻に迎える、それも玄蕃の野望だ。

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