駿河血風録3


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 その日の夜、おたまは船宿から帰ってこなかった。

 翌朝、助九郎の屋敷に近所の者がやってきた。

「船宿に浪人達が立て籠もってるそうですよ」

 その報を受けて助九郎は眉をしかめ、玄蕃は青ざめた。

 七郎は無表情を変えない。

「助けに行きましょう!」

 玄蕃は決死の形相だ。おたまへの思いがよくわかる。

「任とは無関係ではあるがな」

 助九郎にとって、おたまは娘のような存在であった。

 そのおたまを助けに向かうのは、助九郎も望むところだ。

 だが隠密の任とは無関係だ。また、駿河では似たような事件がいくつも起きている。

 領内に侵入した無数の浪人達は、飢えた野良犬だ。

 盗み、喰らい、犯し、殺す。

 駿河では酒場に浪人達が押し入り、脅して無銭飲食するという事件がいくつも起きているのだ。

 場合によっては殺されて金品まで奪われている。

 今の駿河は悪鬼うごめく修羅の巷、魔都であった。

「死んでもかまわんのか」

「かまいません!」

 言い切った玄蕃に迷いはない。彼はおたまのために死ぬのは本望だ。

「やろう、助九郎」

 言ったのは七郎だ。彼は右腕を巨大魚・川太郎に噛まれて負傷したままだ。

「駿河でやりたい放題の浪人達に、目にもの見せてやろう」

 七郎は駿河の現状を憂える。浪人が暴れ放題でありながら、それは見過ごされている。

 大納言忠長は領内の状況を知ってか知らずか、各地の大名と何やら密議をしているようである。

 七郎は正義感でも女への思いでもなく、ただ己の一手のために死を覚悟した。



 昼下がり、船宿では浪人達が酒を飲んでいた。

「猿狩りはいつやるんだ」

「まだわからんが、必ず戦功を挙げてやる」

「大納言様に召し抱えられて、また武士に戻るんだ」

 船宿の一室で浪人達は下卑た笑いを浮かべた。

 長い放浪生活で彼らの魂は歪み、荒み、狂い、腐っていた。

 もはや良心を持ってはいない。畜生以下の飢えた化物だ。

 そんな彼らは気力体力を回復させ、若い娘のおたまに関心を向けていた。

「さあ、こっちへ来い」

「い、いやだべ!」

「気の強い女だ、かわいがってやるぞ」

 浪人達がおたまを部屋に連れこもうとした時、仲間が告げた。

「おい、坊主がやってきて何か言ってるぞ」



「貴殿らも腹が減っておろうと思い、こうして握り飯を持ってきた」

 穏やかな表情の僧は、助九郎の変装であった。

 彼は頭髪を剃り上げ、僧衣も借りて船宿にやってきた。

 おたまや船宿の女将を助け、浪人達を油断させて成敗するために。

「うるせえ、もう飯は食った」

「女を連れてこい、女を」

「金目のもん持ってきやがれ」

 と浪人達が騒ぐ。助九郎は穏やかな顔の奥で、浪人達の卑しい性根に吐きそうになった。

 そして浪人達の注意が助九郎に向けられている間に、七郎と玄蕃は裏口から船宿に侵入した。

「いやだべ、おら嫁に行けなくなっちゃうべー!」

「ふっふっふっ、ならば俺が妾にもらってやる」

「死んでもやだべー!」

 おたまが泣き叫んだ時だ、開いた襖から人影が飛び出したのは。

「貴様あー!」

 怒りの形相の玄蕃は薪木で浪人の頭を殴りつけ、気絶させた。

 帯で右腕を体に巻きつけて固定した七郎は、濡れた手ぬぐいで別の浪人の顔を打つ。

 水に濡れた手ぬぐいは、意外な重さを発揮し、一打ちで浪人を昏倒させた。

「な、なんだ」

 船宿の店先に出ていた浪人達が、仲間の方へ振り返る。

 助九郎は、その一瞬の隙を衝いて、踏みこんだ。

「ふんぬ!」

 助九郎の体当たりで浪人がふっとばされた。宮本武蔵は、体当たりに習熟すれば、それだけで人を殺す事も可なりと伝えている。

 別の浪人が刀を抜こうとするのへ、助九郎は組みついた。

 瞬時に技をしかける。浪人は大地に背中から叩きつけれた。

 助九郎の豪快な大腰だった。



「逃げろ玄蕃、おたま!」

 七郎は叫んで、脇差しを振り回す浪人に抱きついた。

 抱きつくと同時に、右足のつま先で浪人の右踵を払っている。

 室内で体勢を崩した浪人は、柱に後頭部をぶつけて昏倒した。

 その間に玄蕃はおたまの手を引いて、裏口から船宿の外に駆け出している。

 七郎も船宿の裏口から外に飛び出した。その後を追って浪人も飛び出した。

 浪人は最後の一人になっていた。その浪人は握った鞘から刀を抜いた。

「おのれ、おのれえー!」

 浪人が刀で七郎に斬りつけた。

 鋭い一刀は並々ならない。刃を避けた七郎の顔から血の気が引いた。

 同時に脳裏には父や師の言葉が思い出された。

 世には名人達人が掃いて捨てるほどいると。

 それを痛感させられた。

「おあああ……!」

 浪人は雄叫びを上げて刀を八相に構えた。

 それを見つめる七郎は、生死の境で微かに笑った。

「む!?」

 浪人の一瞬の動揺。

 七郎は一瞬の隙を逃さない。

 右肩からぶち当たり、浪人の体勢を大きく崩した。

 それでも浪人は刀を横に薙いだ。

 身を離した七郎の胸元を刀の切っ先がかすめる。僅かに痛みを感じた。

「ふっ」

 鋭い吐息と共に七郎は踏みこんだ。

 左手で浪人の右袖をつかむと、引きながら体を独楽のように回す。

 浪人の体は前につんのめるようにして、背中から大地に落ちた。

 無心の一手、七郎の左手一本での体落だ。

 まだまだ技が荒いが、七郎は父から学んだ技を己のものにしつつあった。

「こわかった、こわかったべー!」

 おたまは玄蕃の胸で泣いている。困惑した玄蕃は顔を真っ赤にしていた。

 それを見つめて七郎はまたも微笑した。

「わ、若……!」

 僧衣の助九郎は七郎を見て青ざめた。

 七郎の胸元は横一直線に斬り裂かれ、血が流れ出している。

「大事ない……」

 七郎はつぶやき、前のめりに倒れた。

 傷は深くはないが、真剣に斬られたという衝撃が七郎の意識を失わせた。

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無明を断つ MIROKU @MIROKU1912

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