駿河血風録1
「参れ!」
父の又右衛門は木剣を構えた。
「おう!」
幼い七郎は木剣を手にして、父の又右衛門に打ちかかる。
全身全霊を振り絞る、その一瞬が七郎の全てだ。
七郎の幼くも鋭い打ちこみを、又右衛門は木剣で横に打ち払った。
次の瞬間には、又右衛門が放った突きが七郎の顔を襲っていた。
七郎が悲鳴を上げて木剣を取り落とした。
「し、七郎!」
又右衛門も木剣を手放した。
七郎が右手で抑えた右目からは血が滴り落ちていた。
**
青年に成長した七郎は、玄蕃と共に旅籠に入った。
目指すは大納言忠長の治める駿河の地だ。
尚、七郎は幼い日の兵法修行で右目を失っていた。
「飯盛女にお気をつけください」
玄蕃は言った。
(飯盛女? 飯を盛ってくれる女?)
七郎は飯盛女を知らない。
三代将軍家光の御書院番(いわゆる親衛隊)として城勤めしてきた七郎。
若いとはいえ、城勤めの長い彼は世間知らずすぎた。
(うーむ)
旅籠の広間で七郎は玄蕃と共に食事する。
麦飯、味噌汁、焼いた川魚に薄い茶。
貧相な御膳も腹の空いた七郎にはご馳走だ。
そして彼の隣には飯盛女が座していた。
まだ二十歳にもならぬ娘が、何やら真剣な眼差しをしていた。
後で知ったが、娘はこの日が飯盛女の初仕事であった。七郎は娘の初めての客だった。
「……食うか?」
「え、な、何を言うべ」
「腹が減ってそうだ」
「ま、まあ……」
「ほれ、あーん」
「あ、あーん」
唐突に始まった茶番に広間は静まり返った。
それは七郎が飯盛女を餌付けしているようでもある。
まだまだ殺伐とした世の中で、なんとも微笑ましい光景ではないか。
七郎と玄蕃は駿河に入り、木村助九郎の屋敷に来ていた。
「ほう、若も立派になられましたな」
助九郎は厳つい顔に微笑を浮かべた。
七郎の父、又右衛門と肩を並べる兵法の達人、木村助九郎。
彼は駿河大納言、忠長の剣術指南役を務めていた。
「玄蕃といったか、長旅ご苦労」
「ははっ」
玄蕃は畳に平伏した。
伊賀忍びである江戸城御庭番の一人、玄蕃。
彼は手柄を立てれば武士にするという又右衛門の言に従い、駿河へと来たのだ。
「で、そちらの娘さんは?」
「おたまだ」
七郎は助九郎に言った。
「おたまだべ!」
七郎と玄蕃の二人の後ろで、おたまが畳に額をこすりつけた。
彼女は結局、飯盛女はやめた。
宿の者とは玄蕃が話をつけた。
「お、おら、一生懸命働くべ、ここに置いてほしいべ!」
おたまは家を追い出されて飯盛女になった。
貧しい村で育った彼女は、口減らしに家を追い出されたのだ。
そんなおたまに玄蕃は思うところがあるのか、彼女に同情的だ。
玄蕃もまた又右衛門に嘆願して、この度の任務についた……
「うむ、若もやりますな、早くも嫁を見つけましたか」
「よ、嫁だべか!」
「嫁? そんなつもりはないが」
「よ、嫁にするつもりだったのですか、七郎殿!」
「お、おら、嫁になって働くべ、赤ちゃんもたくさん産むだよ!」
「はっはっはっ、にぎやかでよろしいですな若」
助九郎は楽しげに笑った。おたまのおかげで彼らの気は軽くなった。
明日からは命をかけねばならぬ。
「お、おたま!」
「なんだべ?」
玄蕃とおたまは助九郎の屋敷の庭にいた。おたまは助九郎や七郎、更には玄蕃の洗濯物を干していたのだ。
「し、下帯まで洗ってくれたのか!」
「おら、父ちゃんの下帯も洗ってたから平気だべ。玄蕃さんも遠慮しなくていいべ」
「……す、すまぬ!」
「別に頭下げなくてもいいべ、お侍さんだし。これも女の仕事だべ」
おたまの笑顔はキラキラと輝いていた。
彼女は七郎の下帯を洗った事に、女の喜びを見い出していた。
そんなおたまの輝かしい笑顔に玄蕃の胸は高鳴る……
「……若いっていいですなあ」
助九郎は屋敷の居室で、庭の玄蕃とおたまを眺めてニヤニヤしていた。
居室には七郎も座していた。開け開いた障子の向こうで、尚も玄蕃とおたまは話しこんでいた。
「洗濯干しの邪魔をしてどうするんだ」
「いやいや若。あれは男女の立ち合いですぞ。見ているこちらも熱が入るというものです」
「そうなのか」
七郎は無表情だ。
数え年で二十を迎えた七郎は、年齢相応しからぬ落ち着きと威厳をそなえていた。
幼い頃に父の又右衛門との兵法修行で右目を失った七郎。
そんな七郎は感情の働きが乏しかった。だからこそ家光の小姓も務まったのだろう。
なにしろ癇癪持ちの家光の事だ、たとえば、
――おい、あれだ。
と言われて聞き返しているようでは小姓が務まらない。下手をすれば脇差しを抜いて斬りつけられてしまう。
「あれ」を素早く理解し、家光の期待に応えられぬようでは、徳川三代将軍の側仕えなど不可能だ。
また、家光は小姓の反応を楽しんでいるようにも思われた。
七郎と反りが合わないのも当然だ。七郎はとにかく平静すぎた。
「それはともかく合戦の準備とは…… 忠長様は本当にやるつもりなのか」
増えすぎた浅間山の猿が、人里に降りてきて田畑を荒らすという。
霊妙の地である浅間山、そこに住む猿は神猿として崇められてきた。
しかし増えすぎたのは問題だ。訴えを起こしたのは農民だ。丹精こめて育て上げた作物を食い荒らされては、たまらない。
だから駿河城へ訴えた。忠長は猿狩りを決意した。大納言忠長は駿河の領民のために動いたのだ――
「猿の数は」
「およそ二千と言われております」
「二千…… それを狩り尽くす合戦か」
「左様で。目覚ましい戦功を挙げたものは家臣に取り立てる、との仰せであります」
「戦功か……」
七郎は腕組みして左の隻眼を閉じた。猿相手の戦功とは何か、猿を狩った数だろうか。戦場では首級の数が戦功となった。
「しかし、猿は手強いと思うぞ」
「そりゃ、そうです。猿は身軽ですばしっこく、刀で斬るのは難しいです。槍で突き殺すのも難しいし、ましてや弓など通じませぬ」
助九郎も野生の猿の手強さを知っている。猿は体こそ小さいが人間の数倍の身体能力を持ち、刃物で斬りかかっても容易に避けてしまう。
「なるほど、猿を討てる武芸者を召し抱えるという事かな」
「そうかもしれませんな、忠長様も寂しいかもしれませぬ」
助九郎は剣術指南役として直々に忠長に接している。その助九郎が言うのだ、まず間違いないだろう。
家臣は五千人ほどだが忠長に仕えているわけではない。江戸幕府に仕えているのだ。
駿河五十五万石の太守でありながら、心から忠長に仕えている者はいない。
その寂しさが狂気へと繋がっていくのではないか。
「ひゃあー、お助けー!」
おたまの悲鳴が聞こえてきた。
七郎と助九郎が視線を向ければ、猿がおたまの着物の裾をめくろうとしていた。おたまは顔を真っ赤にして裾を押さえている。
「お嫁に行けなくなっちゃうべー!」
「き、貴様あ、何をするかあ!」
怒った玄蕃が猿を殴った。
すると猿はおたまの裾を手放し、玄蕃に殴り返した。
唐突に始まった玄蕃と猿の殴り合い。
それを七郎と助九郎、更におたまが手に汗握って見守った。
**
駿河にはいくつも船宿があった。駿河湾へと続く河川が多いためだろう。
川に船を出し、船上で釣りをし、夜は宿で調理した魚と酒を楽しむ。
船宿は娯楽施設でもあった。酒宴には女も呼ばれる。男にはそれが一番の楽しみかもしれない。
「気張って働くんだよ!」
船宿の女将は新入りの女中に厳しく言った。
「わかったべ!」
了解したのは、おたまだ。彼女の下手な厚化粧に、女将は吹き出しそうになるのをこらえた。
「ま、まったく……」
女将はこめかみをおさえた。頭痛がするのだ。
船宿を利用する客――最近は武士ばかりだった――が増えており、短期間だけの働き手を募集した。
そしてやってきたのが、おたまであった。
しかも駿河の剣術指南役である木村助九郎の紹介だ。紹介状には家紋の入った印まである。
女将から見れば木村助九郎は雲の上の偉い人だ。おたまは縁者に違いない。
「だからって甘くしないよ!」
「わかったべ!」
「ほら、さっさと酒膳を運ぶんだよ!」
そろそろ酒宴が始まる。船宿はにわかに騒がしくなった。
「……始まったかな」
「そのようで」
七郎と木村助九郎は船宿の側の繁みに潜んでいた。
二人とも黒装束姿だ。背には刀を負っている。
「大丈夫かな、おたまは」
「なあに、志願したのは、おたまですぞ」
「そういえば玄蕃は」
「玄蕃は船宿に忍んでおります」
「さすがは伊賀甲賀組の御庭番だ」
七郎は感心した。玄蕃は江戸城御庭番の忍びだ。
おそらくは船宿の天井裏や軒下に潜み、情報収集をしているのだろう。七郎や助九郎には真似できない技だ。
「ところで…… 本当なのか真田とは」
「そのようですな」
「真田が駿河に……」
感情の働きの鈍い七郎が緊張している。
真田といえば真田信繁の事だろう。
大阪の陣で御神君家康公に死を覚悟させた武勇は後世にまで伝えられている。
「いたのか、真田の残党が」
「伊達政宗公が匿っているという噂もありましたな」
「政宗公が……」
七郎は伊達政宗とは面識がある。
――どうした、一つ目小僧。
伊達政宗公は、幼い七郎に気さくに話しかけてきた。
あの日は忘れられない。同じ隻眼の者同士、伊達政宗は七郎に何かを感じたのだ。
「左様、あの方の言は真に受けるわけには参りませんぞ」
「しかし上様の前では……」
「平伏しているわけではありますまい、戦国の梟雄ならばこそ、上様など恐れておりません。今、天下が乱れれば諸大名ことごとく混乱に陥るでしょうが、政宗公は落ち着いているでしょう。むしろ戦国の覇者たらんとされるはず」
船宿の側の繁みで交わされる天下の秘事。
なんという事か、三代将軍の治世にあっても、天下の争乱は未だ止んでいないとは。
「真田と名乗る者達、今宵はあの船宿で酒宴を催すようで」
「よく調べたな」
「なにせ駿河には数十人の密偵が入っておりますからな」
「なんと……」
七郎は啞然として声も出ない。
「若が来る必要は、正直ありませんな」
「では俺は何のために」
「上様の仕返しではありませんか」
助九郎は七郎が家光を「無刀取り」で制した事を知っている。
「駿河は死地も同然、この助九郎も含め、密偵達は全員が死を覚悟しております」
「それが父上の真意なのか」
「いや、上様の真意でありましょう」
「ほうほう」
「なるほど、上様は俺に死んでほしいわけだ」
「あるいは局様では」
「まさか、局様は俺に名刀を」
「楽しそうだなあ、お前ら」
背後に第三者の声を聞き、七郎と助九郎は戦慄した。
二人に気配も感じさせず、いつの間にか繁みの背後に回りこみ、さりげなく会話に混じるとは。
助九郎は一瞬で全身に冷や汗をかいた。
七郎は左手で腰の脇差しを抜いて、振り返りざまに横薙ぎに斬りつけた。
「ほうほう」
七郎の一閃を避けて夜空に浮き上がった人影は、とんぼ返りしながら着地した。
「ぬん!」
七郎は尚も脇差しで人影に斬りつける。
人影は七郎の鋭い剣閃を二度、三度と巧みに避けて、助九郎を再度驚かせた。
月明かりに浮かぶのは、不敵に笑った二十代半ばの大男だ。
七郎の脇差しに斬りつけられながら笑う余裕があるとは。
と、七郎は脇差しを放り出した。
「ん?」
大男が呆気に取られた刹那の虚を衝き、七郎は組みついた。
七郎の体が独楽のように回転し、大男の体が月下に舞い上がる。
そして――
「惜しいなあ」
大男は宙にあるうちに身をひねり、猫のような身軽さで地面に着地した。
七郎の「無刀取り」の妙技から大男はたやすく逃れたのだ。
そして大男は間髪入れずに七郎に膝蹴りを叩きこんだ。
「ぐぶっ……」
大男の膝蹴りを腹部に受けて、七郎は悶絶した。
重い一撃だった。しかし大男は、これでも手加減しているのがわかる。
(つ、強い……)
刹那の間に七郎は大男の強さを感じ取った。
「どおー!」
助九郎が飛び出し、大男に抱きついた。
七郎も立ち上がり、助九郎と共に大男に抱きついた。
二人がかりでなければ、この大男一人を制する事はできないのだ。
「お、お前ら離せ、男に抱きつかれても嬉しかねえ!」
「だあー!」
七郎は助九郎と力を振り絞り、大男を押した。
そして三人揃って川へと落ちた。
ドボォン!と大きな水音が夜空に響いた。
「何じゃい?」
船宿の部屋の障子が開き、老人が顔を出した。
「まさか、また佐助が悪ふざけをしておるのか?」
老人の隣からは、かわいらしい少女が顔を出して川の水面を見つめていた。
「……ぶは!」
大男が水面から顔を出した。
七郎と助九郎の姿は見えない。
「何している佐助。川に入る季節ではないぞ」
「そ、そうだな爺さま…… さ、さみい!」
「佐助、何をしておった!」
「いやあ、大ねずみを見つけたんで遊んでました」
「ばかもの! いつも遊んでばかりおって!」
「す、すまねえ、お嬢」
佐助と呼ばれた大男は着物を脱ぎ、下帯も外そうとした。
「きゃあ!」
「おい佐助、お嬢の前じゃぞ」
「ああ、悪い」
「し、し、島流しにせーい!」
お嬢と呼ばれた少女が顔を真っ赤にして叫んだ。
船宿は酒宴そっちのけで騒がしくなってきた。
そのどさくさにまぎれ、七郎と助九郎は船宿から少し離れた岸に上がっていた。
あるいは佐助に見逃されたのかもしれない。
「な、何者だ、あいつは……」
七郎は岸に上がってうめく。佐助という大男は強かった。七郎が及ばぬほどに。
「どうやら玄蕃も逃げたようですな、船宿に残っていれば殺されたかもしれませぬ」
助九郎は黒装束の上を脱ぎ、絞っていた。
「奴らがそうか?」
「左様で」
助九郎は密偵から情報を得ていた。それを確かめる事ができた。
真田の手の者は数名いる。
わかっているのは佐助、才蔵、かすみという名の少女だ。
その三人が大納言忠長に接触しようとしていた。
翌日の朝食はおたまが準備した。昨夜は船宿で幾つも失敗したらしい。
「これも花嫁修行のうちだべ!」
おたまは鼻息荒く言った。今の彼女は多少の困難にはくじけない。
玄蕃もまた生還していた。彼はおたまが準備した朝食を、目の色を変えて平らげていた。
そんな二人を横目で眺めて、助九郎はニヤニヤしていた。
朝食を終えた七郎は助九郎を誘って道場に来た。
「――真田の者、どうやって忠長様を動かすのだ」
稽古袴に着替えた七郎は、道場で助九郎に問う。
「もしも、政宗公の手引があったらどうします」
助九郎は道場で七郎と組み合った。無刀取りの稽古だ。
無刀取りとは戦場における組討術の事だ。
槍が折れ(折れた槍を扱う技が杖術の基になったという)、刀も失った時、最後は自分自身を武器にするのだ。
「政宗公の手引……」
七郎は助九郎の小外刈りで足を払われ、道場の床に背中から落ちた。目にも留まらぬ早技だ。
「左様、すでに政宗公の使者は何度も駿河を訪れております」
助九郎は七郎の肩関節を極めて抑えこむ。脇固めだ。
「そ、そして遂に真田が……」
七郎は助九郎が脇固めを解いた瞬間、素早く体を起こした。
助九郎も素早く身を離している。二人の稽古は、後世の柔道のようだ。
「あの大男は護衛ですかな」
「他にも老人と娘がいた、あの娘は……」
「お嬢と呼ばれておりましたな、という事はまさか……」
助九郎が拳で打つ。七郎は弧を描く足さばきで拳を避ける。
更に七郎は踏みこみながら前蹴りを放つ。今度は助九郎が弧を描く足さばきで蹴りを避けた。
「は!」
七郎は右肩から体当たりをしかける。
助九郎も右肩から体当たりをしかけた。
二人は互いにぶつかりあい、身を離す。
「真田の遺児…… か」
七郎は大きく息を吐き、道場中央で助九郎と向かい合う。
助九郎も呼吸を整え、身構えた。
互いに本気ではない。戯れだ。
打つ、蹴る、当たる、組む、崩す、投げる、極める(間接技)、絞める。
それらが流れる水のごとく繋がって敵を制する。
無手にて刀を手にした敵を制する、それを無刀取りという。
その技術は後世の柔道に受け継がれている。
「遂に親玉が出てきたという事ですな」
助九郎はニヤリと笑った。
駿河大納言忠長の剣術指南役であり、この地の密偵を束ねる元締めだ。
その助九郎は明日をも知れぬ任を帯びているが、不思議に悲壮感はない。
いや、むしろ死地にある事を楽しんでさえいるようだ。
「真田の遺児が…… 政宗公の名代として駿河に来たのか」
考えたくもないが三者が結びついた時、七郎には悪い予感しかしない。
天下が乱れ、再び戦国の時代がやってくる予感だ。
駿河城下町に旅芸人一座がやってきていた。
好奇心に駆られた人々が、城下町の外れの広場に続々と集まってくる。
見物料を払えば、縄を張られた区画内に踏み入る事ができる。
その区画の中で、旅芸人は群衆に芸を披露していた。
「おお〜」
高所に張られた一本の綱の上を、長い棒を手にした美女が渡っていく。
別の美女の着崩した襟元からは、蛇が現れて群衆を驚かせた。
大男ははしごに登って、軽業を披露する……
更には鉢巻をしめた凛々しい美少女が、人を立たせた的に向かって短刀を投げつける。
「えい! えい!」
美少女の投げた短刀は、人を避けて的に突き刺さった。
ほんの少し手元が狂えば短刀は人に当たる。
命がけの技であり芸であった。
「す、すごいべ!」
おたまは興奮して鼻息を荒くしていた。おたまの隣には玄蕃がいる。
「奴ら忍びか……?」
玄蕃は口の中でつぶやく。おたまを連れて旅芸人一座の見物に来たが、これは彼の任務でもある。助九郎の命によって、おたまも連れてきたのだ。
「いやあ、すごかったべな〜」
おたまは旅芸人一座の見世物が終わっても、興奮冷めやらぬ様子だ。
「あ、ああ」
玄蕃は苦笑した。任務ではなく、おたまと共に個人として訪れたかった。
「なんだか夫婦みたいだべ」
おたまは言った。深い意味はなかった。男と女で連れ添うなど、夫婦でなければしない事だと思っただけだ。
「ふ、夫婦……!」
玄蕃は目頭を抑えた。彼の心には何かこみあげるものがあったらしい。腕は立つが残念だ。
「どうしたんだべ、玄蕃さん?」
「な、なんでもない!」
「七郎と来たかったべな〜」
おたまのつぶやきは玄蕃の耳には入らなかった。
おたまは七郎を呼び捨てにする。女心は海より深い。
「がんばんなよ〜」
「また来てね〜」
高所渡りの美女と蛇使いの美女が玄蕃に声をかけた。彼女らは玄蕃の男心に気づいたようだ。
(旅芸人一座が真田の残党か)
七郎は川の水面を見つめていた。着流しの身には寸鉄も帯びていない。
ただ黒く細長い杖を手にしていた。これは丈夫な竹の枝を、数本まとめて紐で隙間なく縛り上げ――
更に上から黒漆で塗り固めたものだ。隻眼である七郎の視力を補うものだが、それだけではない。
打ち据えれば肉が裂け、痛みが体の芯にまで響く。
後世に名を残す「十兵衛杖」かもしれない。
(という事は、あの大男も芸を見せているのか)
七郎は昨夜の手合わせを思い出す。大男は本気でなかったが、それでも七郎は及ばなかった。
(次は…… どうすればいいのだ?)
水面を見つめる七郎の顔から血の気が引いていく。大男との実力の差は、それほどに開いていた。
ふと、七郎は川原に人が集まっているのに気づいた。土左衛門が上がったという。土左衛門とは水死体の事だ。
「川太郎め……」
漁師は涙を拭った。土左衛門は友人の漁師だという。昨日、川に船を出して戻ってこなかった。
「ちくしょう、川太郎のせいで!」
人々の話を聞いてみると、川太郎とは川に現れる巨大魚だという。
なるほど、川幅は半町ほどもある。巨大魚が生息していても、おかしくはない。
「俺の爺さまも川太郎にやられたんだ!」
漁師が産まれる前に、祖父は川太郎に襲われて帰らぬ人になったという事だ。
「か、仇を取ってください!」
女は涙ながらに七郎に頼んできた。七郎は驚いた。なぜ女は七郎に川太郎退治を頼むのか。
あるいは誰でも良かったのかもしれない。仇を取ってくれるのなら。
「……わかった、やってみよう」
七郎は静かに力強く言った。
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