閑話 召命

 かつて天下が乱れる前兆があった。

 将軍家光による辻斬り。

 大納言忠長の狂気。

 内裏の天皇暗殺の秘事。

 それらを制し、天下の乱れを事前に防いだのは、隻眼の七郎だった。

「行くのか七郎」

 内裏で出会った少女、月ノ輪は七郎との別れ際、寂しげにそう言った。

「はい、月ノ輪様も幾久しく、お健やかに」

 七郎の胸にも寂しさがあった。月ノ輪を護衛していた数カ月は、十年に勝る長きに感じられた。

 命を懸ける日々の中で七郎の魂は燃え上がり、最高に充実していた。

 七郎の脳裏に死闘の記憶が鮮やかに蘇る。

 ――うおおおー!

 刺客の振るった凶刃を避け、七郎は強引に組みついた。

 頭突きを刺客の顔面に放ち、刀を手放させ――

 次の瞬間には右手で刺客の襟元を、左手で右袖を握って、体を回す。

 身を沈めながら独楽のように回った七郎は、刺客を背負って投げている。

 刺客は宙を舞い、大地に背中から叩きつけられて失神した。

 後世の柔道における背負投だ。

 柔よく剛を制すの体現だ。

 しかし七郎の心は晴れなかった。刺客は内裏に生活する者だったからだ――

「全て七郎のおかげだ」

 七郎を見上げた月ノ輪は晴れ晴れとした笑顔であった。七郎は満足した。

「次は何処へ行くのだ七郎?」

「さあ、父上と幕閣の命に従い、東へ西へ。何処で死ぬのやら、とんとわかりませぬ」

「七郎、女には気をつけるのだぞ。お主これ以上ないほど女難の相が出ておるからな」

「マジですかあ!」

 七郎は死ぬほど驚いた。マジという言葉は江戸時代から使われていたというが、さだかではない。

 京の内裏を離れた七郎は島原へ向かった。島原の乱が終結すると七郎は江戸へ帰ってきた。

 島原で心の友あるいは魂の同志と呼べる存在を失い、七郎は悲しみと絶望の闇に落ちていた。

 七郎は父の又右衛門を憎み、幕府をも憎んだ。

 だが七郎を絶望の底から救い上げたのもまた、父であり幕府であった。

「江戸を守れ!」

 父の又右衛門が恐かった。死を覚悟した者が放つ凄絶な気迫だ。父の気迫に七郎は圧倒された。

「江戸には浪人が数万人集まっている」

「数万人ですと」

 七郎は絶句した。絶望すら吹き飛ばす新たな脅威であった。

 三代将軍家光によって全国の大名が次々と改易された。隠密として全国を廻った七郎には、それがよくわかる。

 だが改易によって生じた浪人は十数万人に及び、そのうち数万人が江戸に集まっていた事は知らなかった。

 未だ天下泰平の兆しはなかったのだ。

「死に花を咲かせましょう」

 七郎は決意した。江戸を守って死ぬのだ。

 それは償いでもある。

 ――罪の世界に生きていた者が天から使命を与えられる…… それを召命というのです。

 七郎はウルスラの言葉を思い出す。

 ウルスラは島原に来た異国の若い宣教師と、農民の娘の間に産まれた、金色の髪と青い瞳を持つ少女であった。

 天草四郎と許嫁であったウルスラ。

 二人は祝言を挙げる事なく死んだ。

(そうだったのか、四郎、ウルスラ…… これが俺のやるべき事だったのか!)

 七郎の魂は震えていた。

 彼は自身が産まれてきた理由と使命を知ったのだ。

 兵法修行で右目を失った代わりに、武徳の祖神に導かれ――

 魔を降伏する不動明王の真言を心に刻み、魂に宿した無刀取りの妙技で悪を制す。

 それらは全て必然だったのだと七郎は悟った。

 そこでようやく七郎の人生は始まった。



 七郎は眠りから覚めた。

 夢を見たような気がするが、まるで覚えていない。

「やるぞ!」

 ただ心身共に充実していた。

 江戸を守る戦いは、七郎にとって天から与えられた使命なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る