外伝 月陰の剣1 降魔の利剣
月ノ輪は重苦しい毎日が続くと思っていた。
だがそれは、たった一人の男によって破られた。
「この男、こう見えても御書院番で特に腕の立つ者でありますよ」
沢庵禅師はニヤニヤしながら月の輪に告げた。ニヤニヤしていても、いやらしい感じがしない。沢庵の心中には真実の仏性があった。
また御書院番とは徳川将軍のお側つきの親衛隊だ。
「禅師、お戯れを」
沢庵の隣に座した男は苦笑した。歳の頃は二十代後半か。
紐を通した刀の鍔で右目を隠している。兵法修行で右目を失い、無惨な傷痕が今も残る。見苦しいゆえに隠しているとの事だ。
「ほお……」
月ノ輪は隻眼の男を珍しそうに眺めた。彼女の父や側近とは違う何かを秘めていた。
兵法を学んでいる者がいないわけではないが、この男は何かが違っていた。
この男は人を殺めた事があるのだ。それを知ったのは後日の事だ。
「強そうに見えぬがなあ」
「ははは、これは手厳しい」
「月ノ輪様、まあまあ」
「そうですな、世には自分より優れた者が掃いて捨てるほどありましょう」
「沢庵殿、この男は何者だ?」
「小生はやぎゅ、いやいや。七郎と申します」
隻眼の七郎、深々と頭を下げた。
父が公務を辞してから早数年。
月ノ輪の生活はしごく退屈で寂しいものだった。
父は表向きでは隠居に等しいが、その実、政から無縁ではなかった。
月ノ輪の知らぬところで何やら密議を重ねているように見受けられた。
父が何をしようとしているのか、月ノ輪にはそれがわからぬ。
だが幕府の恐ろしさだけは理解できる。
「将軍様は弟御に切腹を申しつけられました」
沢庵は月ノ輪に世間を教えた。それもまた沢庵が宮中に滞在するための理由であった。
「な、な、なんと」
月ノ輪は蒼白になった。兄が弟に切腹を申しつけるとはただ事ではない。そこまでしなければならぬ理由があるのか。それとも血を分けた兄弟でありながら深く憎みあっていたのか。
「それは悲しいではないか……」
月ノ輪は目を伏せた。彼女は父と母の仲が悪い事を知っている。父の自分を見る目の中に、父としての愛と、邪魔者を見るような蔑みが混じる事を知っている。
自分だけが、などとは思わぬ。だが、どうして人の世に争い諍いは絶えぬのか。
三代将軍家光と大納言忠長、二人で天下を二分して治めれば、丸くおさまるのではないか。
「まあ、そういうわけにもいかぬのですよ」
沢庵の代わりに七郎が口を開いた。
彼は沢庵の隣に控え、黙って座して二人の会話を聞いていたのだ。
「兄弟なればこそ相容れぬ問題もあるのですよ」
「よう言うわ、痴れ者が。お主に何がわかる」
月ノ輪は声を荒らげた。自分でも驚くほどだった。なぜか七郎には手厳しく当たってしまう。
それは彼女が七郎の優しさに甘えているからだ。
「わかりますとも」
七郎は短く語った。
自身は嫡子ながら、隻眼ゆえに先師から伝わる剣を身につけられなかった事。
将軍家光に目をつけられ、御書院番ながら遠ざけられている事。
「それは単に七郎の不幸話ではないのか」
「まあ、そうかもしれませぬ。しかし心中に憂いあればこそ他者の憂いもわかるというものです」
「ふうん、そういうものか」
月ノ輪と七郎、二人は気負いなく話している。暗く塞ぎがちだった月ノ輪の心は、七郎によって迷いを離れつつあるのだ。
「ふっふっふっ、さすがは我が弟子」
沢庵は二人の様子を眺めて満足した。沢庵は僅かな期間ながら七郎に厳しい指導を施した。
およそ仏縁のないと思われた七郎が今、月ノ輪という少女の心を明るい道へと導きつつある。
修羅は闘争を好む悪鬼だが、時に仏敵を降伏する。それゆえに仏法の守護者であるのだ。
七郎を見ていると沢庵にはそれがわかる。七郎もまた一個の修羅だが、彼は仏法の説く人道の守護者であるかもしれない。
*
「さて七郎よ、どう思う?」
沢庵は別室で七郎と二人きりになるや問いかけた。
どうでもいい話だが、この奇妙な師弟は茶菓子を要求してばかりいるので、宮中の女官たちを困らせていた。
「どうとは?」
「この宮中に魔物が出るそうだが」
「魔物は人の心に潜んでいるものです、いわば魔物は人間の悪意が育てる」
「ほほう、それが友景殿の教えかな」
「いやいや、小生が体験」
七郎は咳払いして、
「まあ友景殿の元では、大陸の妖術というものも教授いただき」
「ほう」
「大陸の妖術には死者をも操る術が――」
そこまで言ったところで襖が開いた。宮中の女官が茶と茶菓子を盆に乗せて運んできたのだ。
「おう、おう」
「これ、これ」
沢庵と七郎は目を輝かせ、子どものように茶菓子を味わった。
その様子は決して憎めないものだが、天下に名を知られた沢庵禅師に、まさかこのような一面があろうとは。
「うまい! うまい! うまい!」
と、七郎は世間の流行りか、うまいを連呼した。
「なんですか、それは」
女官は呆れた様子だ。沢庵禅師とその弟子が、茶菓子に夢中とは。
「いやはや、これは失礼。あまりに美味なので」
「ところで」
と女官は切り出した。目つきが変わっている。
「七郎殿は将軍家の御留流、柳生新陰流を修めたと聞きましたが」
御留流とは門外不出という意味だ。柳生で新たに興した陰流、故に柳生新陰流と呼ぶ。その兵法の妙は、この時代では武士ですら学べない。
将軍家剣術指南の柳生又右衛門が将軍と、高弟達に密かに伝えるのみだ。
その高弟達は各地に飛び、その先の藩で剣術指南役を担当しつつ、情報収集にも務めていた。
幕府大目付でもある柳生又右衛門は、幕府の密偵を統率し、江戸にいながらにして世間を知っていた。
「いや、俺はこのような隻眼であるし」
七郎は人懐っこい顔で女官に振り返った。右目の潰れた恐ろしげな異相に愛嬌が浮かんでいた。
「距離がつかめぬ。だから剣など修められぬよ」
「では無刀取りですか」
女官の眼差しは暗く冷たい。七郎の隙をうかがい、首をも取ろうという気配がある。
この女官は内裏の守護者の一人で、月ノ輪の身辺警護を任されている。
名を、かすみという。彼女から見た七郎は、憎き幕府から派遣された得体の知れない男である。
内裏が敬愛する沢庵禅師の連れてきた男といえど、簡単には信用できない。
「無刀取り…… どこで聞いたね」
「天下に知れ渡る兵法の妙技、およそ兵法を志す者が知らぬわけがありませぬ」
「うーむ」
七郎は考えこんだ。その様子が、かすみには耐え難い苛立ちを生じさせた。
「練武場へお越しください」
内裏の中に立派な練武場がある事に七郎も沢庵も驚きを隠せない。
板の間の静かな空間、上座の掛け軸の香取大神宮、鹿島大神宮の文字。
七郎を奇妙に落ち着かせる練武場は、今ではかすみら警護のものが利用するのみ。内裏の男達ですら利用する者はほとんどいないという。
「七郎殿、一手御指南いただきたい」
かすみは女官のいでたちから稽古袴へと着替え、たんぽ槍を手にしていた。
「ほう、凛々しく美しい」
七郎の言葉に、かすみはそっぽを向いた。照れ隠しだろう。
しかし勝負とは非常なもの、すでに対決は始まっているのだ。
「七郎殿が修めた兵法、一手御指南いただきたい」
かすみは七郎に向き直った。彼女の家系は代々、内裏を守護してきた。
それゆえにかすみは月ノ輪の近隣警護の筆頭に選ばれた。腕も立つし、月ノ輪との仲も姉妹のように良好だ。
だからこそ七郎という外部から派遣されてきた男に苛立つのだ。
「強そうだな」
七郎は弱った顔をした。闘志も覇気もない。
「将軍の御書院番が情けないですね」
かすみは薄笑いした。明らかに七郎を見下していた。
「まあ、では少しだけ」
七郎は床に足を踏み出した。
その一瞬にかすみはたんぽ槍を繰り出した。
鋭い突きだが七郎は身をひねって、それを避けた。
避けつつ掌でたんぽ槍の柄を打ち払っている。
「……なかなかやりますね」
かすみの整った顔は引き締められた。彼女は七郎の隠された実力を見抜いていた。
「もうよかろう、かすみ殿」
沢庵は相も変わらず好好爺の笑みを崩さない。
「わしらはこれから日課の昼寝じゃ」
沢庵は笑って言うが、かすみは笑っていない。彼女には七郎と沢庵が忌々しいものに思われてきたのだ。
夜であった。内裏も闇と静寂に満ちている。
「ち……」
かすみは夜の中で舌打ちする。七郎の事を思い出すとイライラするのだ。
幕府から派遣された腕利きという事だが、強そうには見えないが只者ではない。
その七郎は僅か数日で月ノ輪と親しく話すようになった。身分を考えればまともに口を利く事すらできぬというのに。
かすみは小さなあくびをして夢見心地に落ちた。
内裏に魔物が現れてから一月、彼女は寝ずの番を毎日のようにしていた。
魔物による実害は出ていないが、遂には沢庵禅師までもがやってきた。
その沢庵禅師が魔物を斬る役にと推薦したのが七郎であった。あんな男が何だというのか。
心乱れたまま、かすみは手にした薙刀で体を支えて、立ったまま眠ってしまった。
かすみが眠りについたのは、ごく僅かな時間であった。
その彼女は異様な気配を感じて目を覚ました。
肌を刺すような夜の冷気に混じり、得体の知れない気配がする。
視線を動かせば内裏の庭に白い姿があった。
だが、それは人間ではなかった。滑らかな白い肌を持つ全裸の女のようであるが、両手両足の指先は丸まり、長い尾も生えていた。
一見した印象は人間とヤモリの間の子だ。
「恐いんじゃないかい」
人間とヤモリが融合したような不気味な生物は、悪意ある笑みを浮かべていた。両の瞳は夜の中で真紅の輝きを放っている。正しく魔物だ。
「な、なんだと」
かすみは虚勢を張った。心中の恐怖を悟られたくはなかったが、薙刀の柄を握る手は震えている。
「いいんだよ、逃げても。人間なら好きな事をして遊んで楽しく暮せばいいじゃないか」
「な、何を言うか」
かすみは尚も虚勢を張るが、魔物の言葉には甘美な誘惑があった。
好きな事のみ行い、遊んで暮らす。
それはかすみの人生を否定するような発言でありながら、同時に美酒のように心を酔わせた。
内裏の警護の任を先祖代々受け継いできたかすみ。それは誇りであると同時に重責でもあった。
それを捨てれば自分は楽に生きられるのではないか――
「やめた方がいいなあ」
突如として聞こえたのは男の声だ。全く気配など感じなかったので、かすみは心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
ましてや、その声の主は――
「自分さえよければ良いというのは畜生道だぞ」
新たに庭に現れたのは黒装束の人影だった。一体いつの間に現れたのか、それにもまして黒装束の人影の顔には恐ろしげな面がある。
それは黒塗りの般若の面だ、鬼女の面だ。
「おい、化物。いい加減な事をほざくな。腹が減れば親兄弟でも喰らってしまう畜生道に誘うな。お前も人間であったろうに」
般若面は魔物へ諭すように語りかけた。そういう物言いはどこか沢庵禅師に似ていた。
「う、うるさいんだよ!」
魔物は怒りに白い顔を朱に染めて般若面へ飛びかかった。かすみが目を見張るほどの、獣のような速さだ。
般若面も動いていた。
腰の刀柄に素早く右手を伸ばし、抜刀と同時に横薙ぎに斬りつける。
夜の闇を斬り裂く紫電一閃。
魔物の長い尾が半ばから切断されて、内裏の庭に落ちた。
「ひいいいい……!」
魔物は尾を斬られて、悲鳴を上げて逃げ出した。内裏の建物の壁に両手両足で貼りつき、苦もなく登っていく。その様は正しくイモリだ。
「待て!」
般若面も駆け出し、闇の中に姿が消えた。
一人残されたかすみは夜の中に呆然と立ち尽くさた。
般若面の手にしていた刀の閃きが脳裏に焼きついて離れない。
月光を浴びて淡く輝く刃は、魔を降伏する降魔の利剣のごとしだった。
翌朝、かすみは月ノ輪に対面した。
「魔物を逃してしまいました」
かすみは月ノ輪の前に平伏し、額を畳にこすりつけた。
「まあ気にするでない」
月ノ輪はそう言った。
「それよりかすみ、共に朝食にしよう」
「は?」
かすみは間抜けな返答をした。
あれよ、あれよという間に女官たちが食事の準備を整える。部屋には沢庵と七郎までもが招かれた。
七郎は昨夜、般若の面をつけて魔物と対峙したはずだが、今の落ち着いた様子を見ていると昨夜の事が夢のようにも思われてくる。
「いただきまーす!」
月ノ輪は明るい笑顔だった。かすみが見た事もないほどに。
毒見役も通さぬ朝食を月ノ輪は普段とは違う食欲旺盛な様子で平らげていく。
「七郎は箸の使い方が下手じゃな、こうじゃ、こう」
「ははっ、小生は不器用なので」
月ノ輪と七郎は早くも打ち解けている。理由は単純だ。月ノ輪は七郎に父を重ねているのだ。
「仲良き事は良き事じゃ」
沢庵もまた月ノ輪と七郎を微笑ましく見つめている。沢庵にとっては息子と孫娘を眺めるようなものか。その優しい眼差しには慈愛がこもっている。
かすみはといえば、日常の変化に戸惑うばかりだ。沢庵と七郎がやってきてから月ノ輪と周囲の人間が変わってしまった。
内裏の外で、ましてや世の中と戦い続けてきた七郎と沢庵の魂に触れた者達が変わったのだ。
それは積雪が陽光によって溶かされていくのに似た。春は間近でもある。
――ホー、ホケキョ
朝食後、月ノ輪の居室に近い庭で、うぐいすが鳴いていた。昨年にも来たのだろうが、月ノ輪は初めて目の当たりにしたような心地がした。
「春の訪れか……」
「自然というものは美しいものでありますよ」
月ノ輪の傍らで正座した七郎が言う。
彼は隻眼の無頼者のようでありながら修験者のごとき厳粛さを漂わせ、内裏の女官をジロジロ眺める俗物のようでもある。およそ一言で説明できぬ人物であった。
「月ノ輪様の御心、晴れる時も訪れる事でしょう」
「そうじゃな七郎…… お主、弱そうなくせに馬鹿ではないな」
「それはどういう意味でございましょうかあ!」
七郎の平静は月ノ輪の一言で崩れた。案外、月ノ輪が兵法を志せば並々ならぬ域へ到達するかもしれない。
さて、かすみは珍しく昼寝していた。寝ずの番を一月ほども続けていたのだ。まとまった眠りに就く事もなく、仮眠を取ってばかりの生活で、精神は苛立っていた。
今ようやく、かすみの精神は安らぎを得ていた。しかし、夢の中にも昨夜目撃した魔性が出てくる。
(あのおぞましい姿は……)
人間とヤモリが融合したかのような姿に、かすみは心底怯えた。人外の化生と初めて遭遇したのだ。あの魔物が一月あまりも夜な夜な内裏に現れて、人々を騒がしていたのか。
(月ノ輪様を守らなければ!)
かすみの決意は鋼より固い。
だが、魔性を前にすれば怯えを制する事ができない。
あの男ならばできるのだろうか。沢庵と共にやってきた隻眼の七郎ならば。
夕刻、内裏も夕餉の準備であった。
内裏のあちこちから薄い煙が立ち昇る。
そんな中、七郎は庭に一人出ていた。
「――ふ!」
七郎は庭木の一つに古着を着せて、それに向かって無心に技をしかけていた。
父から学んだ組討の術であり、先師から伝えられた魂の技だ。
その技の型は、後世の柔道に似る。
打つ、蹴る、当たる、組む、崩す、投げる、極める(関節技)、絞める……
それらが一つに統合された技術こそが、先師の上泉信綱から伝えられた「無刀取り」だ。その妙技に感服した御神君家康公は柳生又右衛門宗矩を剣術指南役として迎えたという。
「私にもその技を教えてくれ」
月ノ輪は七郎に声をかけた。興味津々で兵法修行をしばらく眺めていた。
「今日はもう遅いゆえ、明日にしましょう」
七郎は汗に濡れた顔で月ノ輪に振り返った。隻眼の異相に浮かぶのは、謙虚で無欲な精神だ。
「私も強くなりたいな」
「強くなってどうします」
「……生活を、いや運命というものを変えてみたい」
「それは」
七郎は言葉に詰まる。月ノ輪の心が見えない。修行が足りぬと自責しつつ言葉を紡ぐ。
「できるでありましょう。小生が、そうでありますゆえ」
「ならば私にも兵法を教えてくれ。御書院番でも腕が立つのだろう?」
「小生は見ての通りの隻眼、剣には習熟しませんでしたが」
そう言って、七郎は過去の事を話した。
幼い日に父との兵法修行で右目を潰した事。
その後しばらくは悲しみに支配されて、兵法から離れていた事。
そこで小野次郎右衛門忠明の教えを受けた事……
「剣を用いようと槍を用いようと、ただ一刀にて敵を仕留めるゆえに一刀流というのだと」
「ほほう」
「その一言に小生は光明を見い出しました」
七郎が師事した小野次郎右衛門忠明は、戦国の剣聖と呼ばれた伊藤一刀斎景久から直々に剣を学んでいる。
柳生又右衛門宗矩と並び、将軍家剣術指南役でもある。
そんな人物からたった一言とはいえ教えを受けるとは、七郎は只者ではないのかもしれない。
「あるいは兵法を学べば、自分の前途を切り拓けるかもしれませぬ。小生の場合は右目を失う代償と引き換えでしたが。少々話がそれました」
「かなりそれたと思うが…… 何かを得るという事は何かを失うという事と同じか」
月ノ輪はうつむいた。まだ十になるかならぬかの少女だが、どこか達観していた。それだけの生き方を経てきているのだ。
「左様でございます。小生は右目を失ったがゆえに兵法の道に深く踏みこむ事ができました」
七郎は自分を歩だと思っている。将棋の駒に例えての事だ。
歩は最も弱い駒だ。七郎は自分を弱いと思っている。幕府の捨て石くらいに見ている。
だが彼は右目を失う代償と共に兵法の道に深く踏みこんだ。敵陣深く斬りこんだ歩がと金に成るように、彼もまた並の使い手ではない。七郎より強い者も少なくないが――
「月ノ輪様、兵法指導は明日にしましょう」
「うむ、では今日はよく食べて早く眠るとしよう」
「その意気です」
七郎は微笑した。月ノ輪の心の曇り、少しずつ晴れてきたように思われた。
輝く笑顔に魔物は寄らぬ――
七郎は陰陽師の友景から真理を教えられた。友景は七郎の大叔母の子だ。
内裏に魔物が現れるのは、何者かの思いに引き寄せられての事だ。
夜となった。
広い内裏も闇と静寂に満ちていた。
その闇の中を歩き回る者がある。それは黒装束に身を包み、顔を般若面で隠した七郎だ。
彼は夜目が利くのか、月光の淡い光のみで内裏の庭を歩き回っていた。
ふと足を止め、七郎は夜空を見上げた。般若面の奥で七郎は隻眼を細めた。
この夜の闇に、七郎は何かを感じ取ったのだ。同時に天地宇宙の気と七郎の魂は調和した。
右目を失った事で、七郎の他の感覚は研ぎ澄まされている。あるいは魂までもが常人より一段高みに在るかもしれぬ。
月ノ輪は何かを得るという事は何かを失う事だと言った。
その理は真実だ。
「ふう……」
七郎の魂に蘇る記憶は、自身の放った最高の一手である。
その充実が己を救う。
七郎にはいつでも死ねる覚悟がある。
「いや、そうはいかんな」
七郎は明日、月ノ輪に兵法指導をすると約束した。ならば今夜、死ぬわけにはいかぬ。
だが七郎にとって明日は遠いのだ。
遠いのだ!
そして内裏に冷たい風が吹き始めた。
(これはいかなる妖気か)
七郎の身が震えた。これは風の冷たさだけではなかった。
心中に走る恐れと迷い。それは人知の及ばぬ存在を感知しているからだ。この恐怖を克服した先にしか明日はない。
魔を降伏する不動明王の真言――これは沢庵禅師より教えられたものだ――を魂に唱えつつ、七郎は周囲の様子を探った。
果たして夜の中に妖気のほとばしりを感じた。
「そこだ!」
叫んで七郎は刀の鞘に差しこんでいた小柄を抜いて、闇に投げつけた。
その小柄は空中で静止した。闇に潜む何者かが、小柄を空中で掴み取ったのだ。
「また会ったねえ色男」
夜の闇から姿を現したのは、昨夜遭遇した魔性であった。ヤモリと人間が融合したかのような異様な姿、ましてやそれが女の姿をしているとは。
女は魔物という言葉が七郎の魂に深く突き刺さる――
「あんた一体、何なのさ」
魔性は小柄を手放し、大地に落とした。一糸まとわぬ裸身が月光に映えた。妖しく艶めかしい肢体だが、尻の辺りから生えた長い尾が七郎の魂を震わせる。
女の姿をしていても、これは正しく魔性であった。ましてや七郎が投げつけた小柄を余裕で掴み取るなど、身体能力は常人をはるかに越えている。
七郎は全身に冷や汗を流していた。昨夜、彼の降魔の一刀は魔性の尾を斬り落としている。
だが、それは魔性の心を乱せたからこその、会心の一刀ではなかったか。
面と向かって手合わせすれば、七郎が及ばぬ化物なのではないか。
「真っ黒な魂をしているよ。あんたほどの悪人は見た事ない」
魔性の言葉は七郎の心胆を寒からしめた。七郎は人を殺めている。彼は幕府隠密として全国を廻っていた。
大納言忠長の治める駿河に侵入し死線をかい潜り――
とある小藩の隠し銀山を探る隠密行では危うく死にかけた。
生と死が隣り合わせの生活、あるいは狂った世界を生きてきた七郎。
なのに狂わず生きているとは、七郎こそが悪人であるからなのか。
意図せず放たれた魔性の言葉に、七郎の魂は黒々と渦を巻いた。般若面の奥で七郎の顔から表情が消えていく。
だが魔性は七郎の変化には気づかぬ。舌なめずりして七郎という獲物を狙わんとする。
「よせ」
七郎は般若面の奥から低く暗くつぶやいた。
「今夜の俺は一味違うぞ」
七郎の魂から恐れも迷いも消えた。
師事する沢庵の陽気な笑いも、月ノ輪の可愛らしい笑顔もまた心から消えた。
黒々とした殺気が七郎の魂で渦を巻く。今の彼は一個の魔性だ。
七郎の殺気を浴びても魔性に怯んだ様子はなかった。
命のやり取りすら楽しむ精神性、それゆえの魔性か。
(女は魔物だな)
七郎は般若面の奥で不敵に笑った。
(いや、人間こそが魔物なのだ)
七郎は思い返した。人間こそ、いや人間の悪意こそが恐ろしいのだ。
刀槍の刃など人間の悪意には及ばない。七郎は悪意によって振り回されて辛苦の中をもがいてきた。
それは眼前の魔性も同じなのだろうか。
死に勝る辛苦の生ゆえに人間を辞めて魔性に転じたのだろうか。
そして死すら救いに感じているのか……
「食ってやるよ、頭から」
魔性は口を開いた。小さく鋭い歯がびっしりと並んでいた。
「そうか」
七郎はそれだけ言った。
次の瞬間、月下に魔性が舞い上がり、七郎へと襲いかかった。
七郎の右手が動いた。刹那の間に左手も動いた。
二条の閃きが闇を斬り裂いたかに見えた時には、三つに分かれた魔性の体が内裏の庭に落ちた。
首と胴体を切断された魔性の肉体は、僅かな間、大地の上で震えていたが、やがてドロドロに溶け崩れた。
七郎は両手に二刀を提げて、魔性が溶け崩れていくのを見下ろしていた。
般若面の奥の七郎は無表情だ。
左手の脇差しで横薙ぎに魔性の首をはね、右手の三池典太で胴体をも両断した。
刹那に閃いた二刀の技は、月陰の剣とでも称すべきか。
神業にも思える剣技を披露しても、七郎の心には何の感動もなかった。
七郎の闘志は――
いや、七郎の剣魂は、夜の闇に現れた新たな魔性の気配を感じ取っていた。
それは夜の闇に浮かび上がる蝶だ。
ただの蝶ではない。
一糸まとわぬ美しい裸身の背に、蝶に似た羽根を生やした魔性……
月光蝶であった。艶めかしくたおやかな体から伝わるのは、得体の知れぬ妖気だ。
それは七郎の魂を訳もわからず震えさせた。
「美しい…………」
と七郎、思わず声が出た。得体の知れぬ魔性であろうと、その美に見惚れたのは真実だ。
月光蝶は妖しく微笑した。
“なかなかやるな、人間も”
そう言った月光蝶の体が夜の闇に溶けこんだ。瞬く間に妖艶な肢体は消え失せた。
あとには深い夜の闇と、彼方まで続くような静寂が満ちるのみだ。
両手に二刀を提げた七郎は、般若面の奥で恐怖に耐えていた。
先に斬り捨てたヤモリに似た魔性は、どこかに人間性を持っていた。七郎の推測では、人間が超自然の力を以てして別の存在に転じた姿であった。だからまだ意思の疎通は可能であった。
だが、月光蝶は人間ではない。その心に人間性を感じ取る事はできなかった。
超越の存在に遭遇したという事実が七郎を恐怖させたのだ。
神仏への信仰を持つ者は多い。その存在を朧気に感じたという者とている。
だが、真に超越の存在に遭遇したのは、どれほどいるだろうか。
(わからぬ、わからぬ事が恐ろしい)
七郎は両刀を握りしめた。
魔を斬るとされる名刀、三池典太すら心細く感じられる。
七郎の存在は、夜の闇に漂う塵芥の ようだ。
翌日、七郎は内裏の庭で月ノ輪に兵法指導を行う。
「まずは基礎となる体力をつける事ですな」
七郎は庭木の枝から削り出した木剣を月ノ輪に与え、素振りをさせた。
「えい! えい!」
月ノ輪は袴姿で素振りを繰り返す。その額に汗が輝いている。
素振りを繰り返すうちに、自然、月ノ輪の打ちこみも様になってきた。
余計な力みが抜け、打ちこんだ瞬間に手首を締めるようにという七郎の教えは、早くも体に染みついたようだ。
ひきはだ竹刀のように軽いならばともかく、重い真剣を振るうなら手首を締めなければ痛めてしまう。
「……九十九、百! どうじゃ七郎、終わったぞ!」
「なかなかのお手前です」
七郎は月ノ輪の晴れ晴れしい笑顔に、思わず微笑してしまった。
額に汗した月ノ輪は美しかった。
高貴なる身の少女が重責から離れ、一人の子どもに戻った瞬間だ。
「どうじゃ、七郎。私ならば魔性を斬れるか」
「お戯れを。刀を抜いて死ぬのは男の仕事であります。たとえ弱くても、最後くらいは格好良く死なせていただきたい」
「そうか、男の仕事を奪ってはいかんな。では七郎、潔く死ぬのだぞ」
月ノ輪の言葉は、傍からは酷に聞こえるが、なにぶん世間を知らぬ。
それに七郎には有り難い言葉であった。月ノ輪は自分のために死ねと言っているのだ。全国に比類なき身分の月ノ輪が、自分のために死ねと。
それは自身の命を七郎に預けるという事だ。七郎は、それに感激した。
「月ノ輪様も楽しみを持って日々をお過ごしください」
同時に七郎は懸念もしている。十歳前後の少女が、すでに人生を半ば諦めている事に。
その憂いを何とか晴らしてやりたい――
七郎はそう思わずにはいられない。
「うむ七郎、なかなか殊勝な事よ」
庭に現れたのは沢庵禅師であった。沢庵の背後には何やらしおらしいかすみが控えていた。
「お主は女難の相が出ておるなあ」
沢庵は意地悪く笑った。世間にも後世にも名僧と伝えられる沢庵禅師も、実は毒舌家だ。
「なあんですとお!」
七郎は吹き出すと同時に、女難には覚えがあった。
かつて彼は春日局の密命を受けて、三代将軍家光の辻斬りを止めた。七郎の持つ三池典太は後世で国宝に数えられるほどの名刀だが、それは春日局から報酬として与えられたものなのだ。
駿河では大納言忠長の暗殺を阻止した。刺客団は七郎の父である又右衛門の直弟子ばかりであった。
七郎は忠長の愛妾(彼女は真田幸村の娘であった)の依頼で、刺客団を迎え撃った。
「女に関わるとろくな事がないと普段から言っておったが、お主は自分から死地に飛びこんでおるように見受けられるがなあ」
「ぜ、禅師よ、何をおっしゃいます!」
「そうなのか七郎? お主、女なら誰でも良いのか?」
月ノ輪は可愛らしい眉をしかめて、七郎を見上げた。その様子は弟に呆れる姉のようでもある。
「月ノ輪様、女難とはそのような意味では…… ぶはっ!」
七郎は言い終えぬ内に、かすみの大きく振りかぶって放たれた平手打ちによってふっ飛ばされて、庭に転がった。
「最低!」
かすみは月ノ輪が見た事もないような怒りの形相で七郎を見下ろしていた。
(お、俺が何をした……!?)
地に倒れた七郎はうめく。倒れた拍子に口内を切ってしまい、唇の端から血が流れ落ちている。
春日局、真田幸村の娘、月ノ輪、かすみ、魔性の月光蝶――
確かに七郎は女難に見舞われる運命だ。
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