張孔堂異聞10 本気の勝負
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「般若面とは何者だ?」
それが張孔堂門下での話題だった。
先日、張孔堂はあわや放火されるところだったが、それを事前に防いだのが般若面だった。
黒い般若の面で顔を隠し、黒装束で江戸の夜に現れる般若面。
裏世界の噂では、まず般若面は駿河に現れたという。駿河大納言忠長の治める地には倒幕の意志を秘めた大名が密かに集まっていた。
彼らは大納言忠長を神輿に担ぎ、全国の大名にも呼びかけ、天皇をも動かして倒幕を企んでいた。
その企みは敗れた。大納言忠長が倒幕をあきらめたのだ。忠長が倒幕をあきらめたのは、般若面によって成敗されて、改心したからとも囁かれている。
「正しく天下の義士だな」
正雪は口元に笑みを浮かべた。
最近は笑わなくなった正雪には珍しい事だ。
「無刀取りという組討の術を使うそうだな、ふっふっふ」
側にいる丸橋は愉快そうに笑っていた。彼は般若面の正体が誰なのか、勝手な推測をしていた。
「十中八九、あやつであろう」
「さあな、それはわからぬ」
丸橋と正雪は楽しげだ。
隻眼の七郎は長屋に住んでいる。
本来ならば武士の嫡男である七郎は弟に家督を譲り、自身は長屋で質素な生活を送っていた。
(無駄なものは何一つない……)
四畳半の自室で正座し、瞑想する七郎。彼の魂は迷いを遠く離れ、天地宇宙と調和していた。
江戸を守る明日をも知れぬ日々の中で、七郎は常に死を覚悟していた。
求めるのは満足な死だ。
だからこそ日々が輝くのだ。
「さてと」
七郎は立ち上がった。彼は今日は國松に稽古を申しこんでいた。九段の染物屋、風磨の主人である國松もまた江戸を守る戦友だった。
「お、おおお……」
七郎、思わず畳に尻もちついた。長時間の正座で足が痺れていた。今ひとつ締まらない男である。
七郎は江戸城内の道場へ来た。すでに稽古袴に着替えていた。
「来たか」
道場ではすでに稽古袴の國松が待っていた。
「國松様かたじけない」
七郎は國松に頭を下げた。
「それはよい」
國松は静かに言った。体から殺気がほとばしっている。
「張孔堂を救ったそうだな」
「成り行きです」
「大火を未然に防いだという事で大目に見よう…… だが七郎よ、なぜに張孔堂に肩入れする?」
國松はじっと七郎を見つめた。背筋の震える迫力があった。
町の顔役として知られる國松。彼を前にすれば町民も浪人も、ましてや武士ですら怯む。その迫力は戦国の魔王、織田信長に似るという。
それも当然だ、信長は國松の祖母の兄である。血は繋がっている。その容貌ゆえに祖父である家康から疎まれたのだ。
國松の正体は大納言忠長だ。数年前に切腹して果てたと世に伝えられている。
だが忠長は生かされた。
柳生又右衛門宗矩と小野次郎右衛門忠明の両者から兵法を伝授された忠長は、七郎以上の実力者だ。
忠長は自身の狂気と罪を償うために、國松と名を変えた。國松は幼名でもある。生まれ変わった國松は江戸を守るために命を捨てている。
「さて、小生にもわかりませぬ」
七郎は苦笑した。彼が正雪を守るのは兄のように慕うからか、それは七郎本人にも今ひとつわからない。
「ほう」
國松の表情は変わらない。しかし彼は七郎には甘いかもしれない。
かつて狂気に走った國松を無刀取りで制し、正気を取り戻させ、更に倒幕の野望を捨てさせたのは七郎だ。
また、七郎とは世を欺く仮の名だ。
七郎の真の名は柳生三厳、通称は十兵衛。七郎とは幼名である。
将軍家剣術指南役にして幕府大目付の柳生又右衛門宗矩の嫡男だ。
後世に詳しい事跡は伝わっていないが逸話の類は多く、著名な剣豪として名を残している。
その柳生三厳が七郎の正体だった。
「何をするつもりだ七郎?」
「小生は頭が悪い、この上は戦って死ぬ事を幕府への忠義と心得ております」
「ほほう」
「その前に國松様に我が無刀取りを披露し、及ばぬならば我が身を恥じて死ぬしかありませぬ」
「能書きはよい、かかってまいれ。いい汗をかきたいのだろうが、余は手加減せぬぞ」
國松は口元に笑みを浮かべた。
「我が全身全霊!」
七郎、素早く踏みこんだ。
矢のように飛び出した七郎の顔へ、國松の突き出した掌が当たる。
うめいて動揺した七郎の右腕に、國松は素早く抱きついた。同時に國松の右足の爪先が、七郎の右踵を払う。
後方へ体勢を崩した七郎だが、こらえた。
と見えた瞬間には、國松は体を回して七郎を背負って投げている。
ダアン、と七郎は道場の床に背中から落ちた。
見る者の目を奪う、國松の鮮やかな一本背負投だ。
もっとも初手は抱きつき小内と呼ばれる後世の柔道の技で、即座に反則負けになる。
ましてや顔に掌を当てるのは――
「浅い」
國松は七郎を見下ろして無慈悲に告げた。だが、それが七郎には良い薬だ。己の傲慢を打ち砕く降魔の鉄槌だ。
「かたじけない……」
七郎は床に倒れたまま言った。あまりにも見事な國松の兵法――
無刀取りの妙技だった。無刀取りとは一つの技を指した名称ではない。戦場での組討術の事だ。先師の上泉信綱から伝えられた無刀取りの妙技は、ただ一つの技にこだわるほど浅くはない。
何にせよ七郎の心の霧は晴れた。
「死に急ぐな」
國松は幾分、哀れみをこめた調子で言った。
「お前は何のために命を懸けるのだ」
そう言って國松は道場から去った。染物屋の大旦那である國松は忙しい。七郎のために時間を作ってくれただけでもありがたいのだ。
残された七郎は床に大の字になったまま頭を冷やしていた。
正雪の周囲には人が集まっている。張孔堂には大名が接触している。
だが倒幕の意志があったとして、誰が首領となるのか。大名の間には石高による格差もある。石高の高い大名ほど、江戸の屋敷の門に威厳を漂わせている。
七郎は今、一つの真理をつかんだ。無数の大名があるが、それらが一つにまとまらねば、倒幕など起こり得ぬのだと。
幕府という組織に属しながら、その外に生きる七郎には理解し難いが、大名にも面子がある。
幕府に不平不満があろうと、強大な統率者なくして倒幕などない。
今はまだ安全かもしれぬ。だが徐々に大名達も肚が座ってくるだろう。
その時が江戸最大の危機だ。災禍の中心にいるのは正雪か。
「させん!」
七郎は叫んで起き上がった。心の炎は燃えている。江戸の危機を未然に防ぐ、その覚悟はできている。
命も己の存在も全てを捨てて挑む。
江戸を守る。
それが七郎の覚悟だ。
正雪は張孔堂の自室で腕組みして考えこむ。
彼は全国各地の大名の名代として張孔堂を訪れた武士から、世間を知った。
江戸にいるだけではわからぬ事が、正雪には理解できるようになった。
いや理解できたのは錯覚かもしれない。正雪が体験した事ではないからだ。だが世間の現実が正雪の心に影を落とす。
(やはり、やらねばならぬのか)
正雪は苦々しく下唇を噛んだ。
**
七郎は長屋を出て張孔堂へ向かった。
張孔堂の講義はしばらく休むという事だったが七郎はかまわない。
(正雪に会わねばならぬ、やつに憑いた魔物を払わねばならぬ)
七郎はそう思う。正雪が乱心しつつあるのは魔物に憑かれたからだと。
かつては家光も忠長もそうだった。心の曇りを晴らせぬままに苦悩を積み上げて狂ったのだ。
その狂気を打ち払ったのが、七郎の無刀取りだった。奇妙な運命に導かれ、七郎は知らず知らずのうちに天下の動乱を防いできた。
彼こそが仏法天道の守護者であるかもしれない。闘争に生きる修羅達も、時に仏敵を降伏するからこそ仏法の守護者なのだ。
もっとも七郎にそんな自覚はない。自負もない。自信もないが死ぬ覚悟だけはある。
彼は必殺の一手を狙う永遠の挑戦者だ――
「たのもう!」
閉められた張孔堂の門前で七郎は声を張り上げた。いささか気負いすぎだ。
いや死に急いでいるのかもしれぬ。彼は他者の命を重んじるが自身の命を軽んじる。
「お、お前か」
通用口から顔を見せたのは、意外にも丸橋であった。彼は刃に鞘を被せた真槍を手にしていた。
「まあ入れ」
丸橋は言った。真槍を手にしているのも異様だが、七郎を歓迎するような態度も異様だった。
「お前につきあってもらおう」
丸橋の言葉に七郎は嫌な予感がした。
「……さて、こちらの丸橋忠弥、そして七郎は張孔堂門下でも屈指の遣い手」
正雪は道場に居並ぶ武士達に説明した。道場の壁際には、兵法見学という名目で張孔堂を訪れた武士らが正座して横一直線に並んでいる。
(何がどうした、なぜこうなった)
七郎は道場の中央で丸橋と対峙していた。丸橋は真槍の鞘を外している。槍の穂先の刃が鈍く輝いていた。
「……丸橋忠弥はご存知の通り江戸に知られた槍の達人。更にこちらの七郎なる者は組討の名人であります」
正雪はいささか緊張した面持ちである。芝居がかった話し方だ。居並ぶ武士らは組討と聞いて鼻で笑っていた。その態度に七郎は苛立った。
この時代、組討術は廃れていた。いや槍術もまた廃れていた。
世の中は天下泰平の気風を漂わせ武士ですら兵法を学ばなくなっていた。
戦場の主力は槍だが、それを稽古する場がない。組討もまた怪我をしやすいので武士の間で流行らない。
せいぜい剣術刀術だ。平和な世の中では武士も兵法などしない。算術が生活の基本となり基礎となる。算術のできぬ武士に城勤めはできなくなっている。
今、張孔堂に集った武士達もそのような者達だった。藩内で身分の高い彼らが、藩主の密命を帯びて張孔堂を訪れている。
裏に隠されたのは幕府転覆の野望だ。正雪は彼らの昏い野望の神輿にされかけている……
丸橋はそれが許せない。
七郎もそれは許せない。
正雪は人が良すぎる。それゆえに踏みにじられようとしている。
そんな事があっていい訳がない。
「……皆様には張孔堂の誇る二人の技を存分に」
「やるか」
丸橋は正雪を遮り、七郎に呼びかけた。
目が真剣だった。
「やろう」
七郎は頷いた。彼はいつの間にか左手に短い木刀を握っていた。
「お、おい」
正雪は目を丸くしていた。
右腕と頼む丸橋、弟のように思う七郎。
その二人の気配はどうだ。まるで真剣勝負の様相だ。
張孔堂の武威を示さんと丸橋に槍の演武を頼んだが、まさかそこに七郎がやってくるとは。
この不思議な偶然は、武徳の祖神の導きにしか思えない。
「はあー!」
七郎、烈火の気合で踏みこんだ。
「おあー!」
丸橋は野獣じみた気合を発した。道場内が震えるような気合に、居並ぶ武士の面々が血の気を失った。
ガアン!と真槍と木刀の打ち合う音が道場の外にまで響いた。
「はあ!」
七郎は踏みこみ、丸橋に背中からぶち当たった。勢いに押された丸橋は、ふらつきながら壁際まで後退した。
「うわ!」
声を出したのは壁際で見物していた武士達だ。彼らの上に丸橋が背中から倒れこんだ。
六尺を越える巨漢の丸橋だ、彼が背中から倒れてきただけで、居並ぶ武士達は騒然とした。彼らはここまで激しい練武の光景を見た事がなかった。
張孔堂の武威を示すため丸橋に演武を頼んだ正雪。曇っていた彼の顔は、戸惑いから立ち直り、今は晴れ晴れしく不敵な笑みを浮かべていた。
由比張孔堂正雪とは軍学者であり、文武一道の名士だ。
そして丸橋忠弥は、槍を取っては江戸に敵なしと言われた豪勇の士だ。
武士達は初めて二人に畏怖を覚えた。
「はあ!」
七郎は跳躍して飛び後ろ回し蹴りを丸橋に放った。
猿を思わせるような身軽さから放たれた蹴りを、丸橋は槍の柄で受け止める。
「覚悟しろ!」
熱くなった丸橋が踏みこみながら槍を繰り出した。鋭い穂先は七郎にかわされ、道場の壁を刺し貫いた。
鋼の刃の生み出した迫力に、武士らの中には道場から飛び出した者もいた。
それほどの凄まじい迫力だ。これが真剣勝負というものだろう。
「大人しく討たれるのだ七郎!」
丸橋、目が真剣だ。七郎を殺る気か。
「落ち着けえ!」
七郎は槍の穂先を避け、弧を描いて丸橋の右手側に回りこむ。
丸橋が体勢を立て直す前に、七郎は組みついた。
「ふ!」
七郎の烈火の気迫、丸橋の体が宙に浮き上がり、背中から道場の床に落ちた。
刹那に閃いた七郎の背負投一本だ。
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