張孔堂異聞9 束の間の休息
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夜の中で七郎は打ちこみを続ける。
屋敷の庭木に稽古袴を着せ、それに向かって技をしかける。
無心に、ひたすらに。
すでに死を覚悟した身だ。
あとは死に花を咲かすだけだ。
江戸を守って死ぬだけなのだ。
(いい笑顔でいろよ!)
七郎は心中に子ども達の笑顔を思い浮かべながら、庭木に技をしかけた。
体を沈めながら回転し、左手で対手の右袖を引く。
後世の柔道における背負投だ。
柔よく剛を制す、その体現。
稽古袴の袖が千切れ、勢い余って七郎は大地に倒れこんだ。
「ふう…… まだまだだな……」
立ち上がり、夜空を見上げる七郎。月が美しい。
最高の一瞬は、永遠の感動だ。
七郎はおりんと共にうどん屋に来ていた。
江戸城御庭番の一人、源が経営するうどん屋だ。武家屋敷の建ち並ぶ一角に立つうどん屋は繁盛しているようだ。
「ここ来てみたかったの〜」
と、おりんは上機嫌だ。源のうどん屋は、うどんの具材が豊富だ。
ちくわにかまぼこ、油揚げ。
更には海老を始めとした海産物や、野菜の天ぷらもある。
客はうどんを買い、そこに好きな具材を盛って、自分だけの特製うどんを味わうのだ。
具材など盛らずに、山盛りに刻みネギを乗せるだけの客もいるが百人百様だ。
何にせよ、源のうどん屋は繁盛していた。一日ニ食の時代だが、肉体労働者は腹が減る。ましてや今は江戸中で人手が求められていた。
腹を空かせた男性客に混じって、おりんのように興味津々に瞳を輝かせた女性客も店を訪れて、明るい活気に満ちていた。
「そうか」
七郎も顔が緩んだ。おりんの笑顔に癒やされた。おまつの茶屋の看板娘おりんは、その明るい笑顔が魅力なのだ。
「いらっしゃ〜い……」
店主の源が七郎の側にやってきた。店内の作業は雇い入れた女達の仕事だから、源が持ち場を離れてもほとんど影響はないが、それでも珍しい事だ。
「よ、よお」
七郎は冷や汗をかきながら源に挨拶した。
「女連れですかあい?」
源は凄んで七郎の耳元で囁いた。身長六尺を越える源は、異様な迫力をまとっていた。それは戦友である七郎が店に女連れでやってきたからだ。
「あ、いや、すまん……」
七郎、源から目をそむけて言った。
江戸は女が少ない。地方から働き口を求めて男ばかり集まってくる。男女の比率は七対三ほど、男二人に対して女は一人だ。
七郎も源も政も三十を過ぎて一人身だ。
「いい身分ですなあ~」
政もいつの間にか七郎の側に来ていた。小柄な彼は以前は浪人に仕事を斡旋する商人だった。
今は御庭番随一の身軽さを活かして、鳶職のような事をしている。
急設された武家屋敷も多く、屋根の修繕工事も多い。政はあちこちの武家屋敷に出入りしながら、大名の様子を観察していた。
「な、なんだ」
「俺達に対するあてつけですかい?」
「若は俺達を敵に回した!」
源と政の殺気が恐い。いや、それは渦巻く嫉妬の念だろうか。何にせよ七郎は引きつった笑みを浮かべる。
「おいしいね〜」
しかし、七郎の隣に座るおりんの笑顔が、源と政の鬼夜叉に似た心を晴らす。今日はおりんもおまつから借りた簪や着物で美しく着飾っていた。
「お、かわいい娘さんじゃねえか」
「えー、な、何を言うのかな〜?」
「こいつは何? 娘さんの何?」
「し、知り合いかな〜?」
おりんはそう言ってごまかした。今は七郎よりうどんだ。花より団子の精神だ。
「ち、仕方ねえ」
「かわいい娘さんに免じて、今日のところは見逃してやるぜ」
源は店の奥に戻り、政は七郎から離れた席についてうどんを食べ始めた。二人に詰問される間、七郎は生きた心地もしなかった。
「知ってる人?」
おりんは海老の天ぷらを食べながら七郎に質問した。食べ方に愛嬌があって、七郎は新たな発見をした。
「あ、ああ」
七郎は苦笑して頷いた。目の前のうどんに向かう気力もない。男の情念、岩をも通す。それを思い知らされた七郎だった。
「ふうん」
おりんはうどんに向かった。その様子を七郎は横目で眺めた。おりんも七郎を横目で眺めた。互いに心が通じ合っているような心地がした。
その日の夕刻、七郎はおりんを茶屋へ送ると、再び源のうどん屋へ戻ってきた。
「全く、若はふてえ野郎だ!」
「あの娘さんに免じて、飯をおごってくれれば許してやりやしょう」
源と政が息巻いた。
今日は七郎、源、政による近況報告を兼ねた酒宴だ。
すでに夕刻で、うどん屋は店じまいだ。格子窓から夕陽が差しこんでいる。気の早い者なら夕食を済ませて早々と寝てしまうだろう。
「わかった、わかった……」
七郎は胸を撫で下ろした。それぐらいで済んで良かったと思う。共に江戸を守る戦友だ、仲違いで同士討ちなど恐ろしい事だ。
「武士達も大人しくなったかな」
「いやいや、ちょっとした諍いはあるみてえだぜ」
政によれば、江戸住まいの大名同士で諍いは絶えぬらしい。
大名の格式やら、態度が悪いやら。武家の世界は男性社会、縦社会だ。立ち場の弱い者は上から潰されてしまう。
七郎らはその社会の理から離れているが、だからこそ命懸けの日々だ。心の自由は死と隣り合わせだ。
「で、どうだ? やはり……」
「張孔堂とつきあってる大名は多いですぜ」
政の言葉に七郎は顔を曇らせた。
「そうか」
七郎はそう言うだけでも気が重かった。やはり張孔堂には多くの大名が関わっているのだ。
江戸の人口の半分は武士階級だという。参勤交代で江戸にやってきた大名と配下の武士、全員集まれば数万人になるだろう。
その半分だけでも蜂起し、江戸城に攻めこまれれば、将軍家光の首など簡単に取られてしまうだろう。
その不安が七郎に兵法の道を歩ませる。七郎とて人間だ、ましてや男だ、金や色欲に惑わされる。
だが不安の渦は常に七郎の心中にあった。この江戸が災禍に見舞われ、凶賊に幼い子どもまで殺されようものならば――
七郎が日々、無刀取りの技を練磨するのは、その不安を拭い去るためだ。
彼には死に花を咲かせるという意気がある。勝てずとも、せめて守ろうというのが七郎の心意気だ。
「いや、簡単にはいかねえでしょう」
「幕府に不平不満があったってねえ」
源も政も七郎の夢想を否定する。
もしも不平不満を持つ大名が立ち上がれば今の幕府はたやすく倒されてしまう。
だがそれを実行するのは至難の業だ。誰も彼もが七郎のように命懸けで幕府打倒を目指せば、簡単に天下は引っくり返るかもしれないが。
考え過ぎなどと軽く見てはならぬ。数年前の島原の乱とて、最初は小さな騒動だった。
それが数万人規模の一揆となり、全国を巻きこみ、あわや幕府の権威を失わせかけたのだ。
知恵伊豆と称された松平伊豆守信綱が出向いて速やかに、そして残酷に乱を制圧しなかったら、世間は穏やかではなかったろう。幕府に牙むく大名は一つや二つでは済まなかったはずだ。
天下大乱の種は蒔かれている。実るかどうかはわからない。
だが実った時は幕府滅亡の危機だ。天下泰平と万民は平和を謳歌しているが、未だ日本は大災禍の中にある。
それに気づいているのは、七郎や國松など僅かの者しかいない。
「まあまあ、若も疲れてらっしゃる」
「余りもんの天ぷらだが、いい味じゃねえか」
源も政も七郎に酒を勧め、売れ残りの天ぷらなどを酒の肴にして飲み始めた。
不平不満など誰でもある。七郎も、源も政もそうだ。日々に健やかな色気がないというのは男にとって致命的だ。
「せっかくよう、若い娘さんを雇ったのによう!」
源は酒を飲みつつ吠えた。うどん屋ては配膳や接客に女性店員を数名雇い入れた。女性店員がいると男性客も多くなった。
だが全員が十代後半ながら夫持ち、子持ちであった。働かない亭主のために必死に職を求めに来たのだ。
「俺達の怒りは何処に向かうべきなんだ!」
政もまた悲しみをこらえて酒を飲む。
日々命懸けの彼らが色恋に縁がなく、働かずに昼間から酒を飲んでいるような男に妻も子もあるとは。
これを理不尽と呼ばずに何と呼ぶのか。
「うむ……!」
七郎は隻眼から涙をこぼしながら酒を飲み、海老の天ぷらを頬張った。彼は一応、女性に縁があった。
大奥の支配者の春日局、大納言忠長の愛妾たる真田幸村の娘、内裏の月ノ輪という少女、更には天草四郎の許嫁ウルスラ……
今は茶屋の看板娘おりんがいる。恋人を持った事はないが満足している。彼女らとの出会いを天に感謝する一方で、もし出会わなかったとしたらどうなっていたか。
源や政と同じような悲しみに襲われていたのではなかろうか。もっとも源と政は女遊びもしているようだが、七郎には縁遠い世界だ。
「うむ……!」
「何がうむだ、この野郎!」
「女連れでうどん食いにきやがって!」
七郎は酒を飲みつつ、源と政の愚痴をたっぷりと聞かされた。
だが、それによって七郎の魂は迷いから遠く離れた。正雪の事を七郎はしばし忘れた。
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