張孔堂異聞8 天下の義士



 夜の張孔堂門前では、数人の武士が提灯を手にして辞していった。

 それを見送るのは張孔堂門下の一人だ。正雪の身辺には常に人がいる。門下といっても、どこかの藩の武士だ。

 いつの間にか正雪は多くの大名と繋がりを得ていた。

(これはいかんな)

 屋根の上に伏せ、闇に紛れる黒装束の男は七郎だ。

 隠密行動を得意とする七郎は、今も張孔堂近くの武家屋敷の屋根に伏せ、気配を殺している。

 忍びとしての隠形も様になっている。七郎の経験がよく発揮されていた。

(まるでどこぞの藩主だ)

 七郎は闇の中で息を潜めながら思った。

 由比正雪の張孔堂、その門下は千を越す。

 噂に違わぬ威容だ。正雪には江戸に集まった全国各地の大名がついている。

 幕府が因縁をつければ即座に合戦の様相をなすかもしれない。幕府に不平不満を持つ者は数えきれぬほどいるのだ。

 この江戸が戦火に包まれる……

 そんな想像をするだけで、七郎は生きた心地もしない。

(やらねばならんのか)

 七郎は自問する。正雪を自分の手で暗殺せねばならぬのか。そんな事ができるのか。

 兄のように慕った男を密かに始末して、翌日から平然と生きていられるというのか!

 七郎は自分はそんな人間ではないと思いたい。だが夜の闇に身を置くうちに、少しずつ彼の心は白紙となっていく。

 感情も理性も消える。この感覚は体験した者にしかわからない。人間ではない存在へ自分が変わっていく感覚がある。

 七郎は武家屋敷の屋根から舞い降りた。音もなく微かな風であるかのように。

 眼前には張孔堂の門が何者をも通さぬとばかりに、七郎に立ちふさがっている。

 黒装束に身を包み、顔を黒塗りの般若の面で隠した七郎。今の彼は夜の闇に蠢く一個の魔性だ。

 般若面の奥で七郎は何を思うのか……

「む……」

 七郎は小さな声を漏らした。彼は異様な気配を感じた。

 指先が僅かに震えだす。得体の知れない恐怖が全身を駆け巡る。

 七郎は、いや般若面は背後に振り返った。自分がいた武家屋敷の屋根の上に女が立っていた。

 美しい裸身が月光に映える。背には蝶に似た美しい羽根が微かに蠢いていた。

 女は真紅に輝く両の瞳で般若面を見下ろしていた。

「ほう、これは面妖な」

 般若面は面の奥で低くつぶやいた。

「人ならざる魔性とは」

 般若面は全身に走る恐怖の念を、死の覚悟に変えた。

 同時に死の覚悟は生きる勇気となった。

 今ここで死んでも悔いはない――

 そのような心境に到達する事によって、般若面は最高の心技体を発揮する事ができるのだ。

 それは自身の死に花を咲かせんとする心意気だ。

「降りてこい、退治してやる」

 同時に般若面は直感で察した。

 この美しい魔性が正雪に災いを招いているのだと。

 正雪は狂ったのではなく、この魔性に踊らされているだけ―― 般若面はそう思いたい。

 だが般若面の決死の覚悟を嘲笑うように魔性の肢体はふわりと舞い上がり、夜闇の中に羽ばたいていった。

 あとに残ったのは夜の静寂だけであった。般若面は夢を見ていたのではないかと思わなくもなかった。

 が、全身を走る本能的な恐怖と冷や汗は真実だ。黒装束は汗でべっとり濡れていた。

(やつを斬らねばならぬ……)

 般若面は決意するが、いかにして魔性に近づけばいいのか、いかにして必殺の機を狙えばよいのか――

 ましてや魔性は現実の肉体を持つ身なのだろうか。様々な思いが般若面の心中に渦を巻き、般若面は闇の中にしばし呆然と立ち尽くしていた。

 やがて人の気配を感じた般若面は、物陰の深い闇へ身を投じた。何事かと見守っていれば、提灯を手にした男達が数人、通りの向こうからやってきた。

 彼らは般若面の存在には気づかずに、張孔堂の向かいにある武家屋敷の側に来た。

 そして塀の前に屈みこみ、おが屑などを撒き散らした。更に提灯の火を用いて枯れ枝に火を灯さんとした。

(なんと)

 般若面は放火の現場を目撃していたのだ。木造住宅の多い江戸で火事となれば、それは大災害になりかねない。

 これより十数年後には明暦の大火が発生しているが、その時は十万人以上が亡くなったという。

 消火能力の低い当時、小さな火が江戸を火炎地獄に変える可能性があったのだ。

「お前ら!」

 般若面は叫んで闇から飛び出した。人の気配を感じていなかった放火犯らは驚愕した。

「は、般若!」

 叫んだ男へ般若面は斜めに組みついた。右手を男の腰に回して投げる。これは柔道における大腰だ。男は背中から大地に投げ落とされてうめいて失神した。

「な、なんだお前は!」

 一人の男が抜刀した。刀を振り上げ、般若面に迫る。

 般若面は素早く踏みこみ、男の振り下ろす刃ではなく、刀柄を握る両拳を受け止めた。

「ぬん」

 般若面は男の両腕に抱きつき、素早く回転した。体勢も下に沈めている。

 男の体が宙を舞って大地に叩きつけられた。型は崩れているが、これは一本背負投だ。

 般若面は残りの男達も、無刀取りの妙技を用いて次々と制した。最後の一人の鳩尾へ、踏みこみながら肘打ちを叩きこむ。男は白目をむいて失神し、大地に倒れた。

「ふう……」

 般若面は――

 いや、隻眼の七郎は面の奥で深呼吸した。放火しようとした男達は揃って尾羽打ち枯らした身なりをしている。浪人であった。

(なぜに浪人が放火しようとした?)

 七郎は考える。彼ら浪人が放火して何か得があるのだろうか。江戸が大火に包まれた時は、火つけした彼らの命すら危うい。

 それとも裏で手を引く者があるのか。

「なんだ、なんだ!」

 張孔堂の門が開き、中から複数人が飛び出してきた。七郎と浪人の乱闘騒ぎを聞きつけ、中から飛び出してきたのだろう、手に手に得物を握っていた。

「ぎゃー、般若!」

 一人が七郎を見て叫んだ。張孔堂から出てきた面々の中には、正雪も混じっていた。

 七郎は無言のまま一同に背を見せ、夜の闇の中を駆け出した。

 駆けながら考える。あの火つけしようとした浪人達は、正雪を狙っていたのではないか。

 浪人達は何者かに雇われたのであろうか。正雪を始末したい者がいるのだろうか。

 まさか國松か?と七郎は疑わぬでもないが、そうではあるまい。

 闇討ちにも似た火つけなど、國松が最も嫌悪するやり方だ。國松ならば配下の風魔忍者を率いて正々堂々、正面から討ち取ろうとするだろう。

 そして必ず仕留める。それは七郎の想像だが、現実にならぬ保証はない。

(何もわからぬ、それが、それが恐ろしい!)

 刀剣の刃を潜り、生き死の修羅場を越えてきた七郎だが、何もわからぬ事が恐ろしい。

 七郎の前途に広がるのは、無明の闇であった。



 翌日、七郎は馴染みの茶屋にいた。

「いつもの」

「はいはい」

 店主のおまつに注文し、七郎は店先の床几に腰かけた。見上げれば江戸の青い空と、江戸城の天守閣が見える。あそこで七郎の父と弟、そして将軍家光は何をしているのか。

「お、おまたせ!」

 おりんが茶屋の奥から茶と団子を運んできた。うっすら化粧を施したおりんに七郎は胸が高鳴った。

「い、いらっしゃい」

「う、うむ。今日は綺麗だな」

 七郎は言ったが、おりんはすでに慌てた様子で店の奥に戻っていた。気恥ずかしいのだ。七郎を意識しすぎてしまっていた。

 七郎のお世辞も空回りした。彼は苦い顔で黙々と茶を飲み、団子を頬張った。

 虚しさを感じながら昨夜の事を思い出す。出会った魔性は夢だったのではないか。

 いや、人生の全てが曖昧で朧気に感じられた。将軍剣術指南役の嫡子に産まれたのも、兵法修行で右目を失ったのも、幕府隠密として全国を廻ったのも、全ては夢のように感じられた。

 ただ一つ確かなのは、自身が放った最高の一手――

 全身全霊、最高の心技体のみだ。

「七郎」

 声をかけられて、七郎は思わず叫んでしまいそうになった。往来から近づいて来るのは由比張孔堂正雪その人だ。

「正雪……」

「久しいな七郎」

 正雪は七郎の隣に腰かけた。何も言わずとも、おまつが茶を運んできた。この格差に七郎は怯んだが納得した。正雪はそれほどの男だからだ。

「元気そうだな」

「まあな」

 正雪と七郎、あまり話は弾まないが心は通じている。余計な話は無用だ。

「昨夜、命を救われた」

 正雪の眼差しは青空に向けられていた。

「何だって?」

「耳にした事があるか、般若面というのを」

 正雪は静かに七郎に振り返った。

「昨夜、張孔堂は火をつけられそうになった、だが狼藉者どもは般若面によって全て倒された…… 私は命を救われたのだ」

「ほう」

 七郎は務めて冷静に答えた。内面の動揺を正雪に悟られてはいないか、それが気になった。

 更に、あの浪人達は正雪を狙っていたのか、と七郎は心を切り替えた。いかなる者が、何の目的で正雪を殺めようとしたのだ?

「般若面とは江戸の夜に現れ、仲間を率いて凶賊を討つのだそうだ…… 天下の義士だ」

 正雪は茶を飲み終えて立ち上がった。

「七郎、また張孔堂に来てくれよ、丸橋も退屈している」

「いや丸橋はいいだろう」

「そう言うな、根は良い奴だ」

 そう言って正雪は去っていった。その背が寂しげに、そして何かが憑いているようにも見えるのは、七郎の気のせいだろうか。

 そんな正雪に何者かが近づいた。それは花売り娘おはなだった。

「おや?」

 七郎は眉をひそめた。花売り娘おはなは正雪と知り合いなのだろうか。

「――ちょっと」

 七郎が背後に殺気を感じて振り返れば、おりんが引きつった笑みを浮かべていた。

「あんたやっぱり女ったらしなのね……」

「い、いや違う」

 七郎は立ち上がり、怯えた笑みでおりんをなだめた。

 彼にとっては刀槍の刃より、一人の女が恐いのだ。

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