張孔堂異聞4
「無手にて刀を持った敵を制する…… それ故に無刀取り」
「小生にとっては平和の法であります」
「ほう」
頭巾の奥で男は笑った。
「無刀取りも人殺しの技ではないか」
「確かにその通りでありますな」
無刀取りは七郎の先師たる上泉信綱が、工夫に工夫を重ねた技術の集大成ともいえる。
戦場の主力は槍であり、槍が折れれば刀で斬りこむ。
刀すら失った時は、敵に組みつき、そこから技をしかけて死中に活を見い出し、勝利するのだ。
無刀取りは組討の技であり、後世の言葉を借りれば柔術という表現が最も的確な表現かもしれない。
打つ、蹴る、当る、組む、崩す、投げる、極める(関節技)、絞める。
それらの技術の統合たる柔術は、幕末までに全国で二百以上の流派を数えた。
柔道は、その柔術諸流派から実戦的な技を抽出してまとめあげられたものだという。
何にせよ、七郎の父の宗矩が御神君家康公に取り立てられたのは、その無刀取りの秘技を披露したからだと後世に伝わっている。
「そう、無刀取りは殺しの技、しかし活人の技でもあります」
七郎にはそれがわかる。彼は修行を通じて無刀取りによって活かされた。
人殺しの技たる無刀取りも、その技術の奥深さ、神妙さは並々ならぬものがある。
七郎はその難解な技術を学ぶうちに、人としての謙虚さを覚えた。
それを教える父に感謝し、そしてその技を編み出した先師の上泉信綱や、無数の戦国の勇士らに尊敬の念を抱いた。
七郎は無刀取りを通じて謙虚、感謝、尊敬を身につけたのだ。
それが父の宗矩も説いた活人の技、という事になる。しかし、七郎にはそれをうまく伝える事ができない。体感した者にしかわからぬ感動が、他者には理解し難い。
「ふふっ、まあ良い」
頭巾の男はまたもや笑った。顔を隠しているが國松だ。
町の顔役である國松は、風磨を率いて凶賊を討つ。
風来坊の七郎は、江戸城御庭番と共に江戸の治安を守る。
二人は似て非なるが志を同じくする。
「引き続き張孔堂を見張れ」
國松の源は鋼の響きと重みを備えていた。彼は正雪が何かするとにらんでいた。
七郎は何も言わぬ。黒装束姿の御庭番衆が浪人達を連行するのを眺めていた。
数日後、七郎はおりんと共に出かけた。
全国各地の名物料理が広場で販売されるという催し物にだ。
これは参勤交代で江戸にやってきた女中達が互いに声をかけあって、日頃の鬱憤を晴らすために楽しい行事をやろうという思いから始まったものだ。
江戸には全国各地から人が集まっており、地方には名物料理がある。同じ料理でも味が違う。素材が手に入らないものはともかく、女達は知恵を出し合い、日々を楽しく、人々を喜ばせようとする。
これを楽しみにしている者もひそかに増えてきているという。七郎とおりんはこの催し物に来てみたのだが、
――ザアアアアア……
江戸は大雨だった。
会場となっている広場には誰もいなかった。
縁日の屋台のようなものは並んでいるが、それが七郎にはたまらなく寂しく見えて切ない。
「ち、中止か……」
傘をさした七郎は、顔を蒼白にしてつぶやいた。
七郎の隣で同じ傘に入っているのは、おりんだった。
彼女はおまつから借りた着物と簪で着飾っていた。普段は明るい笑顔で看板娘を務めるが、今は女の色気が漂っていた。十代後半のおりんは、すでに婚期を迎えている。
そのおりんの顔には、行き場のない怒りに浮かんでいた。
彼女も七郎に期するものがあったのだが、まさか大雨になろうとは。
「……ウリヤアアア!」
おりんが気合と共に繰り出した平手打ちが、七郎を雨に濡れた大地に二転三転させた。
**
張孔堂の雰囲気は変わった。
いや変わったのは正雪だ。
軍学の講義はほどほどに、彼は張孔堂を訪れた武士らと密談らしき事ばかりしているという。
今日も七郎が張孔堂へ赴いてみれば、正雪は武士らと奥の間で話しこんでいるらしい。
(なんだ、つまらん)
七郎は帰ろうとした。正雪の講義を楽しみにしていたというのに。彼の軍学の講義は雑談を交えた楽しいものだった。
かつては子ども達が正雪の元に読み書きを学びに行ったというのも納得だ。 七郎も三国志や水滸伝の知識は、正雪の語る雑談から聞きかじったのだ。
「おい」
張孔堂を辞さんとした七郎へ声をかけてきた者がある。丸橋忠弥だった。
「手合わせしてくれんか」
丸橋は苦い顔で言った。彼もまた正雪の変化に戸惑っているようだった。
「いいだろう」
七郎は了解した。七郎もまた正雪の変化に言いようのない苛立ちを覚えていた。
モヤモヤする気持ちを晴らすには、体を動かし汗を流すに限る。後世まで剣術が伝わったのは、そうして汗を流すのが心地よいからだろう。
本来の兵法は槍術、剣術、組討術の三つを合わせたものだが、槍は稽古する場が少なく、組討術は怪我をしやすい。
それゆえに槍術と組討は廃れ、剣術が隆盛した。剣術は武士のいい気晴らしになっていたのだ。
「何でやるかね」
「お互い得意とするものだ」
「なるほどな」
七郎はニヤリと笑った。ならば七郎は組討術の無刀取り、丸橋は槍という事になる。
張孔堂から少し離れたところには小太刀術の道場があった。
剣術が武士階級のみ習う事が許されたのに対し、小太刀術は町民、更には女や子どもも習う事ができた。
この道場の主は丸橋の知人だという。本日は稽古は休みで、道場内はガランとして静かだった。
道場主は丸橋に頼まれ、主審を務めるという。小太刀術だけを教えても食っていけないので、この道場は時折、人に貸しているという事だ。
それは隠れて獣肉を食する宴会であったり、若い男女の出会いの場であったり、また今の丸橋のようにひそかな「手合わせ」であったりもする。
ひょっとすれば、ここで丸橋も正雪と手合わせしたのかもしれない。
「いくぞ」
丸橋はたんぽ槍を手にして道場の中央に進み出た。
「ああ」
七郎は不敵に笑って、小太刀術の稽古用の短い木刀を手にして道場中央に歩を進めた。
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