張孔堂異聞5

「小太刀を遣うのか」

 丸橋は意外そうな顔をした。七郎が無手で手合わせに臨むと思ったのだ。

「おいおい、天下の丸橋忠弥に無手で挑むのは愚か者だぞ」

 七郎は苦笑した。なんとなく丸橋が理解できてきた。

 粗にして野だが非にあらず。

 丸橋忠弥は、そういう男だ。

「ほう……」

 丸橋は脇をくすぐられて、それをこらえるような――

 そんな顔をした。不思議な愛嬌があった。正雪が丸橋を右腕としたのは、七郎にはわからぬでもない。

 下心も腹黒さも丸橋には無縁だ。

 あるのは全身全霊、無心の一手。

 それは七郎と父の又右衛門、そして師事した小野忠明も目指した武の深奥だ。

「はじめっ」

 道場主の静かで鋭い一声が開始の合図だった。

 丸橋が踏みこみ、たんぽ槍を繰り出した。烈火の気迫に七郎の心身が震えた。

 七郎は次々と繰り出されるたんぽ槍を避けつつ後退していった。

 隻眼で距離感を常人と同じように測れるまで、七郎は十数年を要した。

 その彼の眼力は丸橋を

(強い……!)

 と評していた。七郎はあっという間に全身に冷や汗をかいている。江戸の剣士達が次々と倒されたのも納得だ。

 早くも壁際に追いこまれた七郎へ、丸橋はとどめの一手を放たんとする。

「おおおおお……!」

 丸橋はたんぽ槍を掲げて、その先端を七郎へ突きつけた。手合わせとは思えぬ気迫だ。

 事実、丸橋は産まれて初めて真剣勝負に臨んでいた。体も大きく力も強く、槍を学んで江戸に来てみれば、そこでも無敗だった。

 そんな丸橋の傲慢を打ち砕いたのは正雪だ。丸橋は敗北して純粋なる初心を取り戻した。だからこそ丸橋は正雪のためならば死ねるのだ。

 七郎は、その丸橋の誇りに傷をつけた。最初の手合わせで敗北したのみならず、正雪は出会ったばかりの七郎を弟のように可愛がったのだ。

「イヤアッ!」

 丸橋はたんぽ槍を繰り出した。七郎を殺す気迫だ。

 七郎の右手が動いた。逆手に握った木製の小太刀が、下方からたんぽ槍を弾き飛ばした。

 動揺した丸橋。

 その一瞬の隙を衝いて七郎は踏みこみ、丸橋の右手側に回りこんで彼の右袖を左手でつかんだ。

 次の瞬間、七郎の左足が地を這うように横薙ぎに、丸橋の右踵を払う。丸橋は体勢を崩して背中から道場の床に倒れた。

 たんぽ槍が床に転がる。七郎は息を吐きつつ丸橋を見下ろした。丸橋は衝撃にうめいている。七郎は木製の小太刀を、防御のために用いたのだ。

「正雪……」

 丸橋はうめきながら正雪の名を呼んだ。彼は悔しいのだ。正雪が変わってしまった事が。七郎に敗北した事よりも、ずっと。

「それまで」

 道場主は二人の対決の終焉を告げた。



(なかなか強かった)

 道場を辞した七郎は丸橋の槍を思った。

 たんぽ槍ではなく真槍で対決すれば、七郎の不利は否めない。槍の間合いの広さに刀術で、まして組討で挑むのは無謀すぎる。

 槍は長さの利を活かすものだ。

 江戸城の奥女中らは薙刀術を学ばされるが、薙刀の長さには下手な剣術など通じない。

 極端な例えながら、遠くから弓や鉄砲で攻められると勝利するのは至難の業だ。

 向こうから攻めるは容易いが、こちらから攻めるには死力を尽くして尚、工夫する必要があるだろう。

 長さの利とは、そのようなものだ。

 ――またやらないか。

 丸橋はそう言った。言った瞳は純粋な光に満ちていた。彼は永遠の挑戦者たりうるのかもしれない。

 ――いいだろう。

 七郎は応えて、そう言った。正直に言えば二度とやりたくないが、気持ちはわかる。

 正雪は変わった。よくはわからないが、確かに変わったのだ。

 だからこそ七郎と丸橋は遠ざけられている……

「あの」

 通りを行く七郎に誰かが声をかけてきた。いつか会った花売りの娘おはなだった。

 七郎の足は無意識に馴染みの茶屋へ向かっていた。

「ん、ああ。今日も花を買わせてもらおう」

「いえ、そういうわけでは……」

 何にせよ、七郎はおはなから花を二輪、買った。渡す相手は決まっている。

「まいど」

 おはなは笑顔を見せて七郎から去った。その笑顔が営業用の仮面ではない事を七郎は祈る。

 同時に、おはなは何かを隠しているのに気がついた。それは七郎の勘だ。修羅場をくぐった男の勘だ。

 もっとも女の勘には及ばない。

「あら、いらっしゃい」

 茶屋に出向けば、店主のおまつが愛想よく出迎えてくれた。

「これを」

 七郎はおまつに花を渡した。二輪あるのは、おりんの分もあるという事だ。

「あらあらあら、まあまあまあ」

 おまつは上機嫌で店の奥に戻っていった。おまつにとって七郎は出来の悪い弟のようなものだ(年齢は親子ほど離れているが)。

 七郎は店先の床几に腰かけ、空を見上げた。

 江戸の空は日本晴れだが、七郎の心は晴れぬ。

「あ、あら、いらっしゃい」

 ぎこちなく茶と団子を運んできたのは、看板娘のおりんだ。

 彼女と七郎は先日、催物に出かけたが大雨で中止だった。

 その後、おりんを茶屋まで送ったのだが、おまつに泊まっていけと言われた。

 ――息子夫婦と一緒にいるみたいだよ。

 おまつの言葉が七郎には忘れられぬ。七郎の知らぬ世界だった。

 親子の情、男女の情。

 人類四百万年の歴史は、そうして紡がれてきたのだ。

 言葉にできない感動に身を震わせた事を七郎は忘れない。

「き、今日もいつものでいいんでしょ」

「あ、ああ」

「じゃ、じゃあね」

 おりんは早々と茶屋の奥に引っこんだ。七郎を意識しすぎている。おりんは七郎の前に出ると心臓が高鳴るのだ。

 七郎には気の毒だが、おりんは七郎に対してイライラする方がうまくいく。 

(正雪もうまくいけば良いのだが)

 団子を頬張り、茶をすすり、七郎は先行きの無事を祈った。

 由比張孔堂正雪は変わり始めている。

 その変化は江戸の全てを巻きこみそうな予感がした。

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