張孔堂異聞3

「何だと……」

 正雪の端正な顔が歪んだ。

 遂に自身が狂ったかと思ったのだ。

 庭に現れた女は異常に白い肌に加え、背には蝶のような羽が生えていた。

 頭部には蝶に似た触覚が、別の生き物のように蠢いている。

 しかも女は全裸であった。これは正雪が狂気の中で夢見た欲望の幻影と勘違いしても、おかしくはなかった。

(私もとうとう……)

 心が壊れたのかと正雪は自身を疑った。事実、彼は疲れていたのだ。

 江戸に来て正雪は塾を開いて、子ども達に読み書きを教えていた。更には雑学として軍学も教えるようになった。

 歴史を紐解き、この時代に伝わる前漢の名軍師である張良、三国志の名軍師である諸葛孔明の話なども子ども達に教えた。

 いつしか正雪の塾は張孔堂とあだ名された。張良と孔明、二人の名軍師にちなんだのだ。それが子どものつけたあだ名であろうと、正雪には誇らしかった。

 しかし今では張孔堂に通うのは大人ばかりだ。しかも武士だ。彼らは藩主から密命を帯びている。張孔堂に通うのは表向き、実際は大名同士が裏で何かを企んでいるのだ。

 張孔堂はいつしか武士達の密議の隠れ蓑にされていたのだ。

 正雪は胸を抑えた。心臓ではない、心が痛むのだ。苦しいのだ。あまりにも現実と理想がかけ離れている事に、正雪は苦痛を感じていたのだ……

 呆然自失とする正雪。庭先では女が妖しい眼差しで手招きしている。

  微かな月光の中で、女の姿は鮮明に浮かび上がっていた。

 夢か現か、神か魔か。

 女に手招きされて、正雪は庭へ出た。救いを求めるかのように。



 商家には数人の浪人が押し入り、強盗を働いていた。

 商家の者は抵抗もせずに千両箱を用意した。

「よし、ずらかれ!」

 提灯を手にした浪人が叫び、他の者は千両箱を二人がかりで商家から運び出した。

「や、やったぞ!」

 浪人達は歓喜の渦中にあった。さほど苦労もなく大金を手に入れられたのだ。

 月明かりの下、千両箱を運んでいく浪人達は、誰もが油断していた。

 だが上手くいきすぎる時こそ、注意すべきだったのだ。

 商家では用心棒の浪人と報酬で揉めて解雇したという。その噂を聞いた浪人達は守りが手薄と判断して商家に押しこみ、まんまと大金を手に入れた。

 だが、それが巧妙に仕組まれた罠だとしたら?

「……む」

 先頭を行く浪人は、夜の闇に人影を発見した。月明かりに照らされて、通りの向こうに立っているのは、頭巾で顔を隠した男である。

 腰には大小二刀を差していた。

「外道ども」

 一言つぶやき、頭巾の男は踏みこんで抜刀した。

 半弧を描いて斬り下げられた刃は、浪人の提灯を握った右手首を削った。

 浪人は悲鳴を上げて提灯を落とした。

 明かりが消えて暗くなった夜の闇の中から、潜んでいた人影が次々と飛び出した。

 全員が黒装束に身を包んでいた。

「この野郎!」

 六尺を越える巨漢の体当たりで浪人が吹っ飛んだ。宮本武蔵は体当たりに習熟すれば、それだけで人を殺す事も可なりと説いている。

「ぐぎゃ!」

 千両箱を運んでいた二人の浪人が同時に悲鳴を上げた。小柄な黒装束の投げつけた十字手裏剣が、二人の手の甲に突き刺さっていた。

 ダン!と鈍い音がした時には、浪人の一人が背中から大地に叩きつけられていた。

 一人の黒装束が素早く組みつき、浪人を背負って投げたのだ。

 目にも留まらぬ妙技は「無刀取り」であった。

 そして浪人を投げた黒装束の顔には、般若の面があった。

「おのれえ!」

 最後に残った浪人が刀を抜いて、死にものぐるいで黒装束達に斬りかかった。

 押しこみ強盗を働くほどだから胆力もある。開き直った浪人は、右に左にと刀を振り回した。

 その蛮勇ぶりに、大柄な黒装束と小柄な黒装束の二人が飛び退いた。

「是非もなし」

 般若面は刃を避けて浪人に踏みこんだ。そして右足で浪人の左太腿に激しく蹴りこんだ。鋭く重い蹴りに浪人がうめいた。

「御免」

 般若面は右肩から浪人の胸元にぶち当たった。同時に右足の爪先は、浪人の右踵を払っている。

 後世の柔道における小内刈りだ。体勢を崩した浪人が後方に倒れて、うめく。後頭部を地面に叩きつけられた衝撃で気絶したのだ。

 それで浪人達は制圧されていた。

 右腕を斬られた浪人と、十字手裏剣を受けた浪人二人は、何が起きたかわからず、身を震わせている。

 黒装束達の武威に怯み、戦意を失っていたのだ。

「相変わらずの見事な技だ」

 頭巾の男は般若面に向かって言った。

 般若面の男は面を外した。月下に現れたその顔は、隻眼の異相――

 昼行灯の七郎ではないか。

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