張孔堂異聞2


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「張孔堂は?」

 國松は言った。七郎は染物屋の風磨にいた。

「なかなかの人物でした」

「ほほう」

「文武両道、人徳にも優れ…… まず十年に一人の逸材といったところでしょうか」

 七郎は言うが、國松の顔は笑っていない。厳粛な面持ちを崩さない。

 國松が知りたいのは、そんな事ではない。

「野心とは無縁でありましょうな」

 七郎は左の隻眼を細めた。顔から普段の陽気さが消える。これは七郎の公の顔つきだ。

「なぜわかる?」

 國松の視線が七郎を刺す。幕閣の古い者から見れば、國松の容貌と気性は戦国の魔王、織田信長に似るという。

 染物屋の大旦那であり、町の顔役でもある國松。幕閣にも顔が利き、兵法の腕前は七郎以上だ。

 國松ほどの人物が町中にいるというのが不思議でならない。

「野心を持つのは周囲の取り巻き連中ですな。諸大名の手先が丸橋忠弥に接触しております」

「軍学塾の名を借りた悪党の巣ではないか?」

「いやいや、決してそのような」

「腹を賭けるか?」

 國松の目が七郎を刺す。七郎の見立てが間違っていた時は、腹を切る覚悟があるかと問うている。

 國松の務めとは江戸を陰から守る事にある。七郎が江戸城御庭番衆と共に浪人の動向を探って治安維持に務める一方で、國松は風磨の者を率いて武装した盗賊団を成敗していた。

 染物屋の風磨で働く者達は数十人いるが皆、風魔忍者の末裔だ。四十年近い昔、江戸を荒らし回っていた風魔忍者は、七郎の父の宗矩と小野忠明の活躍によって成敗されたという。

 風魔の首領は、自らの命と引き換えに配下の助命を申し出た。幕閣は了解した。表向きは染物屋、裏では実戦部隊として抱える事を条件に。

 その風磨を率いて國松は江戸を守る。その使命に私情を挟む事はない。

 たとえ血を分けた兄弟であろうと、江戸に害なすと見なせば斬る。

 國松はそういう人物だ。江戸を守る守護神だがが融通は利かない。疑わしきは斬る。

「賭けましょう」

 七郎は静かに言った。彼の見立てでは正雪は悪を為す男ではない。

「そうか」

「悪を為すとすれば、周囲でしょうな」

「張孔堂には全国各地の武士が通っているというぞ」

「まあ、ただの暇つぶしかもしれませんからなあ」

 七郎は眉間にシワ寄せて考えこむ。

 茶屋のおまつとおりんが見たら、目をむいただろう。本来の七郎はこういう男なのかもしれない。明るく陽気な雰囲気は、おまつとおりんの優しさに救われているからだ。

「真実は何だと思うのだ七郎」

「幕府に不満のある者が集まって騒ぐなら、それは幕府転覆の相談かも」

「ほう」

「幕府もやりすぎましたからな」

 七郎は幕閣の暗部も見てきた。

 全国各地の大名の改易によって生じた浪人は全国で十六万人という。唖然とするような、途方もない数の武士が職を失い、無頼の徒と化した。

 この時代、浪人達による犯罪は多発していた。全国的に治安は悪く、夜の外出を禁止した藩もある。

 江戸では町民に小太刀の所持を許可している。自衛しろという意味だ。

「張孔堂とどう結びつくのだ」

「いえ、張孔堂は隠れ蓑でしょう」

 七郎は実際に張孔堂に通っているだけに空気がわかる。武士達の真意がわかる。藩主の命を受けた武士が張孔堂に通い、同じような立場の者達と接触する。

 幕府は大名同士の交流を禁じている。手を取り合って幕府に牙をむくかもしれないからだ。

 だが今は江戸に全国各地から大名が集まっている。この状況こそが危ういのではないか。軍学塾の張孔堂を密議の場として、大名が揃って幕府に牙むこうとしているのでは?

 そんな懸念が七郎にはある。國松にもある。天下泰平の世などと言われているが、人々の知らぬ世界で戦いは続いているのだ。

 七郎や國松がいなければ、江戸はとっくに法も秩序も失われて悪鬼の巷となっていたろう。

「そうか」

「正雪に非はありませぬ。あるとすれば周囲の者達」

 七郎は丸橋忠弥を苦々しく思い出した。江戸に聞こえた槍の名手、丸橋忠弥。その丸橋に試合で勝ったという評判ゆえに張孔堂には人が集まってきた。

 全ては悪い偶然の積み重ねなのだろうか。由比正雪は子ども達に読み書きを教える良き師であった。

 今では張孔堂は、腕に覚えある武士が集まる梁山泊のようだった。正雪はそんなもの臨んでいなかった。

 丸橋忠弥とて悪ではない、だが彼は世の中を甘く見ている節がある。それも仕方ない、丸橋は七郎や國松とは違うのだ。槍の名手と呼ばれようと、丸橋自身は人を殺めた事などないのだ。

「ほう」

「張孔堂は引き続き小生が探りましょう」

 七郎は言った。國松らに任せるのは危うく思われた。何かしら理由をつけて張孔堂を潰すのではないか。そんな気がしてならぬ。

 ならば七郎が張孔堂を監視する方が都合がいい。

「そこまでやるか七郎。腹を切る覚悟があるのだな」

「しかと充分に」

 七郎は力強く応えた。彼の見立てが間違っていたのなら、正雪もそれだけの男だったという事だ。



 染物屋の風磨を辞した七郎は町中を行く。目指すは馴染みの茶屋だ。

(世の中、平和にはならんな)

 七郎は歩きながら、ぼんやり考える。

 島原の乱も終わった。世の中から戦は消えたはずだった。

 なのに、どうして人の世はこんなに暗いのか。真の平和など、どこにあるのか。

 七郎が命を懸けて戦うのは、自身の名誉や誇りでも、大金のためでもない。

 ただ人々に笑顔あれ、とそのためだけに戦うのだ。七郎は全国各地を隠密として廻った。

 その荒んだ経験から最後にたどり着いたのは、母子の笑顔である。

 若い母親と乳飲み子を守る、それは男の使命だと気がついた。島原の地で見た慈母観音像や、出会った少女の影響だろう。

 何にせよ、七郎は自身の道を見つけたのだ。女と子どもを守って死ぬと。

 その思いは、江戸を守るという大義に繋がっている。

「お花はいかがですか?」

 難しい顔して腕組みしながら歩いていた七郎に、声をかけてきた者がある。

 数日前に会った花売りの娘だった。

「うむ」

 七郎は急に厳粛な顔つきになると、娘から花を二輪、購入した。

 おそらくは七郎の男が目覚めているのだ。気になる女子の前ではいい格好をしたいという、男の本性の目覚めだ。

「大変だな」

 七郎は言った。天秤棒を肩に担ぎ、花を入れた桶をぶら下げ、江戸中を歩き回るとはなかなか大変なのではないだろうか。ましてやこの娘のような、小柄で細身の体格で。

「これが商売なんです」

 娘は輝く笑顔で七郎を見上げた。なるほど、と七郎は感心した。七郎もまた日々を命懸けで生きているが、それが使命だ。

「私は、おはなです」

 花売りの娘おはなは、そう言って七郎から去った。これには意味がありそうだが、当の七郎は気づいているのか、いないのか。

「ふむふむ」

 機嫌よく馴染みの茶屋に来た七郎。彼は、おはなの真意に気づかぬようだ。

「あら、いらっしゃい」

 茶屋の店主おまつが来た。七郎は店先の床几に腰かける前に、おまつに花を一輪渡した。

「ばあさん、これを」

「あらあら、あたしにかい? なんか気になるけど、もらっておくよ」

 亀の甲より年の功、おまつは笑顔で花を受け取った。

 しかし、である。

「いらっしゃ〜い……」

 店の奥から七郎を見つめるおりんの瞳には暗い殺気がこもっていた。

 七郎は疾風のごとく踏みこみ、おりんへと間合いを詰めた。

 その動きは丸橋を制した際の神業を連想させた。七郎は剣難女難の中で確実に成長してきているのだ。

「こ、これを!」

「なあに、これ? 他の女から買った花を送るの〜?」

 おりんの眼差しは冷たい。先程までは他の客に「いらっしゃいませー」と明るく振る舞っていたおりんとは、まるで別人だ。

「こ、今度お芝居でも観に行かないか!」

「あんま興味なーい」

「ねえ、おりんや。今度、全国の名物料理の催し物があるそうだよ。それに行ってきたら?」

「まあ、おばあちゃんが言うんなら」

 おりんは、おまつの助け舟によって機嫌を直したようだった。七郎から花を受け取ると、おりんは茶と団子の準備に取りかかる。

「ばあさん、すまないな」

「御礼は期待してるからね」

 七郎はおまつと顔を見合わせた。

 二人はホッとして胸を撫で下ろした。

 もしも七郎とおりんが祝言を挙げるならば、おまつが仲人であろう。



 夜だった。

 正雪は屋敷の縁側に出て、夜空の満月を見上げていた。

(虚しい……)

 正雪はため息をついた。出口の見えない迷路に入ったような焦燥感がある。

 元々、正雪の張孔堂に通っていたのは子どもばかりであった。子ども達に読み書きを教える日々は正雪に生き甲斐を与えていた。

 それが今では武士ばかりが通う場となった。江戸には全国各地から武士が集まってきている。その武士達は張孔堂に通いつつ、密かに交流しているようである。

 しかも藩主から何かしらの密命を帯びてやってきているのだ。自分の軍学塾が一部の者達に悪用されている事に、正雪は悲しみを覚える。怒りはない。

 ただただ悲しいのだ。武士ともあろう者が暇なのだろうか。百回軍議を重ねても現実は変わらない。

 理想に向かって額に汗水流してこそ、世の中が変わるのではないか。

 正雪はそれを信じてきたからこそ、文武に優れ、仁徳も備える事ができたというのに。

 ――サワサワサワ……

 その時、一陣の風が吹いた。厳冬を思わせる凍てつく風だった。

(……これは夢か)

 風が止んだ時、正雪は目を見張った。庭には、いつの間にか人影が現れていた。

 それは背に蝶のような羽を生やし、頭部に触覚を蠢かせる女だった。

 月光に照らされた女の白い裸身は、艶めかしく美しい。

 正しく魔性であった。

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