第7話 イシュタル計画

 太陽系最大の山とも言われるオリュンポス山を臨むタルシス台地には、いくつもの球状のドームが泡のように広がって都市を形成していた。

 火星都市エリュシオン。神々に愛された英雄たちが暮らす死後の楽園の名を与えられたその地には、皮肉にも戦争の英雄たちがその魂を埋めている。一年前のフォボスからの激しい侵攻による爪痕がようやく薄れつつあるその都市の一角に、エリュシオン第二研究所はあった。


「所長」


 培養槽の前に佇んでいた痩身の男は、自らの役職を呼ぶ声に振り返る。


「どうしましたか」


 落ち着いたバリトンボイスは絹のように滑らかだが、感情というパーツがごっそりと抜け落ちていて、どこか合成音声めいていた。


「その……救援要請です。ノクティス迷宮にて復興中の採掘プラントで発生した事案の収拾に当たった部隊との連絡が取れなくなったとかで、エンジェルズを4小隊貸してほしいと」

「貸して欲しい、ね」


 感情の乗らない声が呟いた。


「予算は?」

「通っています」

「よろしい。第13調査大隊への出荷ロットの刷り込みインプットが済んでいたはずですね。それを回しなさい」

「しかし、第13調査大隊への引き渡しは明日のはずでは……」

「巻き込んでしまえばよろしい。キリヤ・アサクラのことです、応じますよ。まあ損耗は出るでしょうから……そうですね、4ロット分の追加生産をお願いします」

「承知しました」


 慌ただしく退室していく部下の背中を見送って、男は培養槽に向き直った。

 エリュシオン第二研究所は生体研究所である。かつては月面研究所と協力してソラコ・アサヒナによる機体制御実験を行っていた小さな機関だったが、その派生プロジェクトであったアサヒナのクローンによるパイロット量産計画、通称“イシュタル計画”が軌道に乗ったことで一躍生体研究所としての名を馳せた。

 戦闘用試作型クローンタイプ・QuickgrowPilot。アサヒナをオリジナルとした、少女型クローンパイロットだ。フォボスの悪夢で甚大な被害を被った火星は、現在その防衛戦力のおよそ半分をQPシリーズに依存している。

 少女の浮かぶ培養槽を一撫でして、男は薄い笑みを刷いた。


「貴方にはお気に入りの玩具を取られましたからね。これくらいはしてもらわなくては」


 * * * 


 シキシマは頭を抱えていた。

 数分前に届いた文書に目を通した上官がずっと渋面を崩さずにいるのを見て、ツェツィーリヤは仕事の手を止めて立ち上がった。電気ポットを覗き込んで湯の残量を確認すると、キャビネットから紅茶の缶とカップを取り出す。カチャカチャと茶器の触れ合う音に、シキシマは顔を上げた。


「ああ、すまない。私がやるよ」


 ツェツィーリヤは微笑んだ。


「私が飲みたいだけですので。グリーンティは上手く淹れられませんので紅茶で申し訳ありませんが、ご一緒に艦長の分もお淹れしますね」

「……そうか、すまないね」


 艦長室に柔らかな水音が響き、ふわりと紅茶の香りが広がる。シキシマはモニターから視線を外すと、軽く背伸びをして眉間を揉みほぐした。


「どうぞ」

「ありがとう。いい香りだ。……うん、君の紅茶はいつも美味い」


 ようやく表情を和らげたシキシマに微笑んで、ツェツィーリヤも腰を下ろす。紅茶を啜りながら情報端末に再び目を落としたツェツィーリヤの手元に、シキシマも目をやった。


「駆逐艦の追加人員はどうだ?」

「軍歴の浅い方ばかりですね。贅沢は言っていられませんが……」

 

 ツェツィーリヤはそう言って小さく肩を落とした。シキシマは溜息をつく。


「問題は山積みだな……」

「そちらも何か問題が?」

「明日合流予定のエンジェルズがな……採掘プラントで通信途絶した部隊の捜索に回されることになったらしい。それのみならずこっちからも人員を出せと言ってきた」


 ツェツィーリヤは柳眉を吊り上げた。


「何ですかそれは。ダイモス戦で受けた損害の再構築もまだなのですよ。ダイモスで我が隊が受けた損耗は、本来であれば火星駐屯地が負うべきだったものです。火星基地司令は恥知らずなのですか?」

「いや、司令部経由の要請ではない。これはエリュシオン第二研究所からの個別要請だ」

「エリュシオン第二研究所? 研究所からの要請なら普通に断ってしまえばよろしいのでは」

「私もそうしたいところなんだがな……」


 いつになく歯切れの悪い様子のシキシマに、ツェツィーリヤは首を傾げた。シキシマは再度眉間に深い皴を刻むと、意を決した様子でバングルで誰かにコールする。


「——私だ」

『何? 深刻な声出しちゃって。今忙しいんだけど』

「話がある。エンジェルズの件だ。来れるか」

『……すぐ行く』


 バングル越しに聞こえた声に、ツェツィーリヤは怪訝な顔をした。


「アサクラさん?」


 シキシマは苦虫を嚙み潰したような顔で頷いた。


 * * * 


「どういう事」


 駆け込んできたアサクラが肩で息をしながら開口一番そう言ったのを見たツェツィーリヤは、幽霊でも見たかのような顔をしている。


「その顔、資料は見たな。私を睨みつけても状況は変わらん。……どうしたい、キリヤ」

「どうしたいかで決めて良いわけ」


 シキシマは深いため息をついた。


「……良い。お前にはその権利がある」

「権利ね……」


 アサクラはそう唸ってシキシマの手元のモニタを覗き込むと、文書の末尾に記されたその名前を見て眉をひそめた。


「……ミルコ? エリュシオン第二研究所の主任はネイサンでしょ」

「悪いが、研究所の人員配置には明るくない」

「まあいいや。回線借りるよ」


 勝手知ったる様子でアサクラは執務机の通信装置を手に取る。ワンコールで繋がった瞬間、アサクラの口元がいびつに歪んで冷たい笑みを刷いた。


「やあミルコ、随分出世したみたいじゃない。久しぶり」

『お久しぶりです、アサクラさん。ええ、お陰様で。していますよ』


 気味が悪いほどに明るい声には、無感情なバリトンが応えた。


『ご要件は? 雑談をするために連絡してきた訳ではないでしょう』

「相変わらず可愛げないねぇ。で、さっきの要請はなんのつもり」

『記載の通りですが。第13調査大隊そちらに例の怪物と原型オリジンを持って行かれたのでうちも戦力が足りないのですよ』

「そこは研究所でしょー。司令部みたいな物言いするじゃない」

『お陰様で火星は防衛戦力の大半を天使の欠片エンジェルズ・フラグメントに依存していますからね。基地戦力はダイモスの後片付けに大わらわですし……ダイモス戦では大層ご活躍したという貴隊にご助力いただけると大変助かります」


 最も、と滑らかなバリトンは言葉を続ける。絹のように滑らかだった無感情な声に、僅かに高揚したような色が灯った。


『先の戦闘での損耗が激しく難しい、というお話でしたら勿論断っていただいて結構です。まあその場合4ロットほどロストするでしょうから、納品は少しお待ちいただくことになりますが』

「僕がそれを許すとでも? ミルコ・マティーニ少佐」

『今は中佐ですよ。許すも許さないも、貴方が権利をお持ちなのは原型オリジンだけですが、キリヤ・アサクラ


 短い沈黙が流れた。凍るような空気に、ツェツィーリヤは身を竦ませている。


『ハイドラと原型オリジンだけ戻していただいても構いませんよ』

「嫌だね。ハーメルンみたいな悪趣味な機体を作る所に戻す気はないよ」

『悪趣味とは。有効活用と言っていただきたいですね。文句一つ言わないいい素材だったのに、前線に連れて行くなんて何を考えているのです。あれを使い潰せばこの状況を打破することすら不可能ではないというのに』


 くつくつと、心底可笑しいといった様子でアサクラは笑う。


「あんな子供一人に左右されるなんて、火星の未来は明るそうだねぇ。心配要らないとも、僕なら君よりずっと有効に使えるよ」

『……なるほど。調査大隊如きに飛ばされるわけです。研究者の矜持を折って実験体を囲うと言うならお好きになさるといいでしょう』

「僕は玩具は大事にするほうなんだ。僕を三下扱いするのは構わないけど、唯一無二の玩具すら大切に扱えない君はド三下ってことになるよねぇ?」


 ミルコは答えない。アサクラは太陽のように明るく、氷のように冷たいその声で続けた。


「要請は受けよう。移動艦はそっちで用意してよね。旗艦までは出せないんだから」


 吐き捨てるようにそう言うと、アサクラは一方的に通信を切った。モニタに視線を落としたまま、ぽつりと「ごめん」と呟く。冷たさが消え、少し不貞腐れたような調子のその声にシキシマは穏やかな苦笑を返した。


「どうしたいかで決めて良いと言ったはずですよ、

「……その返しのセンスは最悪だよ、シキシマ少佐」

「いや、すまない。お前が階級を持ち出すのが珍しくてついな」


 シキシマはくつくつと笑う。アサクラはとてもとても嫌そうな顔をした。


あいつミルコにはこれが一番効くんだよ。ほんっと最悪。ネイサンももう少し考えて後任を決めればいいのに。月はラインズ君に任せてよかったよ。あいつだったら今頃シエロはミンチだ」

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