第6話 天使と悪竜
第13調査大隊の旗艦である、巡航艦フェニックスの生活区にあるトレーニングルームの利用可能時間は朝の8時から夜の10時までである。
「ユリアちゃーん!」
物理キーを振り回しながら満面の笑みで手を振ってくるツェツィーリヤを見て、ユリアは寝ぼけ眼をこすった。ちらりとバングルで時間を確認すれば、時計は午前5時を指している。
「元気ね……イリヤさん……」
「なーーーんであのイカレ副官の野郎がいやがるんだ?」
「ユリウス、ツェツィーリヤさんは女性だよ。あと上官だからね」
「知りませんそんなのー。ぶーぶー」
あからさまな悪態はツェツィーリヤの耳にも届いたようだった。エメラルドグリーンの瞳を氷点下の温度に落として、ツェツィーリヤは心底嫌そうな顔をユリウスに向ける。
「どうしてこのシスコン野郎がいやがりますの?」
「すみません、ぼくがご一緒してくださいと頼ん」
「おーまーえーがー、ユリアちゃんに何するかわかんないからですぅー」
空気の読める
ツェツィーリヤはそんなユリウスを生ゴミの中の蛆虫を見るような目で一瞥してから、その台詞は完全に無視して幼い二人に優しい笑顔を向ける。
「初めまして、ツェツィーリヤです。ハイドラ君、QPちゃん。二人とも、頑張りましょうね」
その少し甘い調子の声に、ユリウスは鼻に皺を寄せて舌打ちをした。
「あーやだやだ、ロリショタ属性もお持ちですかぁ上官殿」
「失礼な人ですね。なんでもフェティシィズムに結びつけるその感性こそお下劣ではなくて?」
「言っとくけど俺はこいつらのお兄ちゃんだからな! 変な虫がつかねーように見てやる義務があんの」
「はぁああ!? 何言ってますの、頭沸いてるんですか? てか言い方気っ持ち悪っ……」
「あー、ちょっとちょっと」
仲の悪い犬のようにキスもできそうな距離感で睨み合っている
「それ以上続けるなら二人とも帰ってもらいますけど」
「「ごめんなさい、ユリアちゃん」」
躾の良い犬のようにピシッと言う事を聞いた二人を見て、QPがひそひそとユウに耳打ちする。
「ねえ。あの方たち、本当は仲がいいんじゃないですか?」
「あはは、そうかもね……」
苦笑いを交わしているユウとQP、そしてハイドラを振り返って、ユリアは肩を竦めた。
「ごめんね、二人とも」
「いえ、理性の制御の効かない大人を見ているのはなかなか興味深いので」
制御の効かない大人たちは凍りついた。生真面目な様子でそう返したハイドラに、QPが苦いものを食べたような顔をする。
「ハイドラ君、そういう事は思ってても言わないほうがいいよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「なんだかQPのほうがお姉さんみたいね」
くすりと笑ってユリアが言うと、QPはえっへんと薄い胸を張ってみせた。
「わたしは培養槽を出てまだ半年ですけどね、
「それ、さり気なくぼくのことを常識知らずって言ってるよね」
「そういうのわかってきたの、えらいぞーハイドラ君」
少し憮然とした表情でQPに額をつつかれているハイドラを見て、ユウは頬を緩めると、パンパンと両手を打ち鳴らした。
「ほらみんな、ここで油売ってたら何のために早起きしたか分からないよ」
「すみません、私としたことが。今開けます」
正気を取り戻したツェツィーリヤが物理キーを使ってトレーニングルームの扉を開く。隊員のオーバーワークを防ぐため、時間外の利用は厳しく制限されており、時間外の利用には士官の生体認証と物理キーが必要な仕組みだった。
他のメンバーへの紹介の前に親交を深めておきたいという先輩達の希望により、誰とも鉢合わせることのない早朝にトレーニングと称した交流会が敢行されることとなったのだった。
ツェツィーリヤが壁のスイッチを操作すると、照明が点灯するのと同時に体がズン、と重くなる。火星の重力は地球のおおよそ三分の一である。長らく地球の重力環境下で進化してきた人類において、地球と同等の重力環境下であることが一番トレーニングにとって効果的であるとされ、トレーニングルームは地球重力に準じる仕様となっていた。
重くなった体を慣らすため、念入りに体をほぐしながら、ツェツィーリヤは改めて自己紹介をする。
「さっきは中途半端になってしまってごめんなさいね。私はツェツィーリヤ、シキシマ艦長の副官です。気軽にイリヤと呼んでいただいて構いません」
「ありがとうございます、イリヤ副艦長」
「いやだわ、ただのイリヤでいいのよ。あなた達の事はなんて呼んだらいいかしら」
そう尋ねられ、QPは頬に指を添えてうーんと唸った。
「QPのままでもいいですよ? あ、でもエンジェルズが来たら紛らわしいのかな」
「エンジェルズ?」
隣で背中を伸ばしていたユリアが、聞き慣れない単語に首を傾げる。
「クローンなので。20人くらい後追いでQPが合流するんですよ」
「20人……そりゃ紛らわしいわね……」
ツッコミを諦めた表情で呟くユリアに、QPはくすくすと笑った。
「クピドって呼んでくれる人がいるんです。だからクピドでお願いします」
「あら可愛い。天使ね」
「ジャパンのマヨネーズが由来だと聞きました」
ユリアとツェツィーリヤは顎を落とした。命名者はどこのどいつだ。由来さえ聞かなければ可愛らしいQPの見た目にぴったりな名前だけに、余計にたちが悪い。
ツェツィーリヤは一瞬躊躇う素振りを見せたが、肩を落としてそれを受け入れた。
「ではクピドちゃんと呼ばせていただきますわ、可愛い天使さん。それでハイドラ君は……その、
そう言って気遣わしげに眉を下げたツェツィーリヤを、ユリウスがせせら笑った。
「はっ、なーんも分かってないな上官殿は。いいか、ハイドラはな——」
「やめて、ユリウス兄さん。ぼくが自分で説明します」
顔面で嘲りと得意げを絶妙に混ぜ合わせながら講釈を垂れようとしていたユリウスが、ハイドラのその一言で呆気に取られたように目を瞬かせて振り向いた。
「兄さんって言った?」
「言いましたよ、ユリウス兄さん。ありがとう、でもこれは大事なことなので、自分で」
「うん……うん、そうだよなハイドラ。ごめんな」
一瞬で“兄”を黙らせたハイドラはツェツィーリヤに向き直る。
「これはぼくが常に、自分が内に化け物を飼っていると言い聞かせるための名です。母がこの命の他にぼくにくれた唯一のものであり、ぼくの戒めです。だからぼくは
ツェツィーリヤは押し黙った。短い沈黙のあと、彼女は少し眉を下げて微笑む。
「……失礼なことを言いました、ハイドラ君。よろしくお願いしますね」
ユリウスが目を
「そこで“でも”が出なかったことだけは褒めてやるよ」
「何故ここであなたが上から物を言うのです? 本当に腹の立つ人ですね」
「ぼくは兄さんとイリヤさんが仲良くしてくれると嬉しいです」
再び睨み合った二人を、ハイドラは一言で黙らせた。呆れ顔の三段活用があるとしたら、その三段目にいるような顔をしているユリアに、ひそひそとクピドが言う。
「(ちなみに
ユリアはなんとも微妙そうな顔をした。
「あんた意外と食えないって言われない……?」
「研究所育ちで、まともな情緒浴びると思ってます〜?」
そう言ってカラカラと笑ったクピドの姿に、
それが性格面だけでないことは、すぐに彼女たちの知るところとなった。
* * *
「いや……も……無理……」
誰かが脱落するまで走り続けるという、地獄のようなトレッドミル競争で、最初に脱落したのはユウだった。時速20kmに設定されたランニングベルトには途中から全く足がついていかなくなり、転がり落ちるようにベルトを降りて座り込む。荒い呼吸の合間に、ぽたぽたと汗が滴り落ちた。
「わ、大丈夫ですか〜?」
「水飲んだほうがいいですよ」
小さな体でリズミカルに大きなストロークを刻みながら、わずかに紅潮した顔でクピドが言う。気遣わしげな表情を向けてくるハイドラに至っては、汗一つかいていなかった。
「いやあんたたち、おかしい、でしょ……」
呼気に喘鳴を混ぜ込み、びっしょりと汗でシャツを上半身に貼り付けながらユリアが言う。子供たちは互いに顔を見合わせてから、にこっと笑って異口同音に答えた。
「「人外なので?」」
和やかな様子の子供たちの向こうでは、大人気のない二人がデッドヒートを繰り広げている。
「上官サマはっ、デスクワーカー、でございましょ……ハァ……無理すんなよ、腱がっ、ブチ切れんぞ……」
「ゼェ……貴方こそだいぶ……っ、息が、上がってるんじゃ、なくて……ゼェ……」
何故この二人が隣り合って舌戦を繰り広げているかといえば、緩衝材代わりに間に挟まっていたユウが脱落したからである。
「兄さーん、ファイトー」
「イリヤさん負けないでー!」
お子様二人がその争いを突然煽りだし、マイボトルからスポーツドリンクを口に含んでいたユウは吹き出した。それをまともに足に浴びたユリウスが、ぎゃっと叫んで足をランニングベルトから踏み外す。そのままもんどり打ってトレーニングルームの床に叩きつけられると、小さく呻いて動かなくなった。
「お兄ちゃん!!」
悲鳴じみた声を上げてユリアがトレッドミルから飛び降りて兄に駆け寄る。床に転がったままカブトムシの幼虫のように体を丸めているユリウスを睥睨しながら、ツェツィーリヤも悠然とした仕草でトレッドミルを降りた。
「わたくしの……勝ち、ですわね」
「ノーカンだろがこんなの!」
勝ち誇ったように言うツェツィーリヤに、一声吼えてからユリウスは逆に勝ち誇った笑みを返して見せる。
「まあユリアにお兄ちゃんと呼ばれて、介抱されてる俺のほうが勝ちですが?」
ユリウスを抱き起そうとしていたユリアがぴたりと手を止めた。ぱっと兄の上半身から手を離す。両手で脛を抱えていた(泣き所をひどくぶつけたらしい)ユリウスは受け身を取れず、床に肩をぶち当てて悲しい悲鳴を上げた。
「ユリアちゃん!?」
「黙れクソ兄貴」
冷たい冷たい目をしてユリアは吐き捨てた。ユリウスがきゅっと縮み上がり、ツェツィーリヤが呆れたように「ドローですわね」と呟いた。
「いーえ! わたしとハイドラ君の勝ちです!」
そう言ってぴょんとクピドはトレッドミルから飛び降りる。頬をわずかに紅潮させ、肩で息をしているクピドの横に、汗一つかかずに立ったハイドラを見て、ユリアは肩を竦めた。
「優勝はハイドラね」
「僕のはちょっとズルみたいなとこありますからね」
そう言ってくすくすとハイドラは笑う。そんなハイドラの脇を肘で小突いて、えへんと胸を張る。
「わたしたち小さいんだから、ズルじゃなくて補完だよ。そこは小さくてもちゃんとお役に立ちます! ってアピールするんだよ」
「あはは、頼もしいな。俺の方が頼りにならなそうだ」
ユウはそう言って笑うとドリンクのボトルを差し出した。クピドは可愛らしい丸いフォルムの小鳥が描かれたボトルからくぴくぴとドリンクを飲むと、ぷはっと息を吐く。そのままそれをハイドラに差し出したが、ハイドラは首を振ってユウからシンプルな銀のボトルを受け取った。
「ありがとうございます」
「足りなかったら給水器はあっちね」
そう言ってユウが入口付近の給水器を指し示した時だった。その指の示す先で、カチャリとトレーニングルームの扉が開く。
「あらもうそんな時間」
ツェツィーリヤは慌ててバングルで時計を確認した。時間外利用の場合、入口には認証が掛かっている。申請リストにいない者は入ってこられないはずだ。誰かが入ってきたという事は開放時間を過ぎていることを示しているはずだったのだが、時計はまだ7時を指していた。
リスト間違えたかしら、と呟いたツェツィーリヤは眉を下げて入ってきた男に声を掛ける。
「ごめんなさいね、まだ時間外なのだけど――」
「大丈夫です、副艦長。俺が呼びました。申請リストにも入ってます」
のっそりと入ってきたコンラートの姿を認めたユウが、笑顔でそれを制した。
「来てくれてありがとう、コンラート」
「……おう」
少し不貞腐れた表情のコンラートは、自分のつま先を見つめてぶっきらぼうに返事をした。
「……コンラートさん」
その姿を認めたハイドラが、隠れるようにユウの後ろに移動する。その上でさらに見せないように手を自分の背後に回して縮こまった少年を見て、コンラートは唇を噛んだ。
「ハイドラ」
遠慮がちな声でコンラートが少年の名を呼ぶ。そっとユウの背後から顔だけ出した少年の目線に合わせ、コンラートは膝を折った。
「昨日は悪かった。お前は悪くない」
「いえ、僕の方こそ配慮が」
「謝んな」
謝罪に謝罪を返したハイドラの言葉を、コンラートはぴしゃりと遮った。その強い語気に気圧されたように、ハイドラが口を噤む。コンラートが慌てたように言った。
「いや違う、そうじゃなくてだな。昨日のあれは、事情も聞かずに脊髄反射でキレ散らかした俺が悪い。だからその、悪いのは俺だから、お前は謝らなくていいんだって言う意味で」
「つまりコンラートは、君と握手したいってことさ」
くつくつと笑いながらユウはハイドラを振り返った。コンラートが鼻白む。
「なんだよ藪から棒に、握手って」
「昨日ハイドラは握手が友情の証だってことを覚えたんだよ」
「はぁ? 何当たり前の……」
言い掛けてコンラートは黙り込んだ。昨日部屋に戻ってから繰り返し反芻していたハイドラの生い立ちを、もう一度記憶の中でなぞって渋面を作る。
「……そういう事かよ」
そう吐き捨てて、コンラートは手を差し出した。
「ん」
ハイドラは恐る恐るといった動きでユウの後ろから出てきた。小さな手を差し出そうとして、思い出したようにポケットを探る。
「すみません、今手袋を——」
「要らんわ、んなもん」
「わっ!」
コンラートの手がハイドラの肘を掴み、ポケットから乱暴にその手を引っ張り出した。強めの力で手を握られながら、ハイドラは目を丸くする。
「強引ですね」
「
ハイドラは軽く瞠目し、すぐに柔らかく目元を緩ませた。
「ここにはいい人しかいませんね。来てよかった」
「今日はドッキリはなし?」
悪戯っぽく笑ってユウが問う。ハイドラは生真面目な様子で頷いた。
「必要がありませんから。びっくりは別に提供させてもらいます」
「んぁ?」
怪訝な顔をしているコンラートに、ハイドラはユウを真似るように悪戯な笑みを向けて見せる。
「今みんなで、体力勝負をしてるんですよ。次は力比べです」
「ほぉー。その細腕で俺に敵うのか?
「はい、ぼくも全力でお相手します。お友達ですからね」
そう言って獰猛な笑みを見せたコンラートは、穏やかな笑みを返したハイドラにぜんぜん勝てなかった。
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