第5話 16ビットの思い出

 自室に戻ってきたコンラートは靴も脱がずにベッドに身を投げた。まだ日は高く、ルームメイトは不在でその行為を咎めるものは誰も居ない。


「くそ……」


 仰向けになって顔の上に腕を乗せ、コンラートは小さく悪態をつく。頭の中には少年の金色の澄んだ目と、鮮やかな肉の色とが交互にフラッシュバックしていた。

 腕を顔の上に乗せたまま、空いた方の手でごそごそとベッドの中を漁る。私物と寝具がミルフィーユのように重なり合ったベッドの中から、コードの細い触感を探り当てると、それを手繰って目当てのものを引っ張り出した。

 十字のキーとマーブルチョコレートのようなカラフルなボタンが並んだそのコントローラを、コンラートは額に押し当てる。


「お前は俺の宝物を守っててくれ」


 5年の年月を経てなお鮮やかに脳裏に蘇るのは、父の声。


 コンラートは5年前の初侵攻の際、断続的に襲われた街のひとつの出身だった。その頃組織されたばかりの防衛軍は常に後手に回っており、コンラートの故郷も例に漏れず手遅れだった。生体汚染にまみれた街は焼き払われ、今は跡形も残っていない。

 

 当時のコンラートはゲームが好きな、ごく普通の少年だった。戦争を知らずに育ち、ゲーム制作会社に入るというささやかな夢を持ち、ゲームと勉強に日々を費やしている、痩せぎすのただのハイスクール生だった。

 そんなコンラートの父は鉄道警察隊の一員で、強い体と心の持ち主だった。侵攻により鉄道網が機能しなくなり、鉄道警察としての職務がなくなってからは町の自警団を始め、いつも弱い他人のために手を差し伸べられる人だった。

 父はコンラートにとって誰よりも強く男らしい人間だったが、その男らしさを息子には求めず、彼の彼らしさをありのままに認めてくれる懐の深い男でもあった。


 学校は閉鎖され、ライフラインも止まり、怯えながら鬱々とした日々を過ごしていたある日のことだった。


「実はな、俺も昔はゲームが大好きでなぁ」


 そう言った父が引っ張り出してきた骨董品の16ビットマシンは、きちんと手入れされ問題なく動作することで父の言葉を息子に証明してみせた。消費電力の少ないその骨董品は、自家用の太陽光発電バンクで日中貯まるわずかな電気でも十分に遊ぶことができた。


「俺がゲーム好きなの知ってるのに、なんで今まで隠してたんだよ」


 小さなモニターの淡い光に照らされて2Pコントローラを操る父にそう尋ねると、父は画面を見つめたままこう言った。


「親の趣味ってなぁ、気恥ずかしいものなんだ。お前の前では格好いい父親でいたかったのさ」


 コンラートはコントローラを操る手を止めて父を見る。画面の中では赤い帽子の髭男が緑のカメに弾き飛ばされたが、彼は気にしなかった。


「格好いいよ。ちゃんと格好いいよ! こんな骨董品、ちゃんと使えるように手入れ出来るのはすごいことだよ。俺だからわかるよ。格好いいよ!」


 父は驚いたように手を止めた。緑の帽子の男が、カメの投げてくるハンマーにぶつかってゲームオーバーのジングルを奏でる。画面から視線を外してコンラートを見た父は、見たこともないようなふにゃりとした笑顔で笑っていた。


「そうかぁ……」


 そう言って父はコンラートを抱きしめた。背中に回された大きな手は、ひどく暖かかった。父が顔を埋めた方の肩口が湿っていくのには、気付かないふりをした。


 * * * 


 その日、近所の井戸に水を貰いに行った母は帰ってこなかった。

 不寝番から帰ってきて睡眠を取っていた父が起きてきて、母の帰宅時間の遅れに不信感を抱き始めた時、家の外で悲鳴が上がった。

 扉を開けた瞬間のその光景は、一生脳に焼き付いて消えないだろう。

 血と肉と脂肪となんだかよくわからない粘液が絡み合った、ねばついた巨大な生き物。そいつはごろごろと村の家々の間を転げまわり、縦横無尽に伸ばした触手で人間を絡めとっていた。それを目にした父が、瞬間的に強い力で扉を閉める。扉に押し付けた父の厚い背中が、次に襲ってきた衝撃でわずかに跳ねた。

 それ以上の追撃はなく、コンラートと父は黙ってカップボードとソファで扉の前にバリケードを作る。悲鳴が遠のいていき、部屋の中には重い沈黙が満ちた。


「母さんを探しに行く」


 鉄道警察時代の防刃ベストに袖を通しながら、父はそう言った。


「父さん、俺も――」

「俺はお前と母さんを守る。だからお前は俺の宝物を守っててくれ」


 同行の申し出を無視した父は、王冠を扱うような恭しい手つきでコンラートの腕に骨董品の16ビットマシンを抱かせた。


「地下室に行きなさい」


 有無を言わさない強い口調に背中を押され、階段を降りる。

 豊富にあった備蓄品もすっかり減って、やけに広く感じる地下室の隅で、16ビットマシンを抱きしめたコンラートは膝を抱えて座り込んだ。扉の向こうからは、断続的にくぐもった悲鳴や何かがぶつかる音が響いてくる。時折爆発音が地下室を揺らし、その度にコンラートは身を竦ませた。


 恐怖と悔しさと焦りと、そして両親を心配する気持ちがごちゃ混ぜになって頭の中をぐるぐると巡る。どれくらいの時間そうしていたのだろう。光の入らない地下室はずっと薄闇に沈んでいて、まだ5分しか経っていないのか、もう夜も更けてしまったのかも分からない。

 薄暗闇にうずくまっていても、意識はずっとはっきりしていた。いっそ眠ってしまおうかと目を瞑ってみはしたものの、瞼がそれを拒否するように開いてしまう。外から聞こえる音を遮断しようと耳を塞げば、ざあざあと自分の血の流れる音がまた恐ろしかった。


 だから父の声が聞こえた時は、飛び上がるほど嬉しかった。16ビットマシンを抱えたまま階段を駆け上がり、地下室の扉に手を掛ける。


「——いじょうぶですか、今手当を——」

「すみ、マセん、ネェ――」


 ドアノブを握った手がぴたりと止まった。父と会話しているのは母ではなく、知らない声の男だった。妙に抑揚が平坦な、ざらついてゆっくりとした老人のような声。

 いい歳をした息子が、地下室に隠れているなんて情けない。いつも心のどこかに抱えていた小さな劣等感が、こんな時に顔を出した。相手は自警団の人だろうか。まるで老人のような声だった。年老いた人でも戦っているのに、自分はこうして安全な場所に引きこもっている。

 コンラートはそろりとドアノブから手を離し、足音を立てないよう慎重に階段を降りる。そして再び地下室の隅に膝を抱えて座り込んだ。相手は自警団の人かどうかもわからないし、父はただ怪我人を連れてきただけかもしれない。町の人はみな優しい。こんな時に責めるような人はいないのだと、分かっている。それでもどうしても地下室の扉を開けることが出来なかった。


 ――開けるべきだったのに。


 地下室の薄闇を、父の切迫した悲鳴が切り裂いた。コンラートは弾かれたように顔を上げる。激しく何かがぶつかり合う音と、怒声と、ガラスの割れる音。

 自分がこんなに素早く動けることを、彼は知らなかった。飛ぶように階段を駆け上がる。ドアを開くとき、腕から16ビットマシンが転げ落ちて階段の下で嫌な音を立てた。


「——父さん!!」


 緩慢な動作で人影が振り向いた。ぶくぶくと間延びしたシルエットは人のような形をしていたが、天井に届くほどに大きく、その顔はぱっくりと割れて無数の指が波のようにさざめいている。

 継ぎ接ぎしたような様子で滅茶苦茶に生えた何本もの腕が、今まさに防刃ベストを着こんだ胴体から首を捥ぎ取ろうとしていた。


「うわぁあああああああああああああああああ!!!!」


 腹の底からあふれ出たその叫びは、怒りなのか恐怖なのか分からない。咄嗟にダイニングテーブルの上に置かれていた、小型のガススプレーとライターを引っ掴む。くだんの化け物の弱点が炎であるらしいと知った父が、用意していたものだった。

 ライターに火をつけ、スプレーを噴霧する。巨大な炎の舌が轟音を立てて舞い上がり、人間の皮から柘榴のように溢れ出た肉を焼き焦がした。

 この世のものとは思えないおぞましい叫び声を振りまきながら、化け物が大きくのけ反った。コンラートはその声に負けない叫びで肺を空にしながら、なおも炎を浴びせ続ける。怪物の手から、父の体が滑り落ちた。

 父の体は潰れたトマトのように、赤い液体をまき散らしながらべしゃりと床にくずおれる。その体を守るように立ちはだかったコンラートの手の中で、炎がふっと消えた。


「ああ、あああ……」


 スプレー缶の中身と共に肺の空気も空っぽになっていた。肉の焦げる凄まじい臭いが部屋に充満する中、吸い込んだ空気は酷い吐き気をもたらした。

 怪物がコンラートを見た。見た、という表現は正しくないかもしれない。ただぱっくりと縦に割れた顔面が、コンラートに向けられていた。頭と思しきそのパーツにはみっしりと指が生えていて、手招きするように揺れている。

 継ぎ接ぎしたような様子で滅茶苦茶に生えた何本もの腕が、コンラートに向かって伸びてくる。咄嗟に身を引こうとして、かかとの端が父の身体に触れた。それ以上下がることもできず、奥歯を噛みしめて立ちはだかったコンラートの耳に、父のかすかな声が届く。


「しゃが……め……」


 父の声に導かれるように膝を折ると、怪物の手は目標を失って空を切った。

 ぱん、と1発の発砲音が響く。父が夜な夜な作っていたホロウポイントの弾頭が、焼け縮んだ肉の奥に脈打ちながら埋もれていく塊を貫き、内側からそれを弾けさせた。

 腕と指と肉の塊が壊れたケーキのように積み重なって床に落ちる。コンラートはそれらに見向きもせず、膝をついて父の頭を抱え上げた。


「父さん」


 力なく呟いたコンラートの頬を涙が滑り落ち、光を失った父の目の近くに落ちる。最後の力を振り絞ったであろう父は、もう息をしていなかった。首と胸の狭間からじわじわと溢れる血液が、じっとりと膝を濡らしていく。


「ごめ……ごめん……俺が、ドア、あけてれば」


 父の遺体に縋り付いて、コンラートは泣いた。

 人間の皮から柘榴のように溢れ出た肉のいろ。父は騙されたのだ。後に混ざりものアザーティと呼ばれるそれは、人間に擬態したアザトゥスであったり、乗っ取られた人間そのものであったりした。自分がそばにいれば、二人分の目があれば、父は不意を打たれることもなく今も生きていたかもしれない。しようもない劣等感は、父を殺してしまった。

 そっと父の頭を床に降ろす。引き金を引いた形のままでハンドガンを握りしめている父の指を一つずつ優しく開かせて銃を取り上げると、まだ弾が残っていることを確認してポケットに捻じ込んだ。

 

「全部殺してやる」


 少年コンラートは憎悪に沈んだ声でそう呟くと、裏口から家を出た。


 * * * 


 母は最後まで見つからなかった。

 殺してやると息巻いて家を出たコンラートは家から100メートルも離れないうちにあっさり殺されかけたが、救助にやってきた軍によって一命を取り留めた。

 戦災孤児となった彼は15歳で、志願兵の規定年齢を満たしてた。救助に来てくれた軍は志願を受け入れていたので、コンラートはその場で軍に入ることを決めた。

 父の宝物16ビットマシンは壊れてしまっていたが、父が大事に仕舞っていた数本のソフトと一緒に鞄の底に詰め込んだ。それをいつか使えるように手入れすることで、かつての父の隣に並べる気がしたからだ。


 コンラートはコントローラを脇に置いて起きあがると、16ビットマシンの電源を入れた。独特な電子音がジングルを奏で、タイトル画面を表示する。

 修理はテッサリアがしてくれたのだが、テッサリアに習って手入れは自分でしている。かつての父のように。


 少年の澄んだ金色の瞳が再度脳裏をよぎる。酷い事を言ってしまったのは分かっていた。あの日の後悔が、あの感情の源泉だった。

 父ならどうしただろうか。彼の彼らしさをありのままに認めてくれた、懐の深い父。

 コンラートは両手で顔を覆った。自問しなくてもわかっている。父ならきっとハイドラの事も認めて、受け入れるのだろう。あの日ざらついた声の老人を受け入れたように。


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