第二章 1

 コウヤは真っ暗な視界のなかで目を覚ました。

 心臓の鼓動に合わせて、身体中がずきずきと痛む。なかでも最悪なのが、眼球の痛みだった。

 コウヤは生まれたときから、目に障害をもっていた。医者からは、先天性の網膜剥離と診断されていた。

 通常、瞳孔から入った光は、水晶体を屈折し、ピントが調整されて網膜に映る。それが脳に認識され、初めて目が見える訳だが、網膜剥離とはその病名の通り、光を脳に伝える重要な膜が、自然と剥がれてしまう病気だった。

 初期症状は、視界に数匹の黒い虫が飛び回るように見える。網膜が剥がれた部分だけ、視界が黒く欠けるからだ。映画のスクリーンに、所々穴が空くようなイメージに近い。

 そして、症状が進むにつれて、黒い虫の数がどんどん増えていき、最終的には失明する。

 コウヤがものごころつく頃には、病状はかなり進んでおり、取り返しのつかない状態だった。宗教団体のなかで育ったせいで、定期的な健康診断も受けらず、発見が遅れたのが原因だった。

 不幸中の幸いだったのは、先天性の目の病気が、片目だけにとどまったことだ。

 左目の光はほとんど失われてしまったが、右目は検査の結果、何の異常も見られなかった。おかげで、コウヤはとくに生活に不自由することなく、これまで生きてこれた。だが……、

 今自身を襲っている激痛は、正常な右目からくるものだった。

 眼球を取り出したくなるほどの痛みが、脈打つように繰り返される。

(いったいなんなんだ)

 痛みに耐えかねて、喉から唸り声が漏れた。いつの間にか、自分がどこか静かな場所に横たわっていることはわかった。

 しかし、なぜそんな状況になっているのか、記憶が思うようにつながらない。落ち着いて記憶を辿ろうとするも、痛みが邪魔して集中できなかった。なにより、視界がまったく見えないことが、コウヤをよりいっそう動揺させた。


 痛む右目に手を伸ばすと、目には包帯のようなものが巻かれていた。

 突然、腕を誰かに掴まれた。同時に数人の手がコウヤの身体を押さえつける。

 掴まれた右腕に、針が刺さるチクリとした痛みを感じた。

「だいじょうぶですよ。落ち着いてください」

 聞いたことのない女の声がした。やさしいようで、どこか機械的に感じる女の声。いったなにがだいじょうぶだというのだ。

 パニックになり、押さえつけられた腕を振りほどこうと、全身にちからが入った。

「なにしてるの!しっかり押さえて」

 先ほどと同じ女の声が、鋭く響いた。

 ほどなくして、痛みが抜けるように消えていく。それと同時に、意識も徐々に遠のいていった。

 薄れゆく意識のなかで、記憶の断片がフラッシュバックするように蘇る。

(そうだ。おれはあのバケモノに殺されかけた。目をヤラれたんだ)

 なんてことだ。瞬時に絶望が脳裏を支配した。

 その時だった。

『そう気に病むことはない。このおれが救ってやるよ。さっきの続きをしよう。さあ、契約だ……』

 地獄の底を這うような、身の寒気だつ声だった。

 声の主は、ザラザラとした笑い声をあげた。

『おい、なにも泣くことはないだろう。なあ、聞いているのか?』

 コウヤは恐怖で震えていた。

 バケモノに襲われ、失明してしまったこと。おまけに、頭までイカれてしまったこと。不気味な幻聴はなおも聞こている。

『これゃあ駄目だな。もう少し時を置くか。おれとしたことが、つい焦ってしまったな……』

 そしてまた、ザラザラと笑う。

 幻聴にしては、あまりにリアルな響きだった。『あなたの息子さんには、悪魔がとり憑いている』の教団幹部の言葉が頭に浮かんだ。

 (ちくしょう……)

 見えない目から、涙が溢れでた。

 コウヤは白目を剥いて、また意識を失った。

 

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