第一章 2

 コウヤは家をでるまえに、母に声をかけた。

「ちょっと出てくる」

 リビングのソファーであぐらきながら、電子タバコの煙を一息吐いて母がいった。

「こんな時間からバイト?」

 壁に掛かった時計の針が、十四時を少しまわったところだった。

「池袋まで出てくる。晩飯はテキトーに食べてくるからいらない」

 バイトなら先週クビになったばかりだ。 池袋にあるパチンコ店で、一カ月ほどアルバイトをしていたが、店長にやんわりとクビを宣告された。『試用期間がそろそろ終わるんだけど、黒川くんは続けられそうかな?若いんだし、他の選択肢に視野を広げるのもひとつの手だと思うんだけど……』コウヤはありがたくその言葉を受け入れた。

 コウヤのひきつった不格好な笑顔では、接客業にはまるで向いてなかった。それに、くそやかましい店内での接客(大半がイラついた客)。妙に明るい他の従業員たちとのコミュニケーション。どれをとっても馴染むことができず、それを克服するだけの気概も、まったくといっていいほど持てなかった。

 これでバイトをクビになるのは何度目だろう。ふと、ため息が漏れる。

「また、バイトクビになったんでしょう」

 母がニヤつきながら、もう一息煙を吐いた。リビングに広がる電子タバコ独特の匂いが、エアコンの冷風に溶けて消える。

 核心を突かれたコウヤはなにもいえず、その場に固まった。母は続けた。

「そんなに無理に働かなくても、のんびりやりたいことでも見つければいいじゃない。アンタを食わしていくくらいの稼ぎは、十分あるんだから」

 また始まった。こんな時代になんという甘い母親。コウヤは胸の中で毒づいた。

 母の目のまえに置かれたノートPCの液晶には、赤と青の直線が不規則に並んでいた。

 短い線や長い線、線の中心から上下同じ色に伸びる細い髭のような線もある。それがなにを意味するのか、コウヤには意味不明だったが、その二色の不揃いな直線たちは、互いに意思をもっているかのように、ギザギザと追いかけっこをしながら、右肩上がりの緩いカーブを描いていた。

 PCの画面を一瞥した母は、素早くキーボードを叩くと、口の端で薄く笑みを浮かべた。またいくらかもうけたのだろうか。

 トレーダー。これが母の仕事だった。株、為替、仮想通貨。様々なものをトレードして金を稼ぐ。母はほとんど家の外にでない。いや、でることがでなかった。そんな状態でよくここまで生活をしてこれたものだと、あらためてコウヤは思う。

 母はいまだに病んでいる。コウヤを連れて新興宗教から逃げだしたあとも、その傷は癒えなかった。

 しかし、母は生きることを諦めなかった。必死で親子ふたり、生きていく術を探した。そして掴んだのだ。

 いま母の部屋には、複数台のPCとモニターが、ぎっしり占拠している。一台のPCから始まった母の戦いは、勝った負けたを繰り返しながら、最終的に冷たく薄暗い宇宙船のコックピットのような牙城を築いていた。だが……、

「いってくるよ」

 コウヤは、もう一度母に声をかけて家をでた。

 母からの返事はなかった。母の意識は、既に果てしなく広がる数字とチャートでできた宇宙の彼方へと消えていた。

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