第一話『鉱山は眠らない』 EPISODE ONE: “The Mine Never Sleeps” (9)

 ジョーが引金を引き、スミス&ウェッソン.44口径の銃口が、火を噴いた。

 間を置かず、左手で三度撃鉄を叩くファニング

 無駄撃ちはなし。四人の敵が、どさりと倒れ伏した。


 アイゼンバーグ邸、一階。

 長い廊下。片方には大きめの窓、もう片方には各部屋へのドアが、延々と続いている。

 ここがジョーとソルの主戦場だ。

 屋敷の見取り図を目にした時から、ジョーはこの場所でいかに戦うかを考えていたのだ。


 四つの死体の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。

 アイゼンバーグの部下が、五人ほどやってくるのが見える。

 ジョーは、すぐに手近なドアを開け、部屋の中へ身をひるがえした。

 駆けつけた連中は、口惜しげに騒ぎ立てる。

「クソッ! 四人も殺られてるじゃないか!」

「そこに入ったのが見えたぞ!」

 すると、五人の背後で、音もなくドアが開き、二丁を構えたジョーが姿を現した。

 神出鬼没、という訳ではない。

 ひとつひとつの部屋に、必ずいくつかのドアがある。

 両隣の部屋へつながるドア。廊下に出るドア。

 それらを駆使し、彼らの背後を取ったのである。

 両の親指で撃鉄を起こすジョー。

 そのカチリという音に、敵の一人が振り向いた。

 目と目が合う。ジョーはニコリと笑い、ご挨拶。

ようハロー

 銃声。一人が倒れる。

じゃあなグッバイ

 左右の銃口から、交互に弾丸が飛び出す。

 人差し指が引金を引き、親指が撃鉄を起こす。

 反撃のいとまも与えず、次々と銃弾を撃ち込んでいく。

 やがて、五人が斃れ、血と硝煙にまみれた廊下は、死の静寂しじまに包まれた。

 しかし、またも足音。

 今度は、先ほどとは反対の方向だ。

 ジョーは、ふたたびドアを開け、部屋の中へ身を滑り込ませた。

 やって来たのは二人。

 揃いの帽子とコート。キンダーマンだ。

 ただし、ジョーンズが率いる子飼いの捜査員ではなく、アイゼンバーグの部下と共に一階の警備を命じられていた、ジョーが言うところの“した”である。

 二人は、眼前に広がる酸鼻さんび極まる光景に、息を呑んだ。

 文字通り、血の河、死体の山だ。

「なっ、なんだ、こりゃあ…… みんなられてるぞ……」

「おい、いったん退こうぜ。ジョーンズさんと合流しよう」

「そのほうがいいな。ここにいたら俺らも殺されちまう」

 後ずさりを始める二人。

 その時、彼らの真横で勢いよくドアが開き、一人を吹っ飛ばした。

「うわあ!」

 ドアの向こうにいたのは、両の手にナイフを握るソル。

 彼がドアを蹴り開けたのだ。

 直撃を免れた敵が、慌てて拳銃を構えるも、ソルは瞬時に彼の手首、喉を斬り裂き、とどめに心臓へナイフを突き立てた。

 廊下に倒れたもう一人が、取り落とした銃に手を伸ばしたが、つかむ間もなく、ソルの投じたナイフに胸を貫かれた。

 すべては一瞬の出来事。

 ソルは、ジャケットの内側からさらにナイフを抜き、ジョーのもとへと歩き出した。




 ソルが油断なくドアを開けた先は、応接室サロンだった。

 ここはパーティーの前後に、ゲストがコーヒーと会話を楽しむための部屋だ。

 天井にはクリスタルのシャンデリア、壁には誰が描いたかよくわからない風景画、床にはペルシャ絨毯じゅうたん

 ヴィクトリアン様式のソファやアームチェアは、どれも豪華な装飾が施され、布地は深紅のベルベットで統一されている。

 隣室はパーティーが開かれるボールルームとなっており、反対側のドアはビリヤードルームに続いていた。

 ビリヤードルームはバーも兼ねている。こちらは、主人とより親密な客が、酒を飲んだり、遊戯に興じたりする、やや個人的な空間である。

 そして、予定通り、応接室にはジョーとルイ=ジャンがいた。

 計画を次の段階へ進める際の、集合地点に決めていたのだ。

 ジョーは、のんきに葉巻をくゆらせながら、拳銃に弾を込めている。

 ずいぶんと高級そうな葉巻だが、彼にそんな趣味はないので、おおかたアイゼンバーグのものを失敬したのだろう。

 その隣では、ルイ=ジャンが不安の色を隠せないまま、落ち着きなく同じ場所を歩き回っている。

 ジョーは、近づくソルに目を向けると、紫煙しえんが漏れ出る口で笑った。

「一階はこれで片付いたな」

「ああ。だが、すぐにキンダーマンの本隊が来るぞ」

「へっ、それこそ作戦通りよ」

 そんなジョーの余裕綽々よゆうしゃくしゃくな態度に、ソルは鼻でため息をつき、

「おまえの戦術は当てにならん」

「だが、うまくいかなかったことはねえだろ?」

 そう言って、ニヤリと笑うジョー。

 ソルもまた、フッと笑ったが、すぐに真剣な表情に戻る。

「俺はルイ=ジャンの妻と娘を助けに行く。二階で合流しよう」

「わかった。おそらく地下の小部屋に閉じ込められてる。気をつけろよ」

「おまえも」

 部屋から出ていくソルを見送ることなく、ジョーはルイ=ジャンのほうへと振り返る。

「ルイ=ジャン、おめえは俺といろ。せいぜい役に立ってもらうぜ」

「しょ、承知した……」

「ほれ、こいつを使いな」

 弾を込め直したスミス&ウェッソンを一丁、手の中でくるりと回し、グリップを彼へ向ける。

 受け取ったルイ=ジャンは、

「つ、使えと言われても……」

 と、少々持て余し気味だ。


 刹那――


 ジョーの耳目じもくが感じ取る。

 ドアがゆっくりと開く、ほんの小さな音。

 目の端に映った、ソルの服とは異なる色合い。

 次の瞬間には、廊下へ続くドアへ、六発すべての銃弾をファニングで叩き込んでいた。

「隠れろ!」とジョーが叫び、二人はソファの後ろに身を隠す。

 二、三人はった。

 が、焼け石に水だ。

 その証拠に、二人が隠れるソファに向けて、雨あられと銃弾が撃ち込まれる。

 ジョーも撃ち返しはするのだが、敵の銃撃をわずかに途切れさせるにすぎない。

 ルイ=ジャンはといえば、拳銃を握り締めたまま、身を小さく縮めているだけ。

 苛立つジョーが、怒鳴り散らす。

「なにしてやがる! おめえも撃ち返せ!」

「使い方がわからないんだ!」

「なにい!? 大の男が銃の使い方も知らねえのかよ!」

「銃なんて持ったことも、持とうと思ったこともない!」

「そいつぁご立派なこった!」

 ジョーは、思考する。

 さあて、ここからだ。

 右には、ボールルームへ続くドア。

 左には、ビリヤードルームへ続くドア。

 ソファから顔を覗かせると、くわえている葉巻の先端が銃弾で吹き飛ばされ、火が消えた。

 見えたのは、廊下へ続くドアの辺りに展開している、十数人のキンダーマン。遮蔽物しゃへいぶつはなし。

 いまだ、作戦通り。

 ジョーは、左手のドアを指し、

「俺が援護するから、あのドアに向かって走れ!」

 そう怒鳴ると同時に、ソファから飛び出し、またもファニング。

 キンダーマンが一人、二人と倒れ、射撃の波が途切れた。

 ジョーが叫ぶ。

「行け! 早く!」

 その声に押されたルイ=ジャンが、腰の引けた様子で、隣のビリヤードルームへ走る。

 ジョーも少し遅れて、あとを追った。

 銃弾に追い立てられるように、ビリヤードルームへ飛び込む二人。

「止まるな! 走れ!」

 ソファ。コーヒーテーブル。ビリヤード台。

 さらに、その奥、真正面には、バーカウンター。壁一面の棚に、高級そうな酒瓶が陳列してある。

「カウンターの向こうに隠れろ!」

 疾走する勢いのまま、二人はバーカウンターを乗り越え、身を隠す。

 ようやく一息である。

 ジョーは、すぐに銃弾を装填。

 一方のルイ=ジャンは、仰向けに転がり、ぜいぜいと息を切らせ、

「ここから、どうするんだ……」

「連中をだいぶ死体に変えてやった。こっからあとも作戦通りにやるだけよ―― おっ?」

 弾む声と共に、目を輝かせて、陳列棚の酒瓶を手に取るジョー。

 瓶のラベルには“Hennessy V.S.O.P.”とある。

「おい、見ろよ。上物のコニャックだぜ。野郎、いい酒飲んでやがる」

 ジョーは、たまらずコルク栓を抜くと、喉を鳴らしてラッパ飲みを始めた。

 持ち主のアイゼンバーグがこれを見たら、発狂するやもしれぬ下品な鯨飲である。

「かぁあああ! たまんねえな、おい!」

 至福の喜びに嬌声を上げるジョーと、もはや声もなく呆れ返るルイ=ジャン。

 しかし、幸せな時間は長く続かない。

 バーカウンターに何発もの銃弾が撃ち込まれ、そのたびに木片が飛び散る。

 キンダーマンが追いかけてきたのだ。

 数人が、断続的に銃弾を撃ち込みつつ、前進していく。

 その後ろから現れたのは、上級捜査員ジョーンズ。

「追いつめたぞ」

 前衛が休みなくカウンターへ射撃を続ける中、ジョーンズが残る捜査員に命じた。

「テーブルとビリヤード台を倒せ。ソファもだ」

 部屋に置かれた調度品の類は、すべてひっくり返され、捜査員は皆、その後ろに隠れる。

 遮蔽物が構築され、部隊は戦闘配置に着いた。

 つまり、敵は全員、この部屋に集まった、ということだ。

 ジョーは、ルイ=ジャンにウィンクし、「やれ」とひと言。

 そして、ボロボロのカウンターに開いた裂け目から様子をうかがうと、息をひとつ吸い、

「ヒューッ、まったく精が出るこった。だけどよお、屋敷ん中をこんなめちゃくちゃにしちまったら、雇い主に大目玉喰らうんじゃねえのか?」

 などと、おどけた調子で、カウンターの向こうに問いかけた。

 無論、そんなものに付き合うつもりなど、ジョーンズにはない。

「くだらんおしゃべりはよすんだな。もう逃げ場はないぞ。貴様らは終わりだ」

 それでもなお、ジョーは軽口をやめない。

「よう、ウィリアム・ジョーンズ上級捜査員。お元気?」

「なぜ、貴様のようなチンピラが、私の名を知っている」

「悪いが徹底的に調べさせてもらったぜ。イーライ・ホフマン、ベンジャミン・ワイズ、サミュエル・ブロック、ジェイコブ・フィッシャー、なんだエトセトラかんだエトセトラ――」

 屋敷の中にいる、いや、いた者たちの名が並べ立てられていくうちに、ジョーの声の調子が変わっていった。

 まるで、勝負は決したかのような、勝ち誇るような声に。

「――この屋敷にいる、アイゼンバーグやおめえの部下の名前は全員知ってる・・・・・・・・・。俺も仲間・・もな」

 名前。

 ジョーンズは、心のどこかに、引っかかりを覚えた。

「名前……」

 その時であった。

 ビリヤードルームの外から、なにかが聞こえてきた。

 音、ではない。

 これは、声。

 うなり声だ。

 低く不気味なうなり声が聞こえてくる。そこかしこから。

 ジョーンズの部下たちも、この正体不明の声に、ざわつき始めている。

「な、なんだ……?」

「動物……? いや、まさかな……」

 今では、声はどんどん数を増し、この部屋を取り囲むがごとく、四方八方から聞こえてくる。

 どんどん近づいてくる。

 いわんやジョーンズには、この声に聞き覚えがあった。

「ま、まさか……」

 それと、もうひとつ、決定的な記憶。

 バーカウンターの向こうにいる、追いつめられたハイチ人が発した言葉。


『名前がわからない死体も多すぎる。死体を起こすには、フルネームがわからなければいけない。身元のしっかりした死体を寄こしてほしい』


 死体を起こす――


 フルネーム――


 まるで、ジョーンズの心を読んだかのようなタイミングで、

「言ったろ? 名前は知ってる、ってよ」

 と、ジョーが笑う。

 その隣には、目を閉じ、なにごとかをブツブツとつぶやいているルイ=ジャン。

 ついには、うなり声の正体が、ビリヤードルームに侵入してきた。

 アイゼンバーグの部下。キンダーマンの捜査員。どれも、よく見知った顔。

 ただし、彼らは死んでいる。

 ジョーンズの記憶と、目の前の光景が、完全に重なった。

「貴様ら……! 殺した連中を、ゾンビに!」

 ジョーは、コニャックの残りを、またひと口。

「追いつめられたのは、おめえらだ。マヌケ野郎ブロックヘッド

 ゾンビが、廊下へのドアから、応接室へのドアから、続々と入ってくる。

 あの恐ろしいうめき声を上げながら。生者に向かって手を伸ばし。

 捜査員たちは、悲鳴に近い声で、叫んだ。

「なんなんだ! なんなんだよ、こいつらは!」

「う、撃て! 撃て撃て撃てえ!」

 銃弾が、ゾンビの顔や胸、腹を撃ち抜いていくが、その程度で歩みが止まるものではない。

 死んでいる者は、殺せないのだ。

 少しもひるむことなくゾンビは行進を続け、捜査員たちが次々と捕らえられていく。

 そして、ゾンビに捕まるということは、それ即ち、死である。

 手首をつかまれた者は、腕を引き抜かれ。

 首を絞められた者は、頭をもぎ取られ。

 髪をつかまれた者は、頭蓋骨が見えるほど頭皮をぎ取られ。

 口の中に手を突っ込まれた者は、下顎をむしり取られ。

 生きたまま、紙のように、肉体を引き裂かれていく。肉片に変えられていく。

 血と肉と臓物はらわたが、舶来物の高級絨毯の上に、ばらかれていく。

「やめろ! 来るなあ! うわぁああああああああ!」

「放せ! 放せえ! ぎゃああああああああ!」

「ちくしょう! 神様! 神様ァ!」

 悲鳴を上げながら、身体を千切られる者。自分で自分を撃ち、命を絶つ者。

 ジョーンズは、目の前で繰り広げられる地獄のような光景に愕然とし、佇立するしかなかった。

 そんな彼に――

「おい! ジョーンズ!」

 ジョーが、声をかけた。

 カウンターの裂け目からは、こちらを向いたジョーンズの、無防備な下半身が見える。

 ジョーは、裂け目に銃口を押し当て、

タマにお別れを言いなディレ・アディオス・ア・トゥス・ウエボスクソッタレマザーファッカー

 引金を引いた。

 銃弾は狙いをあやまたず、ジョーンズの股ぐらに命中。

「ぐおっ!」

 ジョーンズは、その場に倒れ込んだ。

 内股に閉じられた股間からは、鮮血が噴き出ている。

「クソッ……! よくも、こんなことを……!」

 顔中に脂汗を浮かべ、悶え苦しむジョーンズ。

 ジョーとルイ=ジャンは、すでにカウンターの向こうから、姿を現していた。

 息も絶え絶えにうめくばかりのジョーンズであったが、やがて、彼は二人をにらみつけつつも、その顔に引きつった笑いを浮かべた。

「クククッ…… 自分がなにをしたか、わかっているのか? 貴様らはキンダーマン探偵社を敵に回したんだ」

 そう。それだけは、たしかに正しかった。

 合衆国陸軍の州兵を上回る数の捜査員を有する、キンダーマン探偵社。

 合衆国司法省からの下請けで犯罪捜査を務める、キンダーマン探偵社。

 そんな強大な組織を敵に回したのは、事実であった。

「たとえ、どこへ逃げようと、どこに隠れようと、無駄なことだ。キンダーマンは、貴様らを地の果てまで追いかけ、必ず見つけ出すだろう。その時になって後悔しても遅――」

 みなまで言うこと叶わず、周囲に群がったゾンビたちが、彼におおいかぶさる。

 いくつものゾンビの手が、彼の腹に、爪を立てた。

 腹筋も腹腔ふくくうも簡単に引き裂かれ、中から臓物が引っ張り出される。

 さすがのジョーンズも、

「ぎゃああああああああ!」

 と悲鳴を上げたが、それはすぐに途切れた。

 他のゾンビによって、首をもぎ取られたのである。

 頭部、上半身、下半身と三分割されたジョーンズが、ゾンビたちに引きずられていく。

 そうして、まったき血の静けさが、ビリヤードルームに訪れた。

 役目を終えたゾンビたちは、バタバタと倒れていった。

 この場に生きて動く者は、ジョーとルイ=ジャンの二人だけとなった。




 執務室では、アイゼンバーグがデスクの前に座り、蒼白な顔から冷たい汗を流していた。

 始まりは、階下から聞こえてきた、いくつもの銃声だった。

 部下は、賊が侵入した、と言う。

 キンダーマン探偵社も、一階へ降りていった。

 あとは、銃声、銃声、銃声。

 まるで戦場だ。

 アイゼンバーグには、なにが起きているのか、まるで理解の外であった。

「い、一体、なにが起きている…… ここは、私の屋敷だ…… このトバイアス・アイゼンバーグの屋敷だぞ……」

 いつしか銃声が止むと、今度は不気味なうめき声が、いくつも聞こえてきた。

 鉱山で聞いた、頭がおかしくなりそうな、あの不快なうめき声。

 ふたたび鳴り響く銃声に、切り裂くような悲鳴が加わり、一階には恐怖の混声合唱が響き渡った。

 しかし、今はもう、銃声もうめき声も悲鳴も聞こえてこない。

 誰の声も、なんの音も。

 アイゼンバーグには、なにも、わからない。

「私は、鉄鋼王になる男だ…… このラ・ホヤに自分の町を作り、いずれはカリフォルニアを支配する男なんだ……」

 そこへ、コンコンコンコンと四度、ノックの音が。

「邪魔するぜ」

 入ってきたのは、小汚い身なりに無精髭の、拳銃使いガンスリンガーらしき初老の男。

 当たり前ではあるが、アイゼンバーグにしてみれば、まったく見覚えがない。

 椅子から立ち上がり、正体を問いただす。

「だ、誰だ!」

「ただの賞金稼ぎさ」

 そう、ブロンディ・ジョーである。

 右手に拳銃を下げ、ゆっくりとデスクのアイゼンバーグに近づいていく。

「賞金稼ぎ、だと……? 一体、なんのために? この私になんの用だ!」

「おめえ、首に賞金を懸けられてるぜ。一所懸命に働く労働者の命をもてあそび、中国娘を泣かせた罪でな。賞金は酒場の部屋代一週間分――」

 銃口をアイゼンバーグへ向け、撃鉄を起こす。

「――ちなみに“生死は問わずデッド・オア・アライブ”だ。観念しな」

「な、なにを訳のわからんことを……」

 アイゼンバーグのような人間には、己の犯した罪など、まったくもって理解も自覚もできないのであろう。

 ジョーの言う、半分ジョークのような罪状と賞金のせいでもあるが。

 彼は、理不尽な恐怖に声を震わせ、部屋の外へ呼ばわった。

「おい、誰かいないのか! 賊がいるんだ! 誰か来い!」

「無駄だぜ。屋敷ん中にいる奴は全員、始末した」

 その言葉を聞いた途端、アイゼンバーグは驚愕に息を詰まらせ、がっくりと首を垂れた。

 デスクの天板を見つめ、口の中で「役立たずどもが…… なんのために高い金を……」などとつぶやいているが、小声すぎてジョーには聞こえない。

 少しの間、そうしていたアイゼンバーグであったが、やがて、顔を上げ、

「い、いくらだ……」

「あぁん?」

「いくら欲しいんだ。金をやる。欲しい額を言え」

 そう早口で言いつつ、おもむろにデスクの引き出しを開け、手を突っ込む。

 ジョーは、銃口を向けたまま、手首を使って銃身を上下に動かした。

「おい、動くんじゃねえよ」

「か、金だ。ほら」

 ゆっくりと上げられた両手には、50ドル札の束が握られている。

 ひと束5,000ドルはあろうかという札束が、次々とデスクの上に積まれていく。

 その日暮らしの賞金稼ぎにとって、目の覚めるような大金であることは間違いない。

 札束の山を積み上げ、アイゼンバーグが笑った。

「金ならあるんだ。一生かかってもおまえには稼げない額をくれてやるぞ」

「……救いようのねえアホだな」

 ジョーは、眉を吊り上げ、口を歪める。

 その顔を見つめながら、アイゼンバーグは、そっと引き出しの中を探っていた。

 中にあるのは、札束だけではない。

 彼の右手が、小口径の拳銃を一丁、探し当てた。

 側近イーライを撃ち殺した、あの拳銃だ。

「そ、それとも、債券さいけんか? 土地か? 鉱山をひとつ、丸ごとやってもいいぞ!」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アイゼンバーグは拳銃を握り締め、ジョーへ向けた。

 ただし、引金を引くどころか、狙いを定める暇もなく、拳銃を握る彼の中指と薬指が、銃声と共に弾け飛んだ。

「うああっ! 手がっ、私の手があ!」

「てめえ、俺を舐めてんのか?」

 アイゼンバーグへ向けた銃口から、硝煙しょうえんがたなびいている。

 素人の抜き撃ち、騙し討ちなど、老練の拳銃使いであるジョーには、止まって見える。

 まったく馬鹿な選択をしたものだ。

 そして、情けない悲鳴がこだまする執務室に入ってきた者が、もう一人。

 屍人使いルイ=ジャンである。

 ジョーは、拳銃の狙いをアイゼンバーグにつけたまま、横に並んだ彼へ声をかけた。

「よう。掃除は終わったか」

「ああ」

 右手を押さえて床にひざまずくアイゼンバーグは、すぐにルイ=ジャンを見上げ、

「ああ、ミスター・モロー! 私は君と君の家族にひどいことをしてしまった! どうか埋め合わせをさせてくれ! 金ならいくらでも払う! 話し合おう!」

 聞くにえない、耳障りな世迷言よまいごと

 ルイ=ジャンは、耳をふさぐ代わりに目を閉じ、あの呪文を唱え始める。

 それになんの意味があるのか。アイゼンバーグは、震え上がった。

「どうだ、私のもとで働かないか! 君ほどの教養と能力のある人物なら――」

 ふと、部屋の端から、うめき声が聞こえてきた。

 声のするほうへ、震えながら顔を向けるアイゼンバーグ。

 その目に映ったものは、

「イ、イーライ……?」

 アイゼンバーグが無慈悲に撃ち殺したはずの側近、イーライ・ホフマン。

 その彼が、無表情な青白い顔で、低いうめき声を上げながら、アイゼンバーグに襲いかかった。

 ルイ=ジャンは、カッと目を開け、憎しみに満ちた眼光を、アイゼンバーグへ向ける。

「おまえにふさわしい最期を遂げさせてやる……」

「よせ! やめろ! イーライ、頼む! やめてくれ!」

 イーライのゾンビは、両手で左右から挟むようにして、アイゼンバーグの頭をつかんだ。

 そのまま、生者の限界を超えた怪力をもって、万力のようにギリギリと頭部を圧搾あっさくする。

 すぐに、彼の目や耳、鼻など、頭部のあらゆる穴から血が流れ、全身が震え出した。

 白目をむき、うなるような悲鳴をもらすアイゼンバーグ。

「あぐぐぐぐぐぐぐぐ……!」

 やがて、ぐしゃりという音を立てて、アイゼンバーグの頭部は縦に潰れ、割れた脳天から血と脳漿のうしょうが噴水のように噴き出した。

 床に潰れた脳髄のうずいを撒き散らし、アイゼンバーグだったものが倒れる。

 その上に折り重なるように、イーライのゾンビが倒れた。魔術のとりこから解放されたのだ。

 ジョーが、ルイ=ジャンの肩に、手を置く。

「終わったな」

「ああ…… また、こうして、罪を重ねた……」

 ため息をつき、唇を嚙むルイ=ジャン。

 心を覆い尽くすのは、復讐を遂げた喜びではない。

 安らかに眠るはずの者を起こし、人殺しを重ねた罪の意識、自責の念。そのようなものだ。

 ジョーにも、その気持ちは、わからなくもなかった。


 その時――


 にわかに床が、部屋全体が、グラグラと大きく揺れ始めた。

 燭台が倒れ、本棚から本が落ちる。

 壁からは絵画が外れ、振り子のように揺れている。

 だが、カリフォルニアでは、さして珍しくもない現象だ。

 ルイ=ジャンは、デスクに手を置き、身を支えて、

「じ、地震か……! なにもこんな時に……」

「いや、これぁ……」

 ジョーの顔がくもる。

 すると、いかなることか。

 二人の目の前に広がる世界が、急激に色を失い始めたのだ。

 まるで写真のような、黒と白と灰色の世界へと塗り替えられていく。

 ルイ=ジャンは、すぐに目の不調を疑った。

 だが、両手で目をこすっても、まばたきを繰り返しても、色彩は取り戻せない。

 目ではなく、脳の異常か。魔術の影響か。

「ジョー! この色覚異常は君にも起きているか!?」

 聞こえていないはずはないのだが、ジョーは答えずに、周囲を見回している。

「やっぱりかよ。奴が直々に現れるってこたあ、アイゼンバーグの野郎、よほどの悪党だったようだな……」

 この口ぶりからして、彼はなにかを知っている。この怪現象の正体を知っている。

「ルイ=ジャン! 俺の後ろに隠れろ! 来るぞ!」

 来る。なにが来るのか。

 その答えは、さらなる怪現象で、示された。

 目の前・・・に大きなひびが入った。

 壁や窓にではない。自分たちが見ている光景に、ひびが入ったのだ。

 ひびはその数を増やし、視界の隅々すみずみまで走っていく。


 そして、ガラスが割れるように、世界が割れて、砕けて、散った。


 割れた世界の向こう。

 その向こうには、まったく違う世界が広がっていた。

 草も木もない、赤茶けた不毛な大地。

 それどころか、いたるところで業火が燃え盛っている。天を突くような、巨大な業火が。

 そこでは、炎に包まれた人々が、苦痛に顔を歪め、もだえ苦しんでいた。

 顔を焼かんばかりの熱風が吹きすさび、硫黄の臭いが鼻腔びくうを刺激する。

「あれは……?」と、ルイ=ジャンが目をこらした。

 炎の中に、なにかが見えた。

 こちらへ近づいてくるようだ。

 あれは。

 あれは、馬だ。

 馬に乗った何者かが近づいてくる。

 馬影が大きくなるにつれ、騎乗する者の姿もおぼろげながら、見えてきた。

 ルイ=ジャンが、驚愕の声を漏らす。

「な、なんなんだ、あれは……」

 馬に乗っていたのは、人間ではなかった。

 言うなれば、骸骨がいこつのカウボーイ。

 ハット、ネッカチーフ、シャツ、ジャケット、ブーツ。

 身にまとうものはカウボーイのそれだが、手綱を握る手も、帽子の下にある顔も、白い骸骨であった。

 またがっている馬は、青白い毛色をしており、鼻からは火を噴いている。

 馬もまた、尋常の馬ではない。

 二人の目の前まで近づくと、骸骨のカウボーイは、手綱を引いた。

 馬がいななき、脚を止める。

 ジョーは、カウボーイをにらみつけたまま、

デス……」

 とだけ、短くつぶやいた。

 それがあれの名前なのだろうか。

 ルイ=ジャンが、恐々こわごわと尋ねた。

「ど、どうするんだ…… あの化物とも戦うのか……?」

「いや、戦う必要はねえ。奴はただ、迎えに来た・・・・・だけだ――」

 ジョーは拳銃を、ホルスターに収める。

「――それに、奴は化物のたぐいとはモノが違う。奴はことわりだ。俺ら人間のかなう相手じゃあねえよ」

 ジョーは数歩、足を進め、

「よう、デス。ひさしぶりだな」

 死は、なにも答えず、今では床ではなく地面に転がる、アイゼンバーグの死体に顔を向けた。

 そして、かたわらから、先端がループ状になった荒縄を取り出す。

 カウボーイが牛を捕えるための投げ縄ラリアットだ。

 死の握る縄は、彼の頭上で数度大きく回されると、頭の潰れた死体へ向けて、投げ放たれた。

 不思議なことに、水面に投じられた釣り針のごとく、投げ縄は死体を通り抜け、その中へと入っていった。

 かと思うと、すぐに、無事な姿のアイゼンバーグが、首に縄をかけられ、死体から引っ張り出された。

 だが、生前のまま、という訳ではないようだ。

 その身体は半透明で、ほのかに青白く発光している。

 驚いても驚き足りないルイ=ジャンが、ジョーに尋ねた。

「あ、あれは……?」

「霊とか魂とか、まあ、そんなもんだ」

「彼は、どうなるんだ……?」

「連れていかれるのさ。地獄にな」

 霊体と化したアイゼンバーグは、自分の置かれた状況を飲み込めないらしく、縄に首をくくられたまま、周囲を見回している。

「な、なんだ。これはどうなっている…… 私は……」

 それに構わず、死が手荒く縄を引き寄せた。

「うわあっ!」と悲鳴を上げて引っ張られていくアイゼンバーグ。

 死は、そのまま顔と顔が触れ合わんばかりの距離までアイゼンバーグを手繰たぐり寄せ、彼をジッと見つめる。

 眼球のない、底が見えないほど深く暗い井戸のような、どす黒い眼窩がんかで。

 さらには、カチカチと鳴らされる歯の奥から、まるで地の底より響くような恐ろしい声が発せられた。

地獄ゲヘナガ待ッテイルゾ。トバイアス・アイゼンバーグ」

「ひっ、ひいいいいっ!」

 恐怖に打ち震えるアイゼンバーグが、地面に投げ出された。

 青白い馬は、ゆっくりと歩みを進める。

「誰かっ! 誰か助けてくれえ! 地獄になんか行きたくない!」

 助けを求め、哀願するが、なすすべもなく引きずられていく。

 その時、ルイ=ジャンが声を上げた。

「待て! 死よ!」

 彼は、死のもとへ駆け寄り、

「私も…… 私も連れていってくれ」

 手綱が引かれ、馬が止まると、死は彼のほうへ振り向いた。

 怪訝けげんな顔のジョーをよそに、ルイ=ジャンは、地面に両の膝を突いて、

「私は、数え切れない罪を犯した。私は、罪人つみびとだ……」

 がっくりと、うなだれた。

 彼の罪。ルイ=ジャン・モローの罪。

 禁忌の秘術を、この世によみがえらせた。

 安らかに眠るべき死者を起こし、もてあそんだ。

 善人も悪人も、多くの者を殺した。

 幸せに暮らす家族を、死をもって引き裂いた。

 罪人は裁かれなければならない。罪をあがなわなくてはならない。

 今まさに、地獄へ送られようとしている、真の亡者となった金の亡者のように。

 しかし、死は、しばらくルイ=ジャンを見つめたのち、

「今日ノトコロハオノレノ道ヲ歩クノダナ。人間ヨ」

 それだけを言って、馬の腹を蹴った。

 青白い馬が、目から電光をほとばしらせ、鼻から火を噴きながら、声高くいななく。

 死の「イピアイエェエエエエ!」という恐ろしい叫びを合図に、馬が駆け出した。

 泣き叫ぶ罪人を荒縄で引きずりながら、地獄の奥へと走り去っていく。

 ルイ=ジャンは、呆然と、見送るしかなかった。

 死を乗せた馬の影が、小さくなっていく。


 すると、またもや世界に変化が起こった。


 割れて、砕けて、散ったはずの世界のかけらが、元に戻っていく。

 かけらが次々とつなぎ合わされ、目の前には色彩を失った執務室が、ふたたび現れた。

 その色彩すら急速に取り戻され、二人はあるべき世界に帰ってきた。

 赤茶けた大地に炎が燃え上がる地獄は、もうない。

 札束が山と積まれたデスク。死体が転がる絨毯。静寂に支配された執務室。

 すべては元通りである。

 そんな中で、いまだ立ち尽くすルイ=ジャンに、ジョーが声をかけた。

「あいつが連れていくのは、命を落とした罪人の魂だけだ。おめえは罪人だが、まだ死んじゃいない。俺と同じさ」

「だが…… だが、私は――」

 に落ちない彼の耳に、聞き慣れた、聞きたくてやまなかった、ある声が飛び込んだ。


「パパ!」


 ルイ=ジャンが振り向くと、そこには一人の黒人の少女が、泣き濡れた顔で立っていた。

「ソフィー!」

 弾かれたように、少女が駆け寄る。

 彼は、胸に飛び込んできた娘を、しっかと抱きとめた。

「ソフィー、パパを許してくれ……」

 腕に包まれた娘と共に、涙をこぼすルイ=ジャン。

 気づけば、ソルと、その横に並ぶ、妻の姿があった。

 ソルが宣言通りに、娘も妻も、助け出してくれたのだ。

 ルイ=ジャンは、妻も引き寄せ、

「エレーヌ……」

「あなた……」

 妻子を固く抱き締めた。

 その光景を眺めつつ、ジョーとソルが並び立つ。

「おめえがいない間、こっちゃあ大変だったんだぜ。デスの野郎が現れやがってよ」

「俺がいなくてよかったじゃないか。奴を無駄に怒らせることもあるまい」

「へへっ、あの野郎、どうしたっておめえを連れていきてえようだしな」

 おかしげに笑うジョーのもとへ、モロー親子がやって来た。

 ルイ=ジャンは、両手に妻子を抱き、

「ジョー、ソル。本当にありがとう。感謝の言葉が見つからない。君たちのおかげで家族を取り戻せた」

 それから、少し視線を落として、口を真一文字に結び、

「私は、一生を懸けて、犯した罪を贖い続ける。彼の迎えが来るまで」

 一方、ジョーの視線は、ルイ=ジャンではなく、彼の娘ソフィーのほうにあった。

 メイホアだけではない。

 ここにも救うことのできた幼子が、いた。

 すべての事情が分からぬソフィーは、無言でこちらを見つめる白人が怖かったのか、そっと父の後ろに隠れてしまった。

 その仕草に、ジョーはフフッと笑い、視線をルイ=ジャンへ戻す。

「ああ、もしメキシコに逃げるんなら、タスコっていう山間やまあいの田舎町を目指しな。銀細工職人のアレハンドロって奴に『ジョゼフ・マッケナのダチだ』と言えば、なにかと世話を焼いてくれるはずだ」

 彼の厚意に、またも目頭が熱くなったルイ=ジャンは、

「なにからなにまで、すまない。ありがとう」

 帽子を取り、それを胸に当てて、頭を下げる。

 感謝と敬意を込めて。

 ジョーは、片手を上げ、

「あばよ」

 とだけ言い、きびすを返した。

 ソルも、それに続く。

 二人とも、振り向くことはしない。


 長い廊下を歩いていると、いつの間にか、ソルが笑っていた。

 いつもの冷笑や余裕の笑いとは違い、歯を見せて、さもおかしそうに。

 少年臭さを残す風貌によく似合う、無邪気な笑顔だ。

「なんだよ。なにがおかしいってんだ」

 いぶかしむジョーに、ソルはこう答えた。


いくつになっても甘い奴だな。おまえはエレス・ウン・ブランディート・ノ・インポルタ・クアントス・アニョス・テンガス


うるせえってんだカジャテ・ラ・チンガダ




 ラ・ホヤの戦いから二日ほど経った、朝――


 国境近くの田舎町ロス・ロボス。

 商売人たちが店の準備を進め、農夫の馬が野菜や果物を積んだ荷車をいている。

 町の人々は朝の挨拶を交わし、教会では老司祭ドナルド・ギャラガーが聖堂を隅々までき清めていた。

 そして、酒場“狼たちの午後タルデ・デ・ロス・ロボス”。

 店の名が示す通り、フロアにはおおかみの姿はなく、至極しごく閑散かんさんとしていた。

 女主人エスメラルダが、軽食を仕込みつつ、グラスを整えているだけ。

 カウンターも、テーブルも、オルガンも、ひっそりと寂しそうに、あの喧噪けんそうを待っている。

 さらに、二階に目を向ければ、粗末な宿泊部屋が六つほど。

 そのひとつのドアが、蝶番ちょうつがいのきしむ音を立てて、ゆっくりと開いた。

 出てきたのは、シャツ一枚をだらしなく羽織っただけの狼、ブロンディ・ジョー。

 顔は青白く、目の下にはクマが浮かんでいる。なんとも、ひどい顔だ。

 彼は、めでたく向こう一週間はタダとなった部屋のドアを閉め、壁に手をつきながらふらふらと廊下を歩き、転げ落ちないよう慎重に階段を下りていく。

 一段下りるたびに、裸の胸元で、銀のペンダントが揺れる。

 そこには、目を閉じて手を合わせる聖母マリアが彫られ、「グアダルーペの我らが貴婦人ヌエストラ・セニョーラ・デ・グアダルーペ」という文字が刻まれていた。

 頭を抱えて、ゾンビのようなうめき声を上げるジョー。

「ああ、クソ…… また飲みすぎちまった……」

 ロス・ロボスに帰り着いたのは、きのう遅く。

 念には念を入れて、ソルとは二手に分かれ、少しの時をやり過ごしてから、町に戻ってきた。

 それから、まだ残っていた客たちと祝杯を挙げ、エスメラルダやギャラガー神父は呆れ笑いで――

 憶えているのは、そこまでだ。

 気づけば、部屋のベッドの横で、干からびたサソリのように転がっていた。

 飲みすぎるのは珍しくないのだが、翌朝は頭痛と身体の重さで、いつも死にたくなる。

 ジョーは、倒れ込むようにテーブルに着くと、かすれ気味の大声を張りあげた。

「おおい、エスメラルダ! ウイスキーだ! 迎え酒をやらなきゃあ頭痛が取れねえ!」

 そうわめくと、そのまま上体を前に倒し、テーブルに突っ伏してしまった。

 全身がだるく、座っていることもままならない。

 そんな不甲斐ないジョーの耳元で、ささやく声がひとつ。

おはようブエノス・ディアス。ジョー」

 エスメラルダの声ではなかった。

 大人の女とは程遠い、幼い声。

「あん……?」

 大儀そうに顔を上げるジョー。

 そこには、にこやかに笑う、姬美華ジーメイホアが立っていた。

 ただし、彼がよく見知った、ボロボロの小汚い身なりではない。

 メキシコの民族衣装に似た、ワンピースを身にまとっていたのだ。

 純白の布地に、たくさんの花柄が刺繍ししゅうされている。

 ジョーは、メイホアから、目が離せなかった。

 二日酔いによどんだ瞳には、メイホアではない誰かに見えたからだ。

 それは、褐色の肌に青い目の、あの子――

ルピータLupita……?」

 思わず口を衝いて出た、言葉。

 メイホアは、目をぱちくりさせて、不思議そうにしている。

 自分のことを一目見るなり、目をむいて、意味のわからないスペイン語をつぶやかれたのだから、無理もないだろう。

 すぐにジョーは、首を横に振り、

「あ、いや、メ、メイホア。なんでえ、その恰好は」

「メイホア、働く。ここで。」

「働くだあ?」

 そこへ、エスメラルダもやって来た。

「似合うだろう? アタシが小さい頃に着てた服さ」

 そう言って、メイホアの横に並ぶと、彼女の頭に手を置き、

「この子はアタシが引き取ることにしたよ。これもなにかの縁だからね」

「へっ、人のいこった」

「あんたに言われたかあないね」

 エスメラルダは笑い、メイホアの肩を抱く。

さあアンダレ、メイホア。朝食デサユノの準備だよ。ウイスキーなんかより、ずっといいものがあるしね」

うん!」

 まるで母娘のような二人が、店の奥へと戻っていく。

 それにしても、子供はさすがに適応が早い。

 もういくつかのスペイン語を憶え、会話に組み込んでいる。

 不安を覚えるジョーは、エスメラルダの背中へ、

「あ、おい。あんまりスペイン語を教えるんじゃねえぞ。下手なことを言えなくなっちまう」

 などと、弱気に言うのであった。


 少し経ち、メイホアが皿やコップの乗ったトレーを手に、ふたたびやって来た。

 しかし、ジョーはコップの中身を見るなり、眉をひそめてしまった。

 茶色が混じる透明な液体。

 口に含んでも、なんの味もしない。

 水だ。

 水以外のなにものでもない。

「なんでえ、これぁ。水じゃねえか。ウイスキーを持ってこいよ」

「お酒、飲みすぎ、ダメ。朝、お酒、ダメ」

 口をとがらせるメイホアが、ジョーの前に出したのは、赤みがかった茶色のスープだった。

「へえ、メヌードか。二日酔いの朝にゃあ、ぴったりだな」

 メヌードとは、メキシコの伝統的な料理で、牛の胃袋、ひよこ豆、唐辛子などを煮込んだスープである。

 また、ジョーの言う通り、二日酔いの朝に飲まれることも多い。

「メイホア、作った。エスメラルダ、教えてくれた」

 少しはしゃぎ気味で、少し自慢げな、メイホア。

 ジョーはさっそく、ひとさじすすり、

「おお、うめえな。よくできてらあ」

「おいしい!? メイホア、上手!?」

「ああ、上手だ」

「やったー!」

 褒められたのがよほど嬉しいのか、メイホアはぴょんぴょんと飛び跳ねて、喜んでいる。

 そんな彼女を微笑ほほえましく眺めていたジョーであったが、ふと、己のスプーンに視線を落とし、

「昔はよく作ってもらったもんだ……」

 少し寂しげに笑った。

 その表情は、彼の複雑な心境を、否応なくメイホアに読み取らせる。

 喜ぶのをやめ、笑顔を引っ込めて、ジョーに話しかけた。

「ジョー、教えて」

 スプーンを動かす手が止まり、視線がメイホアに向けられる。

「なにをだ」

「ジョー、メイホアを助けてくれた。お金、ない。すごく、危ない。ジョーとメイホア、知らない人。どうして、助ける?」

「言ったろ。一週間分の部屋代目当てだ」

「でも……」

 納得がいっていないのは、ジョーも理解できる。

 たったそれだけの理由で、縁もゆかりもない者のために命懸けの仕事をするなど、子供心にもあり得ない行動だとわかるだろう。

 なにか特別な理由や思いがない限りは。

 英語も大人の思惑もわからないメイホアではあったが、疑問を抱くことは、当然できるはずだ。

 メイホアの疑問に、答えてやらなければいけないのか。

 すると、思いがけず、心の中で、とある声が響いた。


『パパ、もし、大切な人ができたらシ・エンクエントラス・ア・アルギエン・インポルタンテずっと一緒にいてあげてケダテ・コン・エジャ・シエンプレ私の分もポル・ミ・タンビエン


 その声に押され、ジョーが口を開いた。今度は目をそらさずに。彼女の目を、見つめて。

「昔…… ある女の子を救えずに、死なせたことがある。俺ぁもう、ガキを救えねえのはたくさんなんだ」

 そして、こうも言った。正直な心で。

「おまえとここにいられて、よかった……」

 メイホアは、コップを握る彼の手に、己の小さい手を重ね、笑った。

 初めて出会った、あの時のように。

「……謝謝シィエシィエありがとうグラシアス。ジョー」

 しばしの間、笑い合っていた二人であったが、やがて、メイホアは照れ臭そうに手を離し、キッチンのほうへ足早に向かっていった。

 だが、なにかを思い出したかのように、「あっ」とひと声上げて、彼女が立ち止まった。

 くるりとジョーのほうへ向き直り、

「もうひとつ、教えて」

今度こんだぁなんだ」

「ジョー、頭ツルツル。髪の毛、ない。どうして、金髪ブロンディ?」

 これにはエスメラルダも、カウンターの向こうで大爆笑だ。

 カウンターをバンバンと叩き、笑い転げている。

 そのうちに、息を切らし、涙を拭きながら、エスメラルダが言った。

「ジョーにも若い頃があったんだよ、メイホア。そいつの若い頃はね、赤毛ジンジャーのアイルランド人にしちゃあ珍しい、それはそれは見事な金髪だったのさ。今は見る影もないけどね」

「そうなんだ!」

 無邪気に感心することしきりのメイホア。

 他方、ジョゼフ・“ブロンディ・ジョー”・マッケナは、苦りに苦り切った顔で、スープをすすっていた。


 やがて、新聞を片手のソルが、スイングドアを鳴らして、店に入ってきた。

 ジョーと「よう」「おう」と短く挨拶を交わし、彼の隣にどさりと腰を下ろして、新聞に目を通す。

 その一面には、


『トバイアス・アイゼンバーグ氏、惨殺さる!』


『行方をくらませた従業員たちによる凶行か!?』


『ジョン・スミス主任上級捜査員はキンダーマン探偵社の関与を否定』


 などと、センセーショナルな見出しが飾られている。

 だが、そんな記事にはまるで興味がないらしく、すぐに新聞をひっくり返し、『バス釣りテクニック』などという釣りのコラムを、熱心に読み始めた。

 すぐに、ソルのもとにも、朝食が運ばれる。

 もちろんメイホアの手で。ソルは目もくれないが。

 彼女は、テーブルに皿を置きつつ、あらためて礼を言った。

「ソル。メイホア、助けてくれて、ありがとう。これ、メイホア、作った。食べて」

 ワンピース姿のメイホアに気づくと、ソルはやや驚いた様子で、ジッと見つめた。

 彼の目がこれだけ長くメイホアに向けられているのは、初めてのことであろう。

 なんとも珍しい彼の挙動に、メイホアは少し慌てている。

「ん?」

「いや、別に。いただく」

 不愛想にそう言い、スープを口に運ぶ。

 うまい。言葉にはしなかったが、そう思った。

 こんな味を、ずっと前にも食べたような、そんな気がした。

 横では、感想を待っているのか、メイホアが盆を胸に抱え、落ち着かない表情を浮かべている。

 ソルは、彼女と目を合わせず、短く鼻でため息をつくと、

リカルドRicardoバスケスV á zquez

 低い声で、そう言った。

 メイホアは、首をかしげる。

 知らない言葉だ、まだまだスペイン語は難しい、とでも思っているのか。

 首を右に左にかしげたのち、

「それ、『おいしい』の意味?」

 と尋ねる彼女に、ソルは、

「ジジイのおりが仕事の、メキシコ人の名だ」

 ほんの少し笑って、そう言い、あとは黙してスープを口に運ぶだけ。


 メイホアは、嬉しそうに笑った。




                               ――第一話 了




                        此度こたびの報酬、一週間分の部屋代

                             引くことの7,000ドル

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