第一話『鉱山は眠らない』 EPISODE ONE: “The Mine Never Sleeps” (9)
ジョーが引金を引き、スミス&ウェッソン.44口径の銃口が、火を噴いた。
間を置かず、左手で三度
無駄撃ちはなし。四人の敵が、どさりと倒れ伏した。
アイゼンバーグ邸、一階。
長い廊下。片方には大きめの窓、もう片方には各部屋へのドアが、延々と続いている。
ここがジョーとソルの主戦場だ。
屋敷の見取り図を目にした時から、ジョーはこの場所でいかに戦うかを考えていたのだ。
四つの死体の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。
アイゼンバーグの部下が、五人ほどやってくるのが見える。
ジョーは、すぐに手近なドアを開け、部屋の中へ身をひるがえした。
駆けつけた連中は、口惜しげに騒ぎ立てる。
「クソッ! 四人も殺られてるじゃないか!」
「そこに入ったのが見えたぞ!」
すると、五人の背後で、音もなくドアが開き、二丁を構えたジョーが姿を現した。
神出鬼没、という訳ではない。
ひとつひとつの部屋に、必ずいくつかのドアがある。
両隣の部屋へつながるドア。廊下に出るドア。
それらを駆使し、彼らの背後を取ったのである。
両の親指で撃鉄を起こすジョー。
そのカチリという音に、敵の一人が振り向いた。
目と目が合う。ジョーはニコリと笑い、ご挨拶。
「
銃声。一人が倒れる。
「
左右の銃口から、交互に弾丸が飛び出す。
人差し指が引金を引き、親指が撃鉄を起こす。
反撃の
やがて、五人が斃れ、血と硝煙にまみれた廊下は、死の
しかし、またも足音。
今度は、先ほどとは反対の方向だ。
ジョーは、ふたたびドアを開け、部屋の中へ身を滑り込ませた。
やって来たのは二人。
揃いの帽子とコート。キンダーマンだ。
ただし、ジョーンズが率いる子飼いの捜査員ではなく、アイゼンバーグの部下と共に一階の警備を命じられていた、ジョーが言うところの“
二人は、眼前に広がる
文字通り、血の河、死体の山だ。
「なっ、なんだ、こりゃあ…… みんな
「おい、いったん
「そのほうがいいな。ここにいたら俺らも殺されちまう」
後ずさりを始める二人。
その時、彼らの真横で勢いよくドアが開き、一人を吹っ飛ばした。
「うわあ!」
ドアの向こうにいたのは、両の手にナイフを握るソル。
彼がドアを蹴り開けたのだ。
直撃を免れた敵が、慌てて拳銃を構えるも、ソルは瞬時に彼の手首、喉を斬り裂き、とどめに心臓へナイフを突き立てた。
廊下に倒れたもう一人が、取り落とした銃に手を伸ばしたが、つかむ間もなく、ソルの投じたナイフに胸を貫かれた。
すべては一瞬の出来事。
ソルは、ジャケットの内側からさらにナイフを抜き、ジョーのもとへと歩き出した。
ソルが油断なくドアを開けた先は、
ここはパーティーの前後に、
天井にはクリスタルのシャンデリア、壁には誰が描いたかよくわからない風景画、床にはペルシャ
ヴィクトリアン様式のソファやアームチェアは、どれも豪華な装飾が施され、布地は深紅のベルベットで統一されている。
隣室はパーティーが開かれるボールルームとなっており、反対側のドアはビリヤードルームに続いていた。
ビリヤードルームはバーも兼ねている。こちらは、主人とより親密な客が、酒を飲んだり、遊戯に興じたりする、やや個人的な空間である。
そして、予定通り、応接室にはジョーとルイ=ジャンがいた。
計画を次の段階へ進める際の、集合地点に決めていたのだ。
ジョーは、のんきに葉巻を
ずいぶんと高級そうな葉巻だが、彼にそんな趣味はないので、おおかたアイゼンバーグのものを失敬したのだろう。
その隣では、ルイ=ジャンが不安の色を隠せないまま、落ち着きなく同じ場所を歩き回っている。
ジョーは、近づくソルに目を向けると、
「一階はこれで片付いたな」
「ああ。だが、すぐにキンダーマンの本隊が来るぞ」
「へっ、それこそ作戦通りよ」
そんなジョーの
「おまえの戦術は当てにならん」
「だが、うまくいかなかったことはねえだろ?」
そう言って、ニヤリと笑うジョー。
ソルもまた、フッと笑ったが、すぐに真剣な表情に戻る。
「俺はルイ=ジャンの妻と娘を助けに行く。二階で合流しよう」
「わかった。おそらく地下の小部屋に閉じ込められてる。気をつけろよ」
「おまえも」
部屋から出ていくソルを見送ることなく、ジョーはルイ=ジャンのほうへと振り返る。
「ルイ=ジャン、おめえは俺といろ。せいぜい役に立ってもらうぜ」
「しょ、承知した……」
「ほれ、こいつを使いな」
弾を込め直したスミス&ウェッソンを一丁、手の中でくるりと回し、グリップを彼へ向ける。
受け取ったルイ=ジャンは、
「つ、使えと言われても……」
と、少々持て余し気味だ。
刹那――
ジョーの
ドアがゆっくりと開く、ほんの小さな音。
目の端に映った、ソルの服とは異なる色合い。
次の瞬間には、廊下へ続くドアへ、六発すべての銃弾をファニングで叩き込んでいた。
「隠れろ!」とジョーが叫び、二人はソファの後ろに身を隠す。
二、三人は
が、焼け石に水だ。
その証拠に、二人が隠れるソファに向けて、雨あられと銃弾が撃ち込まれる。
ジョーも撃ち返しはするのだが、敵の銃撃をわずかに途切れさせるにすぎない。
ルイ=ジャンはといえば、拳銃を握り締めたまま、身を小さく縮めているだけ。
苛立つジョーが、怒鳴り散らす。
「なにしてやがる! おめえも撃ち返せ!」
「使い方がわからないんだ!」
「なにい!? 大の男が銃の使い方も知らねえのかよ!」
「銃なんて持ったことも、持とうと思ったこともない!」
「そいつぁご立派なこった!」
ジョーは、思考する。
さあて、ここからだ。
右には、ボールルームへ続くドア。
左には、ビリヤードルームへ続くドア。
ソファから顔を覗かせると、くわえている葉巻の先端が銃弾で吹き飛ばされ、火が消えた。
見えたのは、廊下へ続くドアの辺りに展開している、十数人のキンダーマン。
いまだ、作戦通り。
ジョーは、左手のドアを指し、
「俺が援護するから、あのドアに向かって走れ!」
そう怒鳴ると同時に、ソファから飛び出し、またもファニング。
キンダーマンが一人、二人と倒れ、射撃の波が途切れた。
ジョーが叫ぶ。
「行け! 早く!」
その声に押されたルイ=ジャンが、腰の引けた様子で、隣のビリヤードルームへ走る。
ジョーも少し遅れて、あとを追った。
銃弾に追い立てられるように、ビリヤードルームへ飛び込む二人。
「止まるな! 走れ!」
ソファ。コーヒーテーブル。ビリヤード台。
さらに、その奥、真正面には、バーカウンター。壁一面の棚に、高級そうな酒瓶が陳列してある。
「カウンターの向こうに隠れろ!」
疾走する勢いのまま、二人はバーカウンターを乗り越え、身を隠す。
ようやく一息である。
ジョーは、すぐに銃弾を装填。
一方のルイ=ジャンは、仰向けに転がり、ぜいぜいと息を切らせ、
「ここから、どうするんだ……」
「連中をだいぶ死体に変えてやった。こっからあとも作戦通りにやるだけよ―― おっ?」
弾む声と共に、目を輝かせて、陳列棚の酒瓶を手に取るジョー。
瓶のラベルには“Hennessy V.S.O.P.”とある。
「おい、見ろよ。上物のコニャックだぜ。野郎、いい酒飲んでやがる」
ジョーは、たまらずコルク栓を抜くと、喉を鳴らしてラッパ飲みを始めた。
持ち主のアイゼンバーグがこれを見たら、発狂するやもしれぬ下品な鯨飲である。
「かぁあああ! たまんねえな、おい!」
至福の喜びに嬌声を上げるジョーと、もはや声もなく呆れ返るルイ=ジャン。
しかし、幸せな時間は長く続かない。
バーカウンターに何発もの銃弾が撃ち込まれ、そのたびに木片が飛び散る。
キンダーマンが追いかけてきたのだ。
数人が、断続的に銃弾を撃ち込みつつ、前進していく。
その後ろから現れたのは、上級捜査員ジョーンズ。
「追いつめたぞ」
前衛が休みなくカウンターへ射撃を続ける中、ジョーンズが残る捜査員に命じた。
「テーブルとビリヤード台を倒せ。ソファもだ」
部屋に置かれた調度品の類は、すべてひっくり返され、捜査員は皆、その後ろに隠れる。
遮蔽物が構築され、部隊は戦闘配置に着いた。
つまり、敵は全員、この部屋に集まった、ということだ。
ジョーは、ルイ=ジャンにウィンクし、「やれ」とひと言。
そして、ボロボロのカウンターに開いた裂け目から様子をうかがうと、息をひとつ吸い、
「ヒューッ、まったく精が出るこった。だけどよお、屋敷ん中をこんなめちゃくちゃにしちまったら、雇い主に大目玉喰らうんじゃねえのか?」
などと、おどけた調子で、カウンターの向こうに問いかけた。
無論、そんなものに付き合うつもりなど、ジョーンズにはない。
「くだらんおしゃべりはよすんだな。もう逃げ場はないぞ。貴様らは終わりだ」
それでもなお、ジョーは軽口をやめない。
「よう、ウィリアム・ジョーンズ上級捜査員。お元気?」
「なぜ、貴様のようなチンピラが、私の名を知っている」
「悪いが徹底的に調べさせてもらったぜ。イーライ・ホフマン、ベンジャミン・ワイズ、サミュエル・ブロック、ジェイコブ・フィッシャー、
屋敷の中にいる、いや、いた者たちの名が並べ立てられていくうちに、ジョーの声の調子が変わっていった。
まるで、勝負は決したかのような、勝ち誇るような声に。
「――この屋敷にいる、アイゼンバーグやおめえの部下の
名前。
ジョーンズは、心のどこかに、引っかかりを覚えた。
「名前……」
その時であった。
ビリヤードルームの外から、なにかが聞こえてきた。
音、ではない。
これは、声。
うなり声だ。
低く不気味なうなり声が聞こえてくる。そこかしこから。
ジョーンズの部下たちも、この正体不明の声に、ざわつき始めている。
「な、なんだ……?」
「動物……? いや、まさかな……」
今では、声はどんどん数を増し、この部屋を取り囲むがごとく、四方八方から聞こえてくる。
どんどん近づいてくる。
いわんやジョーンズには、この声に聞き覚えがあった。
「ま、まさか……」
それと、もうひとつ、決定的な記憶。
バーカウンターの向こうにいる、追いつめられたハイチ人が発した言葉。
『名前がわからない死体も多すぎる。死体を起こすには、フルネームがわからなければいけない。身元のしっかりした死体を寄こしてほしい』
死体を起こす――
フルネーム――
まるで、ジョーンズの心を読んだかのようなタイミングで、
「言ったろ? 名前は知ってる、ってよ」
と、ジョーが笑う。
その隣には、目を閉じ、なにごとかをブツブツとつぶやいているルイ=ジャン。
ついには、うなり声の正体が、ビリヤードルームに侵入してきた。
アイゼンバーグの部下。キンダーマンの捜査員。どれも、よく見知った顔。
ただし、彼らは死んでいる。
ジョーンズの記憶と、目の前の光景が、完全に重なった。
「貴様ら……! 殺した連中を、ゾンビに!」
ジョーは、コニャックの残りを、またひと口。
「追いつめられたのは、おめえらだ。
ゾンビが、廊下へのドアから、応接室へのドアから、続々と入ってくる。
あの恐ろしいうめき声を上げながら。生者に向かって手を伸ばし。
捜査員たちは、悲鳴に近い声で、叫んだ。
「なんなんだ! なんなんだよ、こいつらは!」
「う、撃て! 撃て撃て撃てえ!」
銃弾が、ゾンビの顔や胸、腹を撃ち抜いていくが、その程度で歩みが止まるものではない。
死んでいる者は、殺せないのだ。
少しもひるむことなくゾンビは行進を続け、捜査員たちが次々と捕らえられていく。
そして、ゾンビに捕まるということは、それ即ち、死である。
手首をつかまれた者は、腕を引き抜かれ。
首を絞められた者は、頭をもぎ取られ。
髪をつかまれた者は、頭蓋骨が見えるほど頭皮を
口の中に手を突っ込まれた者は、下顎をむしり取られ。
生きたまま、紙のように、肉体を引き裂かれていく。肉片に変えられていく。
血と肉と
「やめろ! 来るなあ! うわぁああああああああ!」
「放せ! 放せえ! ぎゃああああああああ!」
「ちくしょう! 神様! 神様ァ!」
悲鳴を上げながら、身体を千切られる者。自分で自分を撃ち、命を絶つ者。
ジョーンズは、目の前で繰り広げられる地獄のような光景に愕然とし、佇立するしかなかった。
そんな彼に――
「おい! ジョーンズ!」
ジョーが、声をかけた。
カウンターの裂け目からは、こちらを向いたジョーンズの、無防備な下半身が見える。
ジョーは、裂け目に銃口を押し当て、
「
引金を引いた。
銃弾は狙いを
「ぐおっ!」
ジョーンズは、その場に倒れ込んだ。
内股に閉じられた股間からは、鮮血が噴き出ている。
「クソッ……! よくも、こんなことを……!」
顔中に脂汗を浮かべ、悶え苦しむジョーンズ。
ジョーとルイ=ジャンは、すでにカウンターの向こうから、姿を現していた。
息も絶え絶えにうめくばかりのジョーンズであったが、やがて、彼は二人をにらみつけつつも、その顔に引きつった笑いを浮かべた。
「クククッ…… 自分がなにをしたか、わかっているのか? 貴様らはキンダーマン探偵社を敵に回したんだ」
そう。それだけは、たしかに正しかった。
合衆国陸軍の州兵を上回る数の捜査員を有する、キンダーマン探偵社。
合衆国司法省からの下請けで犯罪捜査を務める、キンダーマン探偵社。
そんな強大な組織を敵に回したのは、事実であった。
「たとえ、どこへ逃げようと、どこに隠れようと、無駄なことだ。キンダーマンは、貴様らを地の果てまで追いかけ、必ず見つけ出すだろう。その時になって後悔しても遅――」
みなまで言うこと叶わず、周囲に群がったゾンビたちが、彼に
いくつものゾンビの手が、彼の腹に、爪を立てた。
腹筋も
さすがのジョーンズも、
「ぎゃああああああああ!」
と悲鳴を上げたが、それはすぐに途切れた。
他のゾンビによって、首をもぎ取られたのである。
頭部、上半身、下半身と三分割されたジョーンズが、ゾンビたちに引きずられていく。
そうして、まったき血の静けさが、ビリヤードルームに訪れた。
役目を終えたゾンビたちは、バタバタと倒れていった。
この場に生きて動く者は、ジョーとルイ=ジャンの二人だけとなった。
執務室では、アイゼンバーグがデスクの前に座り、蒼白な顔から冷たい汗を流していた。
始まりは、階下から聞こえてきた、いくつもの銃声だった。
部下は、賊が侵入した、と言う。
キンダーマン探偵社も、一階へ降りていった。
あとは、銃声、銃声、銃声。
まるで戦場だ。
アイゼンバーグには、なにが起きているのか、まるで理解の外であった。
「い、一体、なにが起きている…… ここは、私の屋敷だ…… このトバイアス・アイゼンバーグの屋敷だぞ……」
いつしか銃声が止むと、今度は不気味なうめき声が、いくつも聞こえてきた。
鉱山で聞いた、頭がおかしくなりそうな、あの不快なうめき声。
ふたたび鳴り響く銃声に、切り裂くような悲鳴が加わり、一階には恐怖の混声合唱が響き渡った。
しかし、今はもう、銃声もうめき声も悲鳴も聞こえてこない。
誰の声も、なんの音も。
アイゼンバーグには、なにも、わからない。
「私は、鉄鋼王になる男だ…… このラ・ホヤに自分の町を作り、いずれはカリフォルニアを支配する男なんだ……」
そこへ、コンコンコンコンと四度、ノックの音が。
「邪魔するぜ」
入ってきたのは、小汚い身なりに無精髭の、
当たり前ではあるが、アイゼンバーグにしてみれば、まったく見覚えがない。
椅子から立ち上がり、正体を問いただす。
「だ、誰だ!」
「ただの賞金稼ぎさ」
そう、ブロンディ・ジョーである。
右手に拳銃を下げ、ゆっくりとデスクのアイゼンバーグに近づいていく。
「賞金稼ぎ、だと……? 一体、なんのために? この私になんの用だ!」
「おめえ、首に賞金を懸けられてるぜ。一所懸命に働く労働者の命をもてあそび、中国娘を泣かせた罪でな。賞金は酒場の部屋代一週間分――」
銃口をアイゼンバーグへ向け、撃鉄を起こす。
「――ちなみに“
「な、なにを訳のわからんことを……」
アイゼンバーグのような人間には、己の犯した罪など、まったくもって理解も自覚もできないのであろう。
ジョーの言う、半分ジョークのような罪状と賞金のせいでもあるが。
彼は、理不尽な恐怖に声を震わせ、部屋の外へ呼ばわった。
「おい、誰かいないのか! 賊がいるんだ! 誰か来い!」
「無駄だぜ。屋敷ん中にいる奴は全員、始末した」
その言葉を聞いた途端、アイゼンバーグは驚愕に息を詰まらせ、がっくりと首を垂れた。
デスクの天板を見つめ、口の中で「役立たずどもが…… なんのために高い金を……」などとつぶやいているが、小声すぎてジョーには聞こえない。
少しの間、そうしていたアイゼンバーグであったが、やがて、顔を上げ、
「い、いくらだ……」
「あぁん?」
「いくら欲しいんだ。金をやる。欲しい額を言え」
そう早口で言いつつ、おもむろにデスクの引き出しを開け、手を突っ込む。
ジョーは、銃口を向けたまま、手首を使って銃身を上下に動かした。
「おい、動くんじゃねえよ」
「か、金だ。ほら」
ゆっくりと上げられた両手には、50ドル札の束が握られている。
ひと束5,000ドルはあろうかという札束が、次々とデスクの上に積まれていく。
その日暮らしの賞金稼ぎにとって、目の覚めるような大金であることは間違いない。
札束の山を積み上げ、アイゼンバーグが笑った。
「金ならあるんだ。一生かかってもおまえには稼げない額をくれてやるぞ」
「……救いようのねえアホだな」
ジョーは、眉を吊り上げ、口を歪める。
その顔を見つめながら、アイゼンバーグは、そっと引き出しの中を探っていた。
中にあるのは、札束だけではない。
彼の右手が、小口径の拳銃を一丁、探し当てた。
側近イーライを撃ち殺した、あの拳銃だ。
「そ、それとも、
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アイゼンバーグは拳銃を握り締め、ジョーへ向けた。
ただし、引金を引くどころか、狙いを定める暇もなく、拳銃を握る彼の中指と薬指が、銃声と共に弾け飛んだ。
「うああっ! 手がっ、私の手があ!」
「てめえ、俺を舐めてんのか?」
アイゼンバーグへ向けた銃口から、
素人の抜き撃ち、騙し討ちなど、老練の拳銃使いであるジョーには、止まって見える。
まったく馬鹿な選択をしたものだ。
そして、情けない悲鳴がこだまする執務室に入ってきた者が、もう一人。
屍人使いルイ=ジャンである。
ジョーは、拳銃の狙いをアイゼンバーグにつけたまま、横に並んだ彼へ声をかけた。
「よう。掃除は終わったか」
「ああ」
右手を押さえて床にひざまずくアイゼンバーグは、すぐにルイ=ジャンを見上げ、
「ああ、ミスター・モロー! 私は君と君の家族にひどいことをしてしまった! どうか埋め合わせをさせてくれ! 金ならいくらでも払う! 話し合おう!」
聞くに
ルイ=ジャンは、耳をふさぐ代わりに目を閉じ、あの呪文を唱え始める。
それになんの意味があるのか。アイゼンバーグは、震え上がった。
「どうだ、私のもとで働かないか! 君ほどの教養と能力のある人物なら――」
ふと、部屋の端から、うめき声が聞こえてきた。
声のするほうへ、震えながら顔を向けるアイゼンバーグ。
その目に映ったものは、
「イ、イーライ……?」
アイゼンバーグが無慈悲に撃ち殺したはずの側近、イーライ・ホフマン。
その彼が、無表情な青白い顔で、低いうめき声を上げながら、アイゼンバーグに襲いかかった。
ルイ=ジャンは、カッと目を開け、憎しみに満ちた眼光を、アイゼンバーグへ向ける。
「おまえにふさわしい最期を遂げさせてやる……」
「よせ! やめろ! イーライ、頼む! やめてくれ!」
イーライのゾンビは、両手で左右から挟むようにして、アイゼンバーグの頭をつかんだ。
そのまま、生者の限界を超えた怪力をもって、万力のようにギリギリと頭部を
すぐに、彼の目や耳、鼻など、頭部のあらゆる穴から血が流れ、全身が震え出した。
白目をむき、うなるような悲鳴をもらすアイゼンバーグ。
「あぐぐぐぐぐぐぐぐ……!」
やがて、ぐしゃりという音を立てて、アイゼンバーグの頭部は縦に潰れ、割れた脳天から血と
床に潰れた
その上に折り重なるように、イーライのゾンビが倒れた。魔術の
ジョーが、ルイ=ジャンの肩に、手を置く。
「終わったな」
「ああ…… また、こうして、罪を重ねた……」
ため息をつき、唇を嚙むルイ=ジャン。
心を覆い尽くすのは、復讐を遂げた喜びではない。
安らかに眠るはずの者を起こし、人殺しを重ねた罪の意識、自責の念。そのようなものだ。
ジョーにも、その気持ちは、わからなくもなかった。
その時――
にわかに床が、部屋全体が、グラグラと大きく揺れ始めた。
燭台が倒れ、本棚から本が落ちる。
壁からは絵画が外れ、振り子のように揺れている。
だが、カリフォルニアでは、さして珍しくもない現象だ。
ルイ=ジャンは、デスクに手を置き、身を支えて、
「じ、地震か……! なにもこんな時に……」
「いや、これぁ……」
ジョーの顔が
すると、いかなることか。
二人の目の前に広がる世界が、急激に色を失い始めたのだ。
まるで写真のような、黒と白と灰色の世界へと塗り替えられていく。
ルイ=ジャンは、すぐに目の不調を疑った。
だが、両手で目をこすっても、
目ではなく、脳の異常か。魔術の影響か。
「ジョー! この色覚異常は君にも起きているか!?」
聞こえていないはずはないのだが、ジョーは答えずに、周囲を見回している。
「やっぱりかよ。奴が直々に現れるってこたあ、アイゼンバーグの野郎、よほどの悪党だったようだな……」
この口ぶりからして、彼はなにかを知っている。この怪現象の正体を知っている。
「ルイ=ジャン! 俺の後ろに隠れろ! 来るぞ!」
来る。なにが来るのか。
その答えは、さらなる怪現象で、示された。
壁や窓にではない。自分たちが見ている光景に、ひびが入ったのだ。
ひびはその数を増やし、視界の
そして、ガラスが割れるように、世界が割れて、砕けて、散った。
割れた世界の向こう。
その向こうには、まったく違う世界が広がっていた。
草も木もない、赤茶けた不毛な大地。
それどころか、いたるところで業火が燃え盛っている。天を突くような、巨大な業火が。
そこでは、炎に包まれた人々が、苦痛に顔を歪め、
顔を焼かんばかりの熱風が吹きすさび、硫黄の臭いが
「あれは……?」と、ルイ=ジャンが目をこらした。
炎の中に、なにかが見えた。
こちらへ近づいてくるようだ。
あれは。
あれは、馬だ。
馬に乗った何者かが近づいてくる。
馬影が大きくなるにつれ、騎乗する者の姿もおぼろげながら、見えてきた。
ルイ=ジャンが、驚愕の声を漏らす。
「な、なんなんだ、あれは……」
馬に乗っていたのは、人間ではなかった。
言うなれば、
ハット、ネッカチーフ、シャツ、ジャケット、ブーツ。
身にまとうものはカウボーイのそれだが、手綱を握る手も、帽子の下にある顔も、白い骸骨であった。
またがっている馬は、青白い毛色をしており、鼻からは火を噴いている。
馬もまた、尋常の馬ではない。
二人の目の前まで近づくと、骸骨のカウボーイは、手綱を引いた。
馬がいななき、脚を止める。
ジョーは、カウボーイをにらみつけたまま、
「
とだけ、短くつぶやいた。
それがあれの名前なのだろうか。
ルイ=ジャンが、
「ど、どうするんだ…… あの化物とも戦うのか……?」
「いや、戦う必要はねえ。奴はただ、
ジョーは拳銃を、ホルスターに収める。
「――それに、奴は化物の
ジョーは数歩、足を進め、
「よう、
死は、なにも答えず、今では床ではなく地面に転がる、アイゼンバーグの死体に顔を向けた。
そして、かたわらから、先端がループ状になった荒縄を取り出す。
カウボーイが牛を捕えるための
死の握る縄は、彼の頭上で数度大きく回されると、頭の潰れた死体へ向けて、投げ放たれた。
不思議なことに、水面に投じられた釣り針のごとく、投げ縄は死体を通り抜け、その中へと入っていった。
かと思うと、すぐに、無事な姿のアイゼンバーグが、首に縄をかけられ、死体から引っ張り出された。
だが、生前のまま、という訳ではないようだ。
その身体は半透明で、ほのかに青白く発光している。
驚いても驚き足りないルイ=ジャンが、ジョーに尋ねた。
「あ、あれは……?」
「霊とか魂とか、まあ、そんなもんだ」
「彼は、どうなるんだ……?」
「連れていかれるのさ。地獄にな」
霊体と化したアイゼンバーグは、自分の置かれた状況を飲み込めないらしく、縄に首をくくられたまま、周囲を見回している。
「な、なんだ。これはどうなっている…… 私は……」
それに構わず、死が手荒く縄を引き寄せた。
「うわあっ!」と悲鳴を上げて引っ張られていくアイゼンバーグ。
死は、そのまま顔と顔が触れ合わんばかりの距離までアイゼンバーグを
眼球のない、底が見えないほど深く暗い井戸のような、どす黒い
さらには、カチカチと鳴らされる歯の奥から、まるで地の底より響くような恐ろしい声が発せられた。
「
「ひっ、ひいいいいっ!」
恐怖に打ち震えるアイゼンバーグが、地面に投げ出された。
青白い馬は、ゆっくりと歩みを進める。
「誰かっ! 誰か助けてくれえ! 地獄になんか行きたくない!」
助けを求め、哀願するが、なすすべもなく引きずられていく。
その時、ルイ=ジャンが声を上げた。
「待て! 死よ!」
彼は、死のもとへ駆け寄り、
「私も…… 私も連れていってくれ」
手綱が引かれ、馬が止まると、死は彼のほうへ振り向いた。
「私は、数え切れない罪を犯した。私は、
がっくりと、うなだれた。
彼の罪。ルイ=ジャン・モローの罪。
禁忌の秘術を、この世によみがえらせた。
安らかに眠るべき死者を起こし、もてあそんだ。
善人も悪人も、多くの者を殺した。
幸せに暮らす家族を、死をもって引き裂いた。
罪人は裁かれなければならない。罪を
今まさに、地獄へ送られようとしている、真の亡者となった金の亡者のように。
しかし、死は、しばらくルイ=ジャンを見つめたのち、
「今日ノトコロハ
それだけを言って、馬の腹を蹴った。
青白い馬が、目から電光をほとばしらせ、鼻から火を噴きながら、声高くいななく。
死の「イピアイエェエエエエ!」という恐ろしい叫びを合図に、馬が駆け出した。
泣き叫ぶ罪人を荒縄で引きずりながら、地獄の奥へと走り去っていく。
ルイ=ジャンは、呆然と、見送るしかなかった。
死を乗せた馬の影が、小さくなっていく。
すると、またもや世界に変化が起こった。
割れて、砕けて、散ったはずの世界のかけらが、元に戻っていく。
かけらが次々とつなぎ合わされ、目の前には色彩を失った執務室が、ふたたび現れた。
その色彩すら急速に取り戻され、二人はあるべき世界に帰ってきた。
赤茶けた大地に炎が燃え上がる地獄は、もうない。
札束が山と積まれたデスク。死体が転がる絨毯。静寂に支配された執務室。
すべては元通りである。
そんな中で、いまだ立ち尽くすルイ=ジャンに、ジョーが声をかけた。
「あいつが連れていくのは、命を落とした罪人の魂だけだ。おめえは罪人だが、まだ死んじゃいない。俺と同じさ」
「だが…… だが、私は――」
「パパ!」
ルイ=ジャンが振り向くと、そこには一人の黒人の少女が、泣き濡れた顔で立っていた。
「ソフィー!」
弾かれたように、少女が駆け寄る。
彼は、胸に飛び込んできた娘を、しっかと抱きとめた。
「ソフィー、パパを許してくれ……」
腕に包まれた娘と共に、涙をこぼすルイ=ジャン。
気づけば、ソルと、その横に並ぶ、妻の姿があった。
ソルが宣言通りに、娘も妻も、助け出してくれたのだ。
ルイ=ジャンは、妻も引き寄せ、
「エレーヌ……」
「あなた……」
妻子を固く抱き締めた。
その光景を眺めつつ、ジョーとソルが並び立つ。
「おめえがいない間、こっちゃあ大変だったんだぜ。
「俺がいなくてよかったじゃないか。奴を無駄に怒らせることもあるまい」
「へへっ、あの野郎、どうしたっておめえを連れていきてえようだしな」
おかしげに笑うジョーのもとへ、モロー親子がやって来た。
ルイ=ジャンは、両手に妻子を抱き、
「ジョー、ソル。本当にありがとう。感謝の言葉が見つからない。君たちのおかげで家族を取り戻せた」
それから、少し視線を落として、口を真一文字に結び、
「私は、一生を懸けて、犯した罪を贖い続ける。彼の迎えが来るまで」
一方、ジョーの視線は、ルイ=ジャンではなく、彼の娘ソフィーのほうにあった。
メイホアだけではない。
ここにも救うことのできた幼子が、いた。
すべての事情が分からぬソフィーは、無言でこちらを見つめる白人が怖かったのか、そっと父の後ろに隠れてしまった。
その仕草に、ジョーはフフッと笑い、視線をルイ=ジャンへ戻す。
「ああ、もし
彼の厚意に、またも目頭が熱くなったルイ=ジャンは、
「なにからなにまで、すまない。ありがとう」
帽子を取り、それを胸に当てて、頭を下げる。
感謝と敬意を込めて。
ジョーは、片手を上げ、
「あばよ」
とだけ言い、
ソルも、それに続く。
二人とも、振り向くことはしない。
長い廊下を歩いていると、いつの間にか、ソルが笑っていた。
いつもの冷笑や余裕の笑いとは違い、歯を見せて、さもおかしそうに。
少年臭さを残す風貌によく似合う、無邪気な笑顔だ。
「なんだよ。なにがおかしいってんだ」
いぶかしむジョーに、ソルはこう答えた。
「
「
ラ・ホヤの戦いから二日ほど経った、朝――
国境近くの田舎町ロス・ロボス。
商売人たちが店の準備を進め、農夫の馬が野菜や果物を積んだ荷車を
町の人々は朝の挨拶を交わし、教会では老司祭ドナルド・ギャラガーが聖堂を隅々まで
そして、酒場“
店の名が示す通り、フロアには
女主人エスメラルダが、軽食を仕込みつつ、グラスを整えているだけ。
カウンターも、テーブルも、オルガンも、ひっそりと寂しそうに、あの
さらに、二階に目を向ければ、粗末な宿泊部屋が六つほど。
そのひとつのドアが、
出てきたのは、シャツ一枚をだらしなく羽織っただけの狼、ブロンディ・ジョー。
顔は青白く、目の下にはクマが浮かんでいる。なんとも、ひどい顔だ。
彼は、めでたく向こう一週間はタダとなった部屋のドアを閉め、壁に手をつきながらふらふらと廊下を歩き、転げ落ちないよう慎重に階段を下りていく。
一段下りるたびに、裸の胸元で、銀のペンダントが揺れる。
そこには、目を閉じて手を合わせる聖母マリアが彫られ、「
頭を抱えて、ゾンビのようなうめき声を上げるジョー。
「ああ、クソ…… また飲みすぎちまった……」
ロス・ロボスに帰り着いたのは、きのう遅く。
念には念を入れて、ソルとは二手に分かれ、少しの時をやり過ごしてから、町に戻ってきた。
それから、まだ残っていた客たちと祝杯を挙げ、エスメラルダやギャラガー神父は呆れ笑いで――
憶えているのは、そこまでだ。
気づけば、部屋のベッドの横で、干からびたサソリのように転がっていた。
飲みすぎるのは珍しくないのだが、翌朝は頭痛と身体の重さで、いつも死にたくなる。
ジョーは、倒れ込むようにテーブルに着くと、かすれ気味の大声を張りあげた。
「おおい、エスメラルダ! ウイスキーだ! 迎え酒をやらなきゃあ頭痛が取れねえ!」
そうわめくと、そのまま上体を前に倒し、テーブルに突っ伏してしまった。
全身がだるく、座っていることもままならない。
そんな不甲斐ないジョーの耳元で、ささやく声がひとつ。
「
エスメラルダの声ではなかった。
大人の女とは程遠い、幼い声。
「あん……?」
大儀そうに顔を上げるジョー。
そこには、にこやかに笑う、
ただし、彼がよく見知った、ボロボロの小汚い身なりではない。
メキシコの民族衣装に似た、ワンピースを身にまとっていたのだ。
純白の布地に、たくさんの花柄が
ジョーは、メイホアから、目が離せなかった。
二日酔いによどんだ瞳には、メイホアではない誰かに見えたからだ。
それは、褐色の肌に青い目の、あの子――
「
思わず口を衝いて出た、言葉。
メイホアは、目をぱちくりさせて、不思議そうにしている。
自分のことを一目見るなり、目をむいて、意味のわからないスペイン語をつぶやかれたのだから、無理もないだろう。
すぐにジョーは、首を横に振り、
「あ、いや、メ、メイホア。なんでえ、その恰好は」
「メイホア、働く。ここで。」
「働くだあ?」
そこへ、エスメラルダもやって来た。
「似合うだろう? アタシが小さい頃に着てた服さ」
そう言って、メイホアの横に並ぶと、彼女の頭に手を置き、
「この子はアタシが引き取ることにしたよ。これもなにかの縁だからね」
「へっ、人の
「あんたに言われたかあないね」
エスメラルダは笑い、メイホアの肩を抱く。
「
「
まるで母娘のような二人が、店の奥へと戻っていく。
それにしても、子供はさすがに適応が早い。
もういくつかのスペイン語を憶え、会話に組み込んでいる。
不安を覚えるジョーは、エスメラルダの背中へ、
「あ、おい。あんまりスペイン語を教えるんじゃねえぞ。下手なことを言えなくなっちまう」
などと、弱気に言うのであった。
少し経ち、メイホアが皿やコップの乗った
しかし、ジョーはコップの中身を見るなり、眉をひそめてしまった。
茶色が混じる透明な液体。
口に含んでも、なんの味もしない。
水だ。
水以外のなにものでもない。
「なんでえ、これぁ。水じゃねえか。ウイスキーを持ってこいよ」
「お酒、飲みすぎ、ダメ。朝、お酒、ダメ」
口をとがらせるメイホアが、ジョーの前に出したのは、赤みがかった茶色のスープだった。
「へえ、メヌードか。二日酔いの朝にゃあ、ぴったりだな」
メヌードとは、メキシコの伝統的な料理で、牛の胃袋、ひよこ豆、唐辛子などを煮込んだスープである。
また、ジョーの言う通り、二日酔いの朝に飲まれることも多い。
「メイホア、作った。エスメラルダ、教えてくれた」
少しはしゃぎ気味で、少し自慢げな、メイホア。
ジョーはさっそく、ひと
「おお、うめえな。よくできてらあ」
「おいしい!? メイホア、上手!?」
「ああ、上手だ」
「やったー!」
褒められたのがよほど嬉しいのか、メイホアはぴょんぴょんと飛び跳ねて、喜んでいる。
そんな彼女を
「昔はよく作ってもらったもんだ……」
少し寂しげに笑った。
その表情は、彼の複雑な心境を、否応なくメイホアに読み取らせる。
喜ぶのをやめ、笑顔を引っ込めて、ジョーに話しかけた。
「ジョー、教えて」
スプーンを動かす手が止まり、視線がメイホアに向けられる。
「なにをだ」
「ジョー、メイホアを助けてくれた。お金、ない。すごく、危ない。ジョーとメイホア、知らない人。どうして、助ける?」
「言ったろ。一週間分の部屋代目当てだ」
「でも……」
納得がいっていないのは、ジョーも理解できる。
たったそれだけの理由で、縁もゆかりもない者のために命懸けの仕事をするなど、子供心にもあり得ない行動だとわかるだろう。
なにか特別な理由や思いがない限りは。
英語も大人の思惑もわからないメイホアではあったが、疑問を抱くことは、当然できるはずだ。
メイホアの疑問に、答えてやらなければいけないのか。
すると、思いがけず、心の中で、とある声が響いた。
『パパ、
その声に押され、ジョーが口を開いた。今度は目をそらさずに。彼女の目を、見つめて。
「昔…… ある女の子を救えずに、死なせたことがある。俺ぁもう、ガキを救えねえのはたくさんなんだ」
そして、こうも言った。正直な心で。
「おまえとここにいられて、よかった……」
メイホアは、コップを握る彼の手に、己の小さい手を重ね、笑った。
初めて出会った、あの時のように。
「……
しばしの間、笑い合っていた二人であったが、やがて、メイホアは照れ臭そうに手を離し、キッチンのほうへ足早に向かっていった。
だが、なにかを思い出したかのように、「あっ」とひと声上げて、彼女が立ち止まった。
くるりとジョーのほうへ向き直り、
「もうひとつ、教えて」
「
「ジョー、頭ツルツル。髪の毛、ない。どうして、
これにはエスメラルダも、カウンターの向こうで大爆笑だ。
カウンターをバンバンと叩き、笑い転げている。
そのうちに、息を切らし、涙を拭きながら、エスメラルダが言った。
「ジョーにも若い頃があったんだよ、メイホア。そいつの若い頃はね、
「そうなんだ!」
無邪気に感心することしきりのメイホア。
他方、ジョゼフ・“ブロンディ・ジョー”・マッケナは、苦りに苦り切った顔で、スープをすすっていた。
やがて、新聞を片手のソルが、スイングドアを鳴らして、店に入ってきた。
ジョーと「よう」「おう」と短く挨拶を交わし、彼の隣にどさりと腰を下ろして、新聞に目を通す。
その一面には、
『トバイアス・アイゼンバーグ氏、惨殺さる!』
『行方をくらませた従業員たちによる凶行か!?』
『ジョン・スミス主任上級捜査員はキンダーマン探偵社の関与を否定』
などと、センセーショナルな見出しが飾られている。
だが、そんな記事にはまるで興味がないらしく、すぐに新聞をひっくり返し、『バス釣りテクニック』などという釣りのコラムを、熱心に読み始めた。
すぐに、ソルのもとにも、朝食が運ばれる。
もちろんメイホアの手で。ソルは目もくれないが。
彼女は、テーブルに皿を置きつつ、あらためて礼を言った。
「ソル。メイホア、助けてくれて、ありがとう。これ、メイホア、作った。食べて」
ワンピース姿のメイホアに気づくと、ソルはやや驚いた様子で、ジッと見つめた。
彼の目がこれだけ長くメイホアに向けられているのは、初めてのことであろう。
なんとも珍しい彼の挙動に、メイホアは少し慌てている。
「ん?」
「いや、別に。いただく」
不愛想にそう言い、スープを口に運ぶ。
うまい。言葉にはしなかったが、そう思った。
こんな味を、ずっと前にも食べたような、そんな気がした。
横では、感想を待っているのか、メイホアが盆を胸に抱え、落ち着かない表情を浮かべている。
ソルは、彼女と目を合わせず、短く鼻でため息をつくと、
「
低い声で、そう言った。
メイホアは、首をかしげる。
知らない言葉だ、まだまだスペイン語は難しい、とでも思っているのか。
首を右に左にかしげたのち、
「それ、『おいしい』の意味?」
と尋ねる彼女に、ソルは、
「ジジイのお
ほんの少し笑って、そう言い、あとは黙してスープを口に運ぶだけ。
メイホアは、嬉しそうに笑った。
――第一話 了
引くことの7,000ドル
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