第16話 のんきな女
電波攻撃を防ぐためスマホの電源を落とした昼休み。ちょっとくらいならという誘惑に負けることなく俺はすぐさま廊下に飛び出した。
もしどこかで一条に追い詰められても、画面を触っても真っ暗なままのスマホを見せつければ壊れたと言えるし、もし電源が入ればなぜか直ったことにできる。それにやつはクラスの人気者だ。一時間の昼休みを全て俺に使うことは到底不可能。様々なお誘いを断ればせっかく籠絡したクラスメイトの信頼を失いかねない。
「くくく……」
八方美人のスパイは大変だな。その点俺はいつだって他者に左右されることなく自由に動くことができる。一条、お前の邪魔さえ入らなければな。このアドバンテージを得るために俺はぼっちだったんだ。辛い過去も、この先に待つ輝かしい未来を想えばチャラにすることができる。
向かうのは人の多い食堂だ。屋上なんてもってのほか。実は鍵が開いてるなんてことはないし、スパイと籠絡されたバカな男子がいかがわしいことをしている声を聞いたことがある。
屋上に繋がる階段なんて近付いてはいけない。そこはもう行き止まりで逃げ場なんてないんだから。
いつもは購買でパンを買って自分の席で食べるが、今日は奮発してとんかつでも注文しようと思う。神が俺に味方し試練を与えているのならゲン担ぎをするのも悪くない。
「うわっ」
授業が終わった直後だというのにすで多くの生徒が席を取っていた。テーブル席を一人で使うのは心苦しいのでカウンター席に向かうも荷物が置かれて予約状態だ。
「パンでも買うか」
とんかつの口になっていただけにその悔しさはひとしおだ。いつもと同じ昼食になるだけなのに妙に味気ない感じがする。せっかく早めに教室を出たのに時間をロスしてしまった。購買に残ったパンから選ぶことが確定しているのもまたテンションが下がる要因だった。
「カゲノクン」
「天音……さん?」
「ドウシタノ ヒトリ」
「まぁ……うん。混んでるからどこかに行こうかなって」
「アソコノセキ アイテル。イッショニ」
「でも、天音さんの友達と一緒っていうのは」
「カゲノクントダケ。タマニハイイ」
「マジ?」
「マジヨリノマジ」
金髪ではあるがギャルとは違う分類に位置する天音がカタコトのギャル語を使うと誤った日本文化を学んだ外国人観光客みたいでちょっとおかしかった。
そのおかしな言葉遣いとは裏腹に目は真剣そのもので俺と一緒に昼食を食べようとしている。しかも二人きりでだ。
二人なら向かい合って座れば変に席を空けることはないから堂々とテーブルを使える。
「……ダメ?」
「うっ……」
小柄な女の子に上目遣いでそんなことを言われると断りずらい。スパイだとわかっているのに外見が子供っぽいから罪悪感に襲われる。なるほど、これが天音の武器か。何も豊満な体だけが女の武器ではない。世の中にはこういう需要だってあるのは俺も理解しているつもりだ。
「ダメじゃないけど。本当にいいの? 俺なんかと」
「モチロン。ナカヨクナリタイ」
俺とぶつかって倒れそうになったのを助けたのはもうずいぶん前の話だ。この件がきっかけで仲良くなりというならその日のうちに声を掛けた方がまだ合点がいく。一条と同じように、進行していた作戦が失敗して第二のプランに移行したとしか考えられない。
この誘いは明らかに罠だ。しかし断る理由がない。それに、ライバル関係にある天音と一緒にいれば一条は手出ししにくい。今日の昼休みだけに関して言えば誘いに乗るのが一番安全に時間を過ごせそうだ。
「ワタシ セキ、トットク。カゲノクン オネガイ」
「え?」
「カレー ガ タベタイ」
「……買ってこいと?」
こくんと頷く姿は血の繋がらない妹みたいだ。ある日こんな妹ができたら何でも言うことを聞いてしまう。ワガママだけど反抗はしない。お兄ちゃんLOVEの可愛い妹だ。
「オカネハ アトデハラウ」
「わかったよ。カレーね」
「フフ。アリガト」
とりあえず代金は支払ってくれるみたいだ。天音と食事をする権利をカレー代で買わされたわけではないらしい。そんなことになったら世界一可愛いカツアゲだ。暴力ではなく己の可憐さを武器にするのは実に宇宙評議会のスパイらしい。
こんな状況になったこと今すぐZで報告したいのに、電波攻撃を避けるためにスマホを使えない。仲が悪いようで実は協力しているんじゃないかと疑ってしまう。一歩も二歩も先を読んで様々な手を用意しているのは一条ならあり得なくはない。天音はそれに従っているだけだとしたらアドリブは効かないはず。
なにか相手が驚くような行動に出て作戦をぶち壊してやりたい気持ちはあるが、あまり変なことをすると天音のファンに目を付けられてしまう。俺みたいなタイプに人気だから絶対に陰湿な嫌がらせをしてくるぞ。
自動販売機で食券を買ってトレイにとんかつ定食とカレーを乗せる。大柄な運動部ならともかく、俺みたいなひょろがりが一人でこんなに食べるわけもなく、おばちゃんからパシリにされてるんじゃないかと哀れみの目を向けられた。
俺は天音に屈した覚えはこれっぽっちもないが、周りから見ればそういう風に映るんだろう。
「…………マジか」
それなりに重いトレイを持って天音の待つ席まで行くと、寝ていた。授業中もほとんど寝ているのにまだ寝るのか。窓側の席で日差しがぽかぽかと気持ち良いのはわかる。わかるが、こんな短時間ですぐに眠りにつくものだろうか。
とりあえず天音の前にカレーと置く。香りに釣られて目を覚ますんじゃないかと思ったがビクともしない。寝てるんだよな。死んでるわけじゃないよな?
よく観察するとすやすやと寝息を立てていた。生きてはいるみたいだ。いつも教室の後ろから居眠りしている姿を見てるだけだから、こんな風に寝顔をじっくりと観察したのは初めてだ。
電車の中でうとうとしてる子供みたいな純粋無垢な表情はとてもスパイには見えない。もしスパイ疑惑を掛けていなければ簡単に騙されていただろう。
寝ている間は無力なので安心して食事が摂れるかと言われればそんなことはない。目の前でクラスメイトが寝ている中、自分だけとんかつを食べるというのも居心地が悪い。
「天音さん。おーい」
声を掛けても起きる気配がない。そんなに熟睡できるものだろか。周りはざわざわと騒がしいし、空腹の体には刺激の強い香りが漂っている。三日くらい徹夜した人でもない限り、ここで熟睡するのは難しいだろう。
「お金も貰わないとだし」
教室でカレー代を請求するのはハードルが高い。女子はおろか男子ともほとんど話さないのに、突然天音からお金を受け取ったらあらぬ誤解を招いてしまう。今この場で全てを終わらせたい。
昼休みをどうやってやり過ごすかが悩みの種だったのに、もはや限られた時間内でこの状況をどう解決するかで頭を悩ませている。スパイと関わると本当にろくなことがない。
「……これは天音が悪い」
寝ている女子の体に触れるのはとても気が引けるが、カレーの匂いでも呼びかけをしても目を覚まさないこの女が悪い。さすがに物理的に揺さぶれば起きるだろう。生きてることは確定してるんだ。俺が触った瞬間に首が取れたりすることもあるまい。
うん。ちゃんと首は繋がってる。天使みたいな寝顔となめらかな肩はきちんと連動して動いたいた。
「天音さん」
軽く肩に触れて横にゆさゆさと動かすとサイドテールの先端が手の甲に当たった。反対側にすれば良かった。でも正面から利き手でゆするにはこうするしかなかったんだ。背後から触れて事件性のある悲鳴を上げられても困るし。
どんだけ深い眠りについてるんだ。軽くゆすったくらいじゃ全然起きなくて徐々に力が強くなっていく。これで起きなかったら気絶だぞ。養護教諭を呼ぶような面倒な事態は勘弁してほしい。
「あーまーねーさーん」
肩をゆする度に手の甲をなでる毛先が妙に心地良い。ふわふわでサラサラで、叶うことなら撫でたいくらいだ。これだけやって起きないのならちょっとくらい……いや、さすがにライン超えだろ!
「ン……?」
「お、起きたか。カレー、買ってきた」
「オハヨ。カゲノクン」
「おはようじゃなくて。よくこんなところで寝れるな」
「ニホンノ タイヨウハ ヤサシイ。ポカポカ キモチイイ」
「太陽は万国共通だろ」
夏なんて死者が出るくらいの熱を放ってるんだぞ。宇宙の感覚からすれば地球の、その中でも日本の日差しは優しい部類に入るのかもしれないが、だからってこんなにすぐ熟睡するのはおかしい。
「オカネ アリガト」
天音は千円札を差し出した。お釣りの分の小銭を返せばいいんだろうけど、自分のとんかつと合計で支払ったから財布の中にある小銭では綺麗に返金できない。
「天音さん小銭持ってない? ぴったりの額でお釣りを返せない」
首を横に振って千円を受け取るようにスッと俺の方に近付けた。
「オツリハイラナイ。トッテオキナ」
「どんな言葉遣いだよ……」
「ワタシ イケメン?」
カレーが440円でとんかつ定食が450円。合わせて890円を千円札で支払った。渡されたのが500円硬貨ならお釣りの60円を得しただけだが、千円札となれば俺のとんかつを奢ってもらったことになる。
スパイに借りを作るのか? それだけは絶対にダメだ。お金を受け取らない。カレー代を損したことになるが、借りを作って懐柔されるよりマジだ。
いつもボーっとしてすぐに居眠りする取るに足らない敵だと思っていたがやはりスパイは侮れない。
「天音さんは可愛いからイケメンじゃないよ。こんなに受け取れないから、俺のおごりで」
めっちゃ早口になった。女子に対して直接可愛いなんて自分で言ってて恥ずかしい。よくスラスラと噛まずに言えたものだ。
「フフフ。カワイイ」
いつもクラスメイトから可愛がられて慣れていそうなものなのに上機嫌でカレーを口に運び出した。千円札はテーブルに置かれたままだ。俺は受け取らない意志を示したんだから早くしまってほしい。お金を放置するのも気が引けるんだ。
「マタ イッショニタベヨウ。コノセンエン ハ ソノトキノブン」
「え……?」
「サキバライ。カゲノクン ヲ ヨヤクシチャッタ」
俺は、買われた。授業中も昼休みもしっかり寝て、カレーを美味しそうに頬張るのんきな女に。これは由々しき事態だ。いっそ一条が現れて天音を攻撃してほしい。
その願いはすぐに叶えられた。神は俺に試練を与えるが、同時に味方でもあるらしい。
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