第8話 天然ちゃん

「「「ありがとうございました」」」


 授業が終わった瞬間、俺は脱兎のごとく教室から飛び出した。一条から逃げているのではない。急な腹痛に見舞われたからだ。

 一条から漂う甘い香りの中に下剤成分でも含まれていたんじゃないかと疑うレベルで心当たりのない痛みが腹の中で暴れている。


 腐ったものを食べたり暴飲暴食をした覚えはない。腹を殴られたりもしていない。生きてきてこんなことは初めてだ。一条め、友人関係を結ぶという心理戦に持ち込んだと思わせて身体的なダメージを与えてくるとは。


 しかも直接攻撃じゃないからタチが悪い。殴ったり刺したりすれば警察沙汰になり、いくら宇宙評議会の手に堕ちていると言っても一条には何らかの罪状が与えられる。


「これが宇宙評議会の科学か」


 本人や他のクラスメイトには影響がなく、ピンポイントで俺だけを腹痛にする香り。地球の技術ではおそらく不可能。悔しいが宇宙人の科学力は一歩も二歩も先を行っている。


 腹を落ち着けるように深呼吸をしながら足早にトイレへ向かう。休み時間になったばかりだから個室が埋まっていることもないはずだ。小学校と違って個室に入ってところでバカにするようなやつはいない。


 そもそも俺をイジるやつもクラスにはいないからな!もしそんなやつがいれば確実に一条の差し金だ。籠絡された者の中でも特に注意すべき人物だとわかる。宇宙の科学によってダメージを負わされてるがこちらも情報を手に入れられる。転んでもタダでは起きない。


 そう考えるとこの腹痛も最悪ではなかった。が、場合によっては最悪になりうる。


 間に合え! 間に合え!! 間に合え!!!


 今の俺にとって重要なただ一つ。間に合うこと。個室に入るのは問題ないが、廊下で粗相するのはマズい。一条が俺を学校から排除しようとしているのなら、その狙いを俺が自主的に叶えてしまう形になる。


 そんな二重の屈辱を味わうわけにはいかない。同志のためにも宇宙評議会の情報を少しでも手に入れる。その第一歩としては俺は個室へと飛び込んだ。


「ふぅ~~~~~」


 テストが終わったあとのような解放感。その少し先の未来に待つ採点された答案用紙の返却は一旦忘れて、せめて今日一日くらいは大好きなゲームを心の底から楽しもう。ありがたいことに午前中に帰れる。昼間の明るいうちから猛者と戦えるあの悦びに似た感情を狭い個室で噛み締めた。


 授業が終わる少し前から抱えていた悶々とした苦痛が全て流れ出ていく。体の毒が抜けて軽くなったような感覚は久しぶりだ。敵に塩を送るとはまさにこのこと。俺はさっきの自分よりも確実にパワーアップした。


 残念だったな一条きらら。学校から排除するどころか、宇宙評議会へ対抗意識がますます燃え上ったぞ。


「くくく……」


 つい笑い声が漏れる。油断した。男子トイレに一条本人は入ってこないだろうが、その手下は何の障害もなく入ってこられる。一見すると安全に思える個室だが、逃げ場がないとも言える。もしここで集団で襲われたら俺なんて簡単にボコボコにされるのがオチだ。


 息を潜めて気配を探ってみるが幸いなことに誰かがいる感じはしない。心を落ち着けるためにZを見ようとポケットからスマホを取り出して驚愕の事実に気付いた。


「やべ。もうチャイムが鳴る」


 休み時間に誰も用を足さないなんておかしいと思ったんだ。俺が苦しんでる間に用を足し終えて、もう次の授業の準備をしてる。このままじゃ遅刻して悪目立ちしてしまう。


 こっそり教室に入ったところで俺の席は入口から一番遠い窓側。バレずに席に着くのは不可能だ。


「急げ急げ」


 ウォシュレットでお尻を洗い、丁寧に拭く。どんなに急いでいてもここで焦るのはよくない。せっかく一条からの攻撃をしのいだんだ。お尻が濡れていたら元も子もない。


 完璧なお尻になったのを確認してからパンツをスラックスを上げて個室を出る。あとは急いで教室に戻って、チャイムが鳴っている最中に着席すれば完璧。始業直前だから廊下に人も少ないだろうし余裕余裕。


 焦らず急ぐ。宇宙評議会と戦う上で重要な心構えを実践できるようになってしまった。クラスにスパイがいるというのも悪くない。やつらが訓練を受けたように、俺もスパイを相手に実践経験を積めばいいだけのこと。


 そしてその経験をZで共有すれば同志達のレベルアップも図れる。一条はたしかに手強い。しかし、卒業まで一条をやり過ごし宇宙評議会にただのダメ男と思わせることができれば、将来はやつらに痛恨の一撃を与える切り札になりうる。


「くくく……」


 さっきも油断して肝を冷やしたばかりなのに……まだまだ未熟な自分がイヤになる。これも伸びしろと考えるのはあまりにも軽率だった。


「あうっ!」


 未来の自分が宇宙評議会を滅ぼす瞬間を妄想していたせいで周囲への注意が薄れていた。いや、明らかに飛び出してきたのは相手だ。いくら早歩きしているとはいっても始業直前に女子トイレから飛び出る方が悪い。


 悪いのだが、ずいぶんと可愛らしい声で悲鳴を上げられると反射的に庇護欲をそそられるのが男子というものらしい。

 無意識のうちにぶつかってきた相手の手を掴んでいた。


 一条とはまた違うマシュマロみたいな甘い柔らかさだ。いつまでも握っていたいと感じる心地良さだが、その欲望を一瞬で振り払い彼女が一人で立てることを確認した上でパッと離した。


「アリガトウ」


 親のどっちかがフランス人だかイギリス人だかで綺麗な金髪と青い瞳はまるで人形みたいだなというのが第一印象だった。ちなみにこの第一印象は今受けたものじゃない。クラス替えをした時の自己紹介の時だ。


 天音あまねもえ。然と書いて『もえ』と読むなんて初めて知ったのもこいつと同じクラスになったからだ。いつもボーっとしているから名前をもじって天然ちゃんの愛称で親しまれているらしい。


 日本語はちゃんと理解してるし意思疎通も問題ないがちょっとカタカナ味はある。小学校ならからかわれてたかもしれないが、さすがに高校生にもなってそんなバカなことをするやつはいない。むしろ外見の良さで男女問わず人気を集めている。


 一条とは別方向でキラキラしてる女子高生だ。


「モウスグ ジュギョウダヨ。イソガナイト」


「そ、そだね」


 外国の血が混ざっているわりにはクラスで一、二を争う小さな体は中学生……あるいは発育の良い小学生に負けるくらいの幼児体型だ。最近はサイドテールになって少し見た目年齢が上がったが、ツインテールだった時は小学生が高校に迷い込んだのかと思うレベルだ。


 そんな見た目は子供の天然ちゃんは急がないとと言ったわりにのんびりと教室に向かっている。スマホで時間を確認するとチャイムが鳴るまであと1分。だけど秒単位で時間がわかるわけではないので、60秒の猶予があるかもしれないし次の瞬間には授業開始の合図が鳴るかもしれない。


 天然ちゃんを置いて自分だけでもササっと教室に戻っていいはずなのに、俺の良心がそれを許さない。

 ぶつかってきたのはこいつだし、教室に辿り着くのを見守る義務もない。


 こいつは一条以上に手強い存在だ。


 実はこの天音もスパイではないかと睨んでいる。一条がハイスペックなスパイだとしたら、こいつは能ある鷹は爪を隠すタイプのスパイだ。成績はそこそこだが運動はからっきし、しかしそんな部分が男子の人気を集めている。


 一条になびかない、あるいはハイスペ過ぎて尻込みする奥手な男子を籠絡するのには打ってつけの人材だと思わないか?


 宇宙評議会のことを知らなければ俺は断然天音派だった。なんていうか、俺が優位に立てそうで、キラキラ女子高生特有の圧がない。それでいてちゃんと可愛くて、守ってあげたくなる。


 今は守るどころか憎き敵の可能性が高いけどな!


「ワタシ ヨクヒトトブツカッテ コロンジャウ。カゲノクン ハ タスケテクレタ。イノチノオンジン」


「大袈裟な」


「オオゲサジャナイ。モットナカヨクナリタイ。デモ、モウジュギョウ。バイバイ」


「あ、うん」


 同じ教室に入るのにバイバイというのはどういう感情なんだろう。トトトっとほんの少し駆け足になってくれたのは良いが、また誰かとぶつかったり転ぶんじゃないかと心配になる。


 俺が真実を知る前なら『天然ちゃんは俺がいないとダメなんだ! しっかり支えてあげないと!』なんて恋愛感情という炎を爆発させていただろう。今もちょっと危なかった。


「スパイ同士で情報の共有はないのか?」


 一条が俺を籠絡しようとしているのに、そこに天音が参戦する。俺だって宇宙評議会の存在を知らなければ今頃一条に籠絡されていた。つまり、天音は他のクラスで活動した方が勢力拡大の意味では好都合だ。

 教師陣も宇宙評議会の手に堕ちていればクラス替えの融通も効くだろうし、なぜ二人もスパイが派遣されている?


 天音は宇宙評議会のスパイではない。いや、そんなはずはない。俺みたいなやつにあんな可愛い子が好意を抱くなんてラブコメじゃあるまいし。

スパイだから近付いた。ボーっとしてるのは表向きのキャラ作りで、俺がトイレから急いで戻るタイミングを見計らってわざとぶつかった。


 そう考える方が論理的だ。今はダメ男だけど将来は宇宙評議会を打ち滅ぼすキーマンになる俺と同じじゃないか。

 なるほどね。全て理解したぞ。自分に惚れられる要素がないとわかっているからこそ見抜けた。非モテゆえの強さ。俺にはそれがある。


「くくく……」


 しまった。また油断した。だけど大丈夫。ちょうどチャイムが鳴っている。足早に席に着いて教科書を取り出した。今はただの高校生。それを思い出すための儀式だ。

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