第3話 ハニートラップ
今日は体育や音楽などの移動教室はなく1日中この教室で授業を受ける日だ。教室を移動したとしても日直日誌をわざわざ持ち歩くことはない。自分の机に入れて最後に適当に書いて担任に渡せばいい。
このことに気付いたのは昼休みに入ってからだった。
一条は人気者なので休み時間になるとすぐに取り巻きに囲まれる。日誌をつき返してやろうと思ったが表面上の平穏を壊すのはよくない。大野くんが休みだから出席番号が1つ後ろの俺に当番が回ってくるのは自然なことだし、明日の分が今日になっただけのこと。
宇宙評議会のスパイによる罠だと訴えたところでクラスの連中は誰も聞く耳を持たない。しかし一条め、なかなか腕が立つじゃないか。
朝にわざわざ俺に預けたのはすでにやつの作戦が始まっていたからだ。俺が日誌を持つことで放課後すぐに帰宅することができない。予め日誌を記入して速攻で担任に渡すプランも考えたが、教卓から1番遠いのでホームルーム終了後にダッシュするという不審ムーブをかます必要がある。
覚悟は決めたものの交戦しないで済むならそれに越したことはない。しかし、俺が一条をスパイだと勘付いていることを悟られるのもマズい。
日誌に最低限の必要事項だけを記入し、一条に軽くコメントを書かせて担任に提出する。これが最善だと判断した。
「さて」
まずはZで同志たちに相談だ。日誌に書く内容から何か情報を盗まれるかもしれない。
―【急募】スパイだと勘付いてることを悟らない日誌の内容。当方高2。 #宇宙評議会 ―
SNSに個人情報を書き込むのはよくないが背に腹は代えられない。俺が高2だとバレる程度なら問題ないと判断して学年を書き込んだ。中学と高校ではさすがに日誌の無難な内容も変わってくる。
先人の知恵を借りる上でこちらの情報を開示するのは当然のことだ。
お! 早速返信が付いた。常に宇宙評議会の動向をチェックする同志は心強い。俺が授業を受けたり一人で昼食を摂っている間も地球人としての誇りを守っているのだ。
―今日の授業で学んだこと次のテストに向けて復讐する。的なことを書くと良い。万が一、教師も宇宙評議会の手に落ちている場合でも対応できる。テストに怯える一般高校生を演じろ。 #宇宙評議会 ―
「なるほど」
ものすごく無難な内容だ。時間割の全てが座学の今日という日に相応しい内容。誰が読んでも真面目に授業を受けてちゃんとテストも見据える一般男子高校生だ。
やはりZは素晴らしい。友達がいなくても俺にはZがある。
「テノールくん」
「ひゃいっ!?」
俺をこの謎のあだ名で呼ぶのは一条しかいない。そもそも俺の名前が呼ばれるのは授業中に先生から当てられる時くらいだ。
夢中になってスマホを見つめていたせいで背後の気配に全く気が付かなかった。昼休みに教室の隅に来るやつなんて誰もいなくて、平穏な時間を過ごしていたというのに。
まるで跳び箱を飛ぶみたいに俺の両肩に手まで付きやがって。絶対にこの場から逃がさないという強い意志を感じる。
「もう日誌書いてるの?」
「え……あ、うん」
「へ~。どれどれ?」
「ひぇ」
顔が近い。なんでわざわざ後ろから覗き込むんだ。背中が妙に熱いのはもしかして一条の体が触れているからじゃないか?
落ち着け俺の心臓。心拍数から何か情報を盗み取るつもりかもしれない。いや、待てよ。いっそ過剰にドキドキした方が一条をかく乱できるか?
自分の意志で鼓動をコントロールすることはできない。どうする?
「え~? なんかつまんなくない? せっかく一緒の日直になったんだからもっとおもしろいこと書こうよ。放課後に二人でさ」
「うん……そだね」
俺がちょっとでも右側に振り向いたらキスできそうなくらいの至近距離で一条が喋ると耳に息がかかる。そして俺が声を出すために呼吸をすると甘い香りが鼻から全身へと駆け巡る。
心臓は間違いなくフル稼働していた。策士策に溺れるとはこのことだ。顔面の良さとその積極性が仇となったな。女子への免疫がない俺には効果があり過ぎて心拍数が乱れに乱れている。
スパイに接近されてドキドキしている? 違う。シンプルに興奮しているだけだ。だが勘違いはするな? 俺は他の男子とは違う。そういう年頃だから性的に興奮しているだけで恋愛的な感情は一切ない。
「テノールくんって字綺麗だね。初めて見たかも」
「……うす」
やはりこいつはスパイだ。他に褒めるところがないからわざわざ字を褒めるなんて白々しいやつめ。普通の男子高校生なら『俺のこと好きなんじゃね?』と勘違いしていたことだろう。訓練されたスパイのハニートラップは恐ろしい。
「あ~、ごめんね。テノールくんって呼ばれるのイヤだった? どう考えても声が裏返っちゃっただけだもんね」
「あの、いや……えと」
「今は普通の声だし、ちょっと渋さがある感じ? オトナな雰囲気っていうのかな。なんか他の男子とは違うかも」
「…………」
隠しているはずのオトナの魅力に気付くとはなかなかやるじゃないか。不覚にもちょっとだけ喜んでしまった。
今すぐにでもZで今の状況を報告したいが、スパイの目の前でそんなことをすれば一発で素性がバレてしまう。早くどっか行け!
「こんな綺麗な字と一緒にコメント書くの超緊張する。どうしよう」
どうしようって言われても。だったら一条は何も書かなければいいじゃないか。別に先生だってそんなに細かく見ないだろうし。黒板消しだってちゃんとやってるんだからあとはゴミ捨てとかやれば完璧だ。
「ねえねえ、上手に字を書くコツ教えてよ。放課後」
「えぇ?」
「お願い! 今日だけでいいから!」
体が密着した至近距離で断ったらスパイに何をされるかわからない。頭に銃を突き付けられているようなものだ。運動神経だって一条の方が良いからリアルファイトになったとしてもたぶん俺が負ける。
俺は真実に気付いただけの一般男子高校生で相手は訓練を受けた宇宙評議会のスパイ。宇宙人の力だって使えるかもしれない強敵だ。
これがハニートラップか。女子への免疫がないことをいいことに好き放題やりやがって。心臓の音がうるさい。落ち着け。まだ放課後まで時間はある。Zで相談するんだ。
そして思い出せ。俺の目的は一条を倒すことじゃない。籠絡されないことだ。どんなに密着しようがキス寸前まで顔が近くなろうが関係ない。俺はこの女に騙されない。それでだけでいいんだ。
「うん。わかった」
「やたっ! 絶対だよ。速攻で日誌を提出して帰ったら怒るからね?」
「…………」
すでに却下したプランまで一条に釘を刺されてうなだれるように頷いた。もう逃げ場はない。おそらく一条は俺が真実を知ったことに気付いている。
あの手この手で情報を抜き取るつもりだ。わざわざ俺なんか字を教わらなくても籠絡済みのクラスメイトを頼ればいい。
俺だけが攻略できずに焦ったか? そう考えればあながち一方的な状況でもない。一条にも絶対に隙がある。
「それじゃあ影野くんよろしくねー」
ようやくスパイから解放されて手が汗でびしょびしょになっていることに気付いた。よほど緊張していたらしい。
汗でスマホを滑らせないようにしっかりと握ってZを開く。
―スパイに至近距離まで近付かれた。このあとも二人になるタイミングがある。どうすればいい? #宇宙評議会 ―
5時間目の授業が終わったあとに誰かから返信が来てないか確認しようと思ったらすぐに反応があった。やはり同志は心強い。
―いっそこちらから行動を起こすのはどうだろう。「スパイめ……」と相手にだけ伝わる程度の小さな声で。その結果、相手が何か大きなアクションを起こせば警察沙汰に発展する。 #宇宙評議会―
―警察もすでに宇宙評議会の手に堕ちているのでは? ここは時間が過ぎ去るのをおとなしく待つのが得策かと。 #宇宙評議会―
―このまま怯え続けるのも精神衛生上よくない。多くの公的機関はすでに宇宙評議会に堕ちているが、表向きはまだ地球人の味方である必要がある。残りの高校生活を安心して過ごせると思えば一瞬の勇気だろう。 #宇宙評議会―
どうやってやり過ごすかを考えていた俺にとってこの意見は目から鱗だ。あえてこちらから動く。一条としても想定外だろう。俺を消そうとヤケを起こせばさすがに警察沙汰になるし、俺へのハニートラップは無意味だとわかってくれれば残りの高校生活は平穏なものになる。
同志を頼ってよかった。放課後への不安が少し軽くなった。字を綺麗に書くコツなんてまったく意識したことがないのであとで調べておこう。ネットで学んだ知識はいつだって役に立つ。
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