第3話  指を握らせてください

 7月28日、「あのー、起きなくていいんですか?」と聞き慣れない女性の声が耳に入ってくるのが分かった。しかし、慣れていなかった所為か、母親の声じゃないから起きなくていいや、と楽観的に考え意識も身体も起こそうとしなかった。


 しばらくの間、瞼を閉じ続けていると「いい加減起きてください!」と叫び声が聞こえた瞬間、腹部に強い衝撃が走る。瞼を開けると怒っている菫が目線の先にいた。


「朝からいきなり何するんだよ!」

「何回起こしても全く起きる気配がないんですもん。そうしたら時間ばかりが過ぎていって、あなたが昨日『7時代に起きなきゃな』みたいなこと言っていたので無理矢理にでも起こしたんですよ」

「だ、だからってチョップはないだろ」悶えながら俺は言う。

「今は7時半くらいなのか?」

「いいえ。8時ピッタリです」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はベッドから跳ね起き、急いで制服に着替えた。もしかしたらだが、下着姿を見られたかもしれないと考えたがそんな細かいところまで配慮する余裕はなかった。


 リュックを担ぎ、急いで階段を下りると、今日は母親の存在はなかった。どうやらもう職場へ向かったらしい。


 俺は弁当を取りに行く為に急いでリビングに向かう。テーブルの上に置いてある弁当をリュックの中に入れると俺は急いで玄関を出る。自転車に乗る。菫に乗るかどうかを聞くと、「急いでいるようなので飛んで付いて行くので大丈夫です」といわれたので、鍵を解いて学校へ向かう。


 道中、何回か信号無視をしかけたが、その度に菫に止められた。


 自転車を漕いでいる間、菫はリュックの右側にあるポケットを掴みながら浮遊していた。


 数10分かけて学校へ着く。

 自転車を小屋に停めると俺は急いで教室へ向かう。正面玄関を通り靴を履き替え少し進むと大きな廊下へ出る。


 すると、そこには数10人の男女の生徒の集団がいた。俺は馬鹿が馬鹿やってるな、と思っていつも通り素通りしようとするとワイシャツの袖を後ろに強く引っ張られる。あまりにも急なことだったので危うく声が出そうになったが口の中でそれを飲み込んだ。


「どうしたんだ?」

「ひ、人の集団を見ると、その……怖いんです」

「無理してついて来なくてもよかったのに、本当に大丈夫か?」

「だだだ、大丈夫です。あれくらいの人数ならまだ問題ありません」明らかに強がりの声だと判断できた。

「そうか。それならいいけど」


 不安が残りつつもクラスへ向かう。向かう最中、菫との距離が近い所為か何度も何度も足が当たり正直歩きにくかった。


 俺はチャイムが鳴るギリギリでどうにか自教室へ着くことができた。恐らく、鳴るのに後20秒もなかったと思う。


 教室へ入ると、室内にいた奴らのほとんどが一瞬だけ俺の方に目線を向けるが、すぐに各々がやっていることに目線を戻した。


 俺が席に着いた瞬間チャイムが鳴る。疾風が俺を揶揄いに来ると思ったが、時間がなかったのか俺の近くには寄っては来なかった。


 しかし、ホームルームが終わると疾風はこれみよがしに近寄ってきた。菫は疾風に相当ビビっていたのか、身体を縮めて俺の傍に寄って来た。本当に大丈夫なのだろうか。


「あれれ?改善するんじゃなかったのか?今日はヤケに遅いじゃんか。逆タイムアタックでもやってんのか?」

「違うわ! というか、俺は近いうちにって言ったんだ。別に明日すぐに改善するなんて俺は言ってないぞ」

「チッ、細かいところまでしっかり覚えていたか。まあ、明日から夏休みだからそこでどう変わるかだな」

「何様だよお前は」

「疾風様かな」

「よく言うよ、お前は」うっぜぇな。

「はは。まあな」と疾風は笑いながらいう。「そう言えば、お前なんでそんなに後ろばっか気にしてるんだ?」

「え? いや、なんでもないけど」

「そうか、ならいいけど」


 俺は無意識の内に菫の方を見てしまっていたらしい。きっと違和感を残しながら疾風は自席へ戻って行っだろう。疾風と話している間も、菫は俺の袖を強く握っていた。


 俺はそれから1時間目の授業を受け始める。ノートと教科書を机の上に開き、教師の話を淡々と聞いていた。とはいっても、ほとんど聞いていないに等しかったけどな。


 授業が進んでいくと教科担任の教師がプリントを配布し始めた。


 俺は後ろにいる奴にプリントを配ると同時に菫の表情を確認すると、今にも嘔吐寸前というような顔付きになっていた。


 俺は小声で「大丈夫か?」と彼女に問いかける。すると、彼女は「だい……じょぶ……ですよ」と途切れ途切れに言い返してきた。


 流石に可哀想だと思ったので、担任にトイレに行くとだけ告げて、菫を連れて隣にある空き教室へと入った。


「もう無理するなって、放課後までここで待機してろ。ここなら人そんなに来ないから」

「い、いやです」

「なんだってそんな」

「だって、1人ボッチでいるのはもっといやだからです」


「だからって」と追加で何か言おうとしたが、脳裏に彼女が首を吊って死んだことが浮かんできた。彼女が1人でいることよりも嘔吐寸前になるようなあの空間を選ぶのには生前に何か辛いことがあったのだろう。それとも十年間ずっとあの倉庫にいたからなのか。


 まあ、ただ俺という唯一まだギリギリ信頼できる人間がいるならどこでもよかったのかもしれないが、俺は彼女に面と向かって「それはダメだ」なんて強制するのは胸が締め付けられるような感覚を感じ取った。だから、俺は対策案を考えた。


「流石に辛いままいられると俺が授業に集中出来ない」

「元々集中してなかったじゃないですか!」

「それは仕方ないんだ無視してくれ。とりあえず、アンタがあんな状態じゃ俺も気が気でない。だから、どうしたら平常心であの空間に居られるかのを考えよう」

「は、はい」


 しばらく俺と菫は黙り続ける。菫は返事こそはしてくれたが、到底、物事を考えられる状態ではなかった。


 俺自身もここに長居し続けると教室に戻った時に教師に事情を問い詰められてしまう。なんて応えればいいかも分からない。なので、頭を最大限回転させて俺は最善案を考えるが特に何も思いつかなかった。


 悩みきっている俺を心配そうに見ながら背中を小突いてきた。「どうしたんだ?」と俺は問いかける。すると、彼女はモジモジしながら俺の左手を指差す。


「あ、あのあなたが良いのならその……左手の指のどれかを握って良いですか。体温を感じていると安心するので」

「え!?」


 予想していなかったことを言われ、変に高い声が出てしまった。腰も抜けそうになった。どうにかこの状況を受け入れ深呼吸をし、心を落ち着かせた。


「い、いきなり何言い出すんだよ」

「何ってそのままの意味です。指を握らせてください」


 俺はそれからしばらく、どの指を握らせればいいのかを考えた。その末に、小指ならいいだろうと考えて、俺は指を菫に差し出した。すると、彼女は恐る恐るそれを優しく握り、少しだけ顔が緩んだのが分かった。


「それじゃあ、教室に戻るぞ」

「う、うん」


 それから教室に戻り続きの授業を受けたが、どうやら戻ってくるのが案外遅かったらしく10分ほど時間が経つと休み時間に入ってしまった。次の授業の準備を終えると、疾風が近づいてきた。


「どうしたんだ? お前にしちゃ珍しく長い便所だったな。便秘か?」

「違うわ! ただ快便だったってだけは言っておくよ」

「そうか。それなら沢山出て時間かかるのも仕方ないな」馬鹿にするように疾風は笑った。


 休み時間は終わり次の授業が始まった。俺は教師の話を聞きもせず右手でペン回しをしていた。左手はというと幽霊に占領されていた。俺は菫が小指を握りやすくするために少しだけハミ出すように左手を置いた。


 それを3時間目でも行い、昼休みに入る。俺はいつも通り疾風の席にお弁当を持って向かう。


 疾風は今日は弁当を持ってきていたらしく美味そうに見えた。不思議なもので、人の弁当というのは何故か自分の弁当よりも美味しく見えてしまうのだ。


俺も自分の弁当を開き、食べ始めようとするが、ここで1つのちょっとした違和感を感じた。左手が掴まれている所為で弁当箱を持つことが出来ないのだ。頑張れば出来そうだが無理に持つとすぐに落ちてしまうような気がしてなかなか持つこと出来なかった。


 俺は彼女に離して欲しいという意図を込めて左手を軽く揺らすが、むしろ掴む力を強くする。幾ら揺らしても離れない菫が段々と鬱陶しく感じてしまう。空腹の影響かは知らないが俺は我慢の沸点が低くなっており菫に向かって怒鳴ってしまう。


「少し離してくれ!」


 怒鳴った瞬間、辺りが静まり返る。

 恐らく、他の人から見たら何もない空間に向かって怒鳴り声を言い放ったように見えただろう。


 クラスに居た人間のほとんどが俺に視線を向ける。異質な者や不審者を見るような目つきだった。反対側にいた疾風も同じような目つきで俺を見ていた。「ちょっとトイレに行ってくる」と言って、俺は菫を連れて足早にその場から立ち去った。


 俺はとりあえず、人気のない所を探した。すぐに思い付いたのは屋上の入口へ続く階段だったのでそこへ向かった。その場所へ着いた頃には俺も菫も息が上がっていた。


「ちょっと! いきなり走らないでくださいよ」

「仕方ないだろ。あのままずっと教室に居たら何言われるか分かったもんじゃない。だからいきなり走ったんだよ」

「それもそうですね」と少し不機嫌そうに言った。恐らくさっきの出来事で怒っているのだろう。まあ、当たり前だよな。

「さっきはその……すまなかった。あんな小さなことでカッとなって」

 素直に謝ると彼女は、少し怒っているような呆れたような顔をしていた。


「別にいいですよ。あれくらい」

「本当に悪かったって思ってるよ。自分で小指を差し出しておきながら。昔からの悪い癖なんだよ、些細なことで怒っちゃうんだよ」

「だから良いですって、それよりもあなたの方が大変なんじゃないですか? 叫んだところを大勢の人に見られて」

「別に大丈夫だろ。アイツらからしたから関わったことのない人間が関わったことのない変質者に変わっただけだよ」

「でも、昼食を一緒に食べようとしたあの人はそうもいかないんじゃないですか?」

「そうでも無いさ。適当に虫がいて叫んだとか言えばいいんだよ。こうやって話している光景を見られるとマズイけどな」

「それなら結構もうマズイですね」

「なんでよ?」

 俺がそう彼女に問うと、無言で俺の後ろを指さした。どうしたのだろう? と思い後ろを向くとそこには目が点になっている疾風が居た。


「お前なんで何も無い空間に話しかけてるんだ?」


 疾風は不思議そうに俺に問いかけてきた。

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