第15話 贖罪

 果実の甘い香りに混じって、ツンと鼻に付く消毒液の臭いがする。

 白いカーテンで仕切られた部屋の奥には、眠った彩華の体がベッドに横たえられている。

 その腕には点滴の注入装置がテープで固定されていて、細いチューブがそこから伸びている。

 コードの終着点には金属製の柱に吊るされた透明のパックに繋がっていて、ポトンッポトン、と液体が落下していた。

 口元には酸素呼吸器。体のあちこちには透明の電極パッド。


 静寂な空気に響いているのは空調設備の重々しい駆動音と、ピッピッ、と一定のリズムで刻まれる機械音。音の出元はベッドの隣に据え付けられた心電図モニター。それだけが、彩華の心臓が動いているのを示唆していた。


 彩華はこの特別療棟の個室に移された。

 夜九時になると、赤いランプが消された。彩華はストレッチャーに載せられて集中治療室から、この部屋まで移動させられたのだ。


 それから、三時間。彩華は麻酔が切れているというのに、一度も目を覚ましていない。

 結局、将純はその日、家に帰らなかった。彩華の元を離れずに、ずっと一緒にいる事を選んだのだ。

 目を覚ました時に、誰もいないのは寂しいから……


 そして、もう一つ。

 彩華から託された義務を果たすため。

 窓からの景色が深夜から早朝に移り変わる間、将純は一睡もしないで、ずっと彩華から貰った『リドアク』を何度も読み返していた。

 もう見返さなくても、どのページがどんな内容で、どんな絵だったかも想像できる。けれども、ずっと朝まで読み返した。

 頭の中に漫画が完全にインプットされた時には、日は完全に昇っていた。今日は月曜日。今、紗季たちは授業を受けている時間だ。


 でも、学校に行こうとは思っていない。一瞬たりとも彩華から離れたくはない。

 代わりに、母が持って来てくれたリュックから、ノートパソコンを取り出す。起動すると、迷わずに文章作成ソフトを開く。

 もう覚悟はできている。後は努力だけだ。


「よし、やるぞ」


 今日は一度も眠っていない。不眠最長時間を常に更新し続けている。

 けれども、眠気は不思議となかった。あるのは、義務感や使命感の類。

 傍にいる彩華の存在を拠り所として、将純はキーボードを指先で叩き始めた。


 午後二時頃、一番短かった第一章の内容を書き終えた。やっぱりプロには到底及びもしない出来前で、とにかく酷い。けれども、前回に書いた内容より格段に上達していて、楽しかった。

 途中で眠くなったりもした。それでも、眠ったままの彩華の存在を闘志に換えて、眠気を吹き飛ばした。

 途中で彩華の編集だという男性がお見舞いに来た。ちょっと雑談をしたら、仕事に戻っていった。


 午後七時。部屋に備え付けのコーヒーを飲んでみた。産まれてから初めてのコーヒーは喉を刺すように苦く、吐き気を覚えるのには十分だった。この感覚は一生忘れない。

 相変わらず出来の悪い作品を読み直し、内容の流れを考える。足りていない設定は途中に付け加え、余分に感じたシーンはカットしていく。

 この時では、まだ全体の二十分の三程度しか完成していない。決して余裕があるわけじゃないけれど、一歩ずつ着実に進んでいく。

 カフェインの効果が薄れて、眠くなってきた。消えそうな意識を気合で繋ぎ止めるのは、そろそろ限界のようだった。

 仕方がなく、一階にある二十四時間営業のコンビニへ向かう。目的の品は栄養ドリンクとカフェイン入りのガム。

 病室に戻ると、栄養ドリンクを飲んだ。ジュースよりも際立った甘みで、不味くはないが薬のような苦みもある。重かった瞼と一緒に、財布の中身も軽くなった。


 二日目になると、紗季と大助がお見舞いに来た。

 紗季の右手には花びらを付けた桜の枝。

 彩華が好きだと言っていた花だ。いつもは破天荒な性格の紗季だが、この時ばかりは静かに花瓶へ活けていた。


「来てくれてありがとう、二人とも」


 全力の感謝を込めて、お礼を言った。


「友だちの事だからね」


 微笑む大助の視線の先には、眠っている彩華の姿。

 一時間もすると、二人は家に帰った。夢へ踏み出した将純を激励する言葉を残して。

 将純には、ほとんど集中力が残っていない。けれども、ガムを全て口に放り込んで、意識を覚醒させた。完成には程遠いけれど、半分以上は完成していた。


 午後八時。頭はもう真っ白だった。でも、手は勝手に動いて、次々と文章を綴っていく。

 途中で母がくれたサンドイッチを腹に収める。思い返せば何も食べていなかったので、胃は急に空腹を主張してきた。

 でも、そんな事をいちいち気にはしていられない。

 眠い、とにかく眠い。

 視界がぐわんぐわんと歪み続けている。瞼を閉じれば、睡魔の濁流に意識が飲み込まれそうになる。病室の白さが目に痛い。栄養ドリンクを三本まとめて飲んだ。吐いた。まだ諦める訳にはいかなかった。義務を果たしていないのに、眠れなかった。


 三日目の午前四時。ついに限界を迎えた。意識が飛んで、椅子から転がり落ちた。

 パソコンは無事だったけれど、クリティカルヒットした後頭部は死ぬほど痛い。でも、充血した目はしっかりと起きた。今の鈍い音で彩華が起きた事を期待したが、カーテンを開けても眠ったままだった。心電図の機械音だけが鳴り響いていた。


 午前十二時。一応、全て完成した。内容は後半になるにつれて上達していたが、やっぱり粗が目立つ。これでは、彩華に見せる事はできない。

 荒れ狂う眠気を無理やり抑え込んで、何度も不自然な点を書き直していく。いつ倒れても、おかしくなかった。でも、彩華が目覚める事を信じて書き続ける。


 そして、朦朧とした意識で文字を打ち込んでいた時。


 そして、小説が自分の中では完成と思った時、不意に電子音が止まった。


 空調設備の方じゃない。ピッピッ、と今まで鳴り続けていた心電図モニターの音が、止まった。


「…………え?」


 意識が一瞬にして覚醒した。

 嫌な汗が、体中から噴き出てくる。脈拍が急に上がった。心臓がドクンドクンと高鳴った。


「おい、……嘘だろ、なあ」


 よろけるように、椅子から立ち上がる。その際にパソコンが落ちた気がするが、気にならなかった。

 カーテンに手を伸ばす。しかし、指先は届きそうで届かない。距離は果てしなく遠い。

 嫌な予感がする。何かが見えない所で消えていった予感が。嘘だ、そんなはずない。そんな事はあってはならない、絶対に。


 …………そんな事ってなんだ?


 残りの距離が縮むと同時に、様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。呼吸が速くなる。視界が白く染まる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。手を伸ばす。ひたすら、前へ前へ。

 でも、動けない。これ以上は進めない。声も出せない。

 不意に、耳元で囁いた声がした。


『逃げないって、決めたんだろ?』


 そして、そっと肩を押す手の感触。

 どこか懐かしく、どこか悲しい声。誰の声なのか、少しもわからない。

 でも、その声は動かなかった将純の手を前に伸ばさした。


 ——そうだ、俺はもう逃げない


 やっと震えている指先がカーテンに届いた。ゆっくりと掴む。

 心臓は高鳴ったままで、頭は張り裂けそうなほど痛かった。けれども、息を整えてカーテンを一気に開く。

 草原を渡る風のような微かな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。


「……ああ」


 口から悲嘆に似た、短い声が出た。

 雪のように白い診察衣を身にまとった少女が、ベッドに上体を起こして窓の外を見ていた。

 つややかな長い黒髪に、透き通った肌。細い両手は体の前に置かれ、その中には電極パッド。


「彩華」


 音にならない声で、その横顔に呼びかける。瞬間、少女の肩が震え、こちらを振り向いた。

 知らないうちに少女の筋肉は明らかに衰えていて、肌は死人のように青白い。

 でも、しっかりとした視線が、まっすぐに将純の目を捉えた。


「…………」


 少女の瞳は将純を射抜いていたが、黙ったままだ。やっぱり、まだ怒っている。

 だけれど、将純には言うべき事を知っている。一番最初に言おうと思っていた。


「ごめん」

「…………」

「全て、俺が悪かった」

「……」

「でもさ、今さら俺がそんな事をほざいても、無駄だと思うんだ。だから、代わりにこれを読んで欲しい」


 そう言いながら、落としていたパソコンを拾い上げる。少しだけ画面は割れていたが、動作に支障はない。

 彩華の目には明らかに怒りの感情が籠っていた。けれども、パソコンを差し出すと、拒否することもなく受け取ってくれた。

 これなら、俺がどれだけ真剣なのか伝えられる。

 言葉にできなくても、想いは伝える事ができる。


「それは彩華が渡してくれた『リドアク』の小説版」


 説明するまでもなく、彩華の目は画面の文章を追っていた。目が右から左へ動いていく。

 次々と文章をスライドさせて、表情を変えることなく読み進めていく。

 すると、彩華の片眉が、ぴくっと跳ねた。顔を上げた彩華の冷たい眼光が射抜いてくる。


「ど、どうした?」

「…………」


 何も答えないまま、彩華は視線を画面へ戻した。

 もの凄いプレッシャーが肌を突き刺す。その沈黙が何よりも恐ろしい。今すぐでも、この空間から逃げ出したかった。

 でも、もう逃げないって決めたんだ。

 胃の中身が逆流しそうだ。それでも、恐怖心を抑え込んで彩華が読むのを待つ。


 彩華が今読んでいるだろうシーンは、ずっと魔王として自分の殻に閉じこもっていた勇者エイジを、魔王エリアが旅へ誘う場面。


 彩華の病気を知った将純は、エイジに彩華の姿を重ねていた。

 ずっと彩華は病院から出た事がなかった。ずっと病室で過ごしてきた。

 勇者エイジもそうだった。ずっと自分の殻に閉じこもり、何にも心を揺れ動かさない。


 もしかしたら、彩華はエイジに自分の境遇を重ねて書いたのではないか、そう思った。


 魔王エリアに連れ出されたエイジは、世界の広さを知る。病院から飛び出した彩華は、世界の美しさを知る。

 自分の知らない世界に振り回されながらも、二人は苦難を乗り越えていった。


 それを表現したかった。ずっと彩華を隣で見てきたんだ。その感動を表現したかった。

 自分では、めちゃくちゃ面白いもんを書いたと思う。プロには勝てなくても、最高の作品を書けた自信がある。絶対に面白いと思ってもらえる自信が。


 しかし、彩華は眉をひそめただけで、他に何の反応もしなかった。

 面白くなかったのだろうか。


 彩華は氷のように冷たい顔をしていて、何の感情も読み取れない。少しぐらい喜怒哀楽を表現して欲しい。

 そう考えていたら、全身が動かせなくなった。見えない誰かに拘束されたような、ある種の不快感。心臓を鷲掴みされたような圧迫感。


 緊張している。

 読み終わったら、彩華から「面白くない」と言われるのが怖い。

 全力で打ち込んだ物を否定されるのが怖い。

 たった数日分の努力でも、それを他人に否定されるのが怖い。

 怖い。嫌だ。逃げ出したい。心が折れそうだ。

 将純の『逃げない』という覚悟は、あっさりと儚い泡になった。崩壊してしまった。

 真っ白になった。

 目の前も、頭の中も。

 やり遂げた自信はあった。

 でも、れで面白いのかと問われたら、「絶対に面白い」と即答できる自信がない。

 悔しい。

 今まで何も努力してこなかったから、否定されるのが怖い。

 努力したら、逃げ出せないんだ。

 そんな場所で、彩華は戦っていたんだ。

 脳内でサイレンが鳴っている。赤い光が明滅していた。

 ふと背後に人の気配がした。振り向くと、難しい顔をした医師がいた。


「将純君、何度も呼びかけたんですよ」

「……すみません」

「心電図モニターが停止したので駆け付けてみれば、彩華さんは起き上がって小説を読んでいて、貴方はそれを眺めていたんですよ。二人とも話し掛けても反応しなかったので、驚きました」

「……すみません」

「彩華さんと喧嘩でもしたんですか? もしよかったら、何があったのか聞きますよ」

「いえ、これは俺が一人で向き合うべきです」


 彩華を見つめながら、医師に答える。


「そう、ですか。……そうですね、彩華さんとは貴方一人で向き合った方がいい」

「ありがとうございます」

「私はこれで失礼します。ひと段落終えたら、ナースコールで呼んで下さい」


 そう言い残して、医師は部屋から出ていった。彩華は気付いていない。

 白く濁っていた頭の中は、霧が晴れている。

 視界も不思議な事にずっとクリアになっている。

 もう逃げたいなんて思わない。


 彩華は黙って細い指で画面をスクロールしている。

 沈黙が広がっている。でも、今はそれが心地いい。


 窓から差し込んでいた陽光は西の空に沈んで、代わりに夜空が広がる。あるのは淡い月明かりと画面から漏れ出る電子光だけ。

 将純はずっと待った。身動きも取らず、眠気さえも忘れて。


 何かに一生懸命になるってのは、その分だけ、失敗した時の反動が大きくなる。

 かけた時間、込めた想い、成功への期待が膨らめば膨らんだだけ、否定された時の絶望が大きくなって跳ね返ってくる。

 だから、何もしない。何も努力をしない。

 それが今までの将純だ。でも、今は違う。変化を恐れていない。

 逃げないって決めたんだ。


 そして、変化が訪れた。

 部屋を仄かに照らしていた電子光が消えた。彩華がパソコンを閉じたのだ。


「……ねえ、君」

「ごめん」


 反射的に謝っていた。


「これ、君が書いたの?」

「……ああ」


 答えると、彩華は黙って考え込んだ。

 心臓がどくどくと高鳴っている。緊張が痺れとなって全身を支配する。

 それでも彩華が話すのを待った。でも、出てきたのは意外な言葉だった。


「……どれだけ書いたの?」

「え?」


 恐ろしい眼光が射抜いてくる。


「何時間わたしは眠っていたの?」

「……丸々三日間」

「その間、君はずっと書いていたの?」

「ごめん」

「学校も行かずに?」

「ごめん」

「馬鹿じゃないの!?」


 鋭い声が部屋中に響く。


「学校にも行かずに書いていたの!? ここで、ずっと書いていたって言うの!?」

「……そうでもしないと、許してくれないと思って」

「そんなの……あんまりだよ。あまりにも理不尽だよ。わたしの想いも考えず、自分の真剣さだけを伝えようとして……」

「違うんだ。違うんだ……俺は、ただ——」

「違うことないよ! わたしはずっと前に死ぬことが決まっていた。運命が決まっていたの。そんなわたしを騙して……」

「それは——」

「許してもらうために、こんな長いのまで書いて……」


 彩華の声が尻すぼんでいく。潤んでいる両目に、月光が淡い光を届けている。


「……俺は彩華が好きだったんだ。本当に大好きだった」

「それを伝えるだけの為に、これを書いたの? そんな隈を貼り付けた顔で」


 やっぱり、彩華には徹夜をしている事がバレていたらしい。考えてみれば当たり前か。鏡を見た時の自分の顔は悲惨の二文字以外に考えられなかったから。

 目は充血していて、顔は血の気が引いて真っ青。鏡で自分の顔を見た時は、死人みたいだと思った。

 体調を崩すのは百も承知だ。だって、これしか道はなかったから。


「こんなの、ひどいよ」

「……ごめん」

「ここまでされたら、許すしかなくなっちゃうよ」


 思わず顔を上げると、彩華の顔はもう怒っていなかった。

 言いたい事は全て言って、もう言い残した事はないのだろう。

 でも、将純にはまだ言い残している事がある。これで一件落着になるのは、将純の矜持が決して許しはしなかった。許せなかった。


「なあ、彩華。俺もさ、怒っている」


 彩華が息をのんだ。驚いた顔が視界に焼き付く。


「彩華は腎臓病だったんだな」

「うん」

「それをずっと昔に知ってたんだよな」

「……うん」


 急にしゅんと萎れるように顔を伏せて、彩華は小さな声で答えた。


「何で俺には言ってくれなかったんだ」

「……ごめん」

「何で、何で俺には一言もなかったんだよ!」

「それは、心配を掛けたくなかった、から」


 嘘ではない。将純にはわかる。けれど、本当かどうかは別の問題だ。


「突然、倒れてしまったら心配するだろ!」

「……ごめんなさい」

「それで彩華が死んでしまったんじゃないかと思って……俺は心臓が止まるかと思ったんだぞ!」

「……」

「わかってんのか?」

「……」

「今回のことは俺の責任だ。けれども、自覚持てよ」

「ごめん」


 本当は、彩華を失いたくなかっただけだ。手を伸ばしても届かない所に行ってしまうのが怖かっただけだ。

 元から彩華は将純のずっとずっと先にいる。それでも、実際にはずっとずっと近くにいた。

 一人の少女として。

 ただ、目の前から失いたくなかっただけなんだ。


「どこか内心では気付いていたんだ。どれだけ彩華がプロの漫画家だろうが、本当は……年端もいかない女の子だってさ。大胆で、好奇心旺盛で、でも静かで、凄く優しくて、真っ白な純粋でさ、そしてめちゃくちゃ可愛くて……俺はそんな平池さんが好きだったんだ、失いたくなかったんだ」

「……ねえ、君。それって、褒めてるの? 怒ってないよね」


 自分の言葉を心の中で反芻すると、いつの間にか凄く恥ずかしい事を話していた。

 調子が狂って、頭はまともに思考してくれない。自分の頬が赤くなるのが手に取るように分かった。


「と、とにかく! つまり、俺が言いたいのは、次からは俺にも相談して欲しいんだ」

「……うん」

「何か困った事があったら教えて欲しい。ずっとそう思っていたんだ。平池さんが眠っている間にさ」

「……うん」

「俺は彩華のように何も持ってない。でも、彩華が眠っている間に、自分なりで考えたんだ。こんな俺でも、何かできるはずだって。だから、それを書いてみたんだ」


 視線を彩華の手元に落とす。そこには一台のパソコン。


「思っている以上に難しかった。でも、楽しかったよ。そう思えたのは彩華のおかげだ」


 ずっと彩華はあの場所で戦っていた。それを思えば、将純も努力するしか他にない。


「なあ、次はさ。俺も目指してみようかなと思っているんだ。次は嘘じゃなくて本当にラノベ作家になりたいんだ」


 静かに、将純は最後の言葉を告げる。


「そんだけ……悪かったな。変なこと言って」


 でも、それでは終わらなかった。


「できるよ。君になら、きっとできるよ」

「へ?」


 彩華の言葉が、よくわからなかった。


「きっとなれるよ。君が書いたこの小説は面白かった。うん、面白かったよ」

「…………」

「でも、その時には、わたしはもう死んでいるかな」


 心臓がきゅっと締め付けられる感覚がした。声が出ない。俯いて悲しそうな顔をしている彩華に声を掛けれない。

 本当に彩華が死んでしまうんだと、大人になる日は永遠に来ないのだと、今さらにして理解してしまった。


「わたしは絶対に死んでしまう。運命は変えられない」


 身動き一つ出来なかった。


「でもね、それまでの事は変えられるんだ」


 だから、わたしが死ぬまでにたくさん美味しい物食べて、いっぱい綺麗な景色を見ようね。彩華はそう言った。


「わたしは死んでしまう。でも、それでもよかったら、これからも宜しくお願いしたいかな」

「俺は、俺は彩華を傷付けてしまった。そんな俺でも……いいのか? 最後の時間をこんな俺と過ごして良いのか?」

「……うん」


 わからない。酷い事をしたのに、どうしてそんな簡単に許せるのか。

 どうしてそんなにも嬉しそうに微笑むのか。どうしてそんなにも優しいのか。もう将純にはわからなかった。

 ぐちゃぐちゃとした頭で考えていると、彩華の綺麗な瞳が見つめてきた。


「じゃあ、一つ約束してくれないかな」


 彩華が悪戯を仕掛けるような顔で、細い人差し指を立てて、体を動かして将純と向き合った。


「……約束?」

「うん、とても簡単だよ」


 開いた窓から吹き込んで来た風がカーテンを揺らし、棚に飾られているフルーツの優しい匂いを運ぶ。

 まだ夜は明けそうにない。けれども、この夜はもう一人ではなかった。ここに求めているものがあるから。もうこれからは平凡な生活は戻ってこないだろう。でも、それが誇らしい。


「それは…………」

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