第14話 代償

 そこから何が起こったかは、断片ながらにしか覚えていない。

 何度か失敗しながらも携帯で救急車を呼んで、赤い回転灯を瞬かせた救急車が家に駆け付け、白色の服で身を包んだ男たちが降りてきて、彩華の体をストレッチャーで車内に運んだ。

 呆然としていた将純は、それらを見ているだけしかできなかった。何もできなかった。


 記憶の断片は、ここまでだった。そこからは、はっきりと覚えていない。

 そして気が付けば、病院の集中治療室前のベンチに座っていた。


 時刻は八時。すっかりと太陽は西に沈んでいる。

 本来、総合病院は営業時間外だ。館内の電気はほとんど落とされていて、光源は非常灯だけ。暖房も消されていて、肌が凍えるように寒い。

 でも、それが将純に落ち着きを取り戻させ、やっと冷静に考えられる時間ができた。


 ——どうして、こんな事になったんだろう。


 何度と自問しても、答えは見つからない。全て将純が悪いのは理解している。でも、彩華が倒れてしまった原因が思い当たらない。

 思い当たるのは、たった一つだけ。将純の嘘だ。


 もし、あの時に嘘を付かずに、彩華と仲良くなりたいと正直に伝えていれば。

 もし、あの時に『リドアク』の原稿を受け取らなければ。

 もし、あの時に逃げ出さずに真実を伝えていてば。

 もし、あの時、あの時に、あのときに、異なる選択をしていれば。

 違う未来が待っていたかもしれないのに。

 最悪の目を引き続けたのは、将純だ。責任は重大だ。だけれど、今の将純には何もできない。


「何もできない……」


 無力で、頼りない。この手では、何も救えない。

 この小さな手では、零れ落ちるものを掬えない。

 無力感で打ちひしがれていると、不意にドアがスライドし、白衣を着た長身の看護師が出てきた。

 見ると、手術中を示す赤いランプはまだ点灯している。

 そのまま医師がまっすぐに近づいてくる様子を、将純はただじっと見つめた。

 悲しそうな顔を浮かべている男に向けて、将純は無意識で声を掛けていた。


「どう……なんですか?」

「先生も、全スタッフも最善を尽くしています」


 将純は何も言えない。


「何とか一命だけは取り留めました。しかし、病態は極めて深刻です」

「え……」


 今、この医師は震えた声で、何て言ったのだろうか……


「脳の機能が非活性化しているんです。急激なストレスホルモン増加によって交感神経が過剰に働いてしまい、グルコースの血中濃度が上昇。持病の影響もあって、限界以上に増加した糖分が脳細胞を攻撃した結果、今は脳死の一歩手前までになっています」


「…………」


 言葉を失った。知らない単語が多すぎるからじゃない。医師の言葉が少しも信じれなかったからだ。


「意識が戻るのは、五分五分の確率でしょう。しかし、やはり持病の問題は……」

「持病?」


 思わず聞き返す。そんな言葉は知らない。


「ええ、やはり彼女が持つ腎臓病の問題は我々の力では、残念ながら解決できません」

「……腎臓病?」


 悔しそうに話す医師に、将純は問い返した。


「もしかして、彩華さんから聞いていませんでしたか? 永咲将純さん」

「ど、どうして、俺の名前を……」

「それは貴方の事を彩華さんが楽しそうに話していたからですよ」

「…………」


 どうなっている。会話が少しも噛み合っていない。情報の齟齬が生まれている。

 彩華がこの総合病院に運ばれてから、二時間も経っていないはずだ。


「ああ、彩華さんからは何も聞いていなかったんですね。……本来は守秘義務がありますが、この際は仕方がないでしょう。永咲さん、少しお待ちいただけますか? 彩華さんに何かあれば、貴方へ渡すように頼まれていたものがあるんです」


 そう言い残した医師は廊下の先へと駆け去り、すぐに戻ってきた。

 息を切らしている医師が右手に握っていたものを、そっと差し出してくる。

 それは彩華の字で『永咲将純君へ』と書かれた茶色い封筒だった。とても薄くて、中身は紙一枚程度かもしれない。

 でも、その内容が何よりも重い事は、見なくてもわかる。


 封筒を受け取る。中には予想通り一枚だけ便箋が入っていた。

 書き込まれていたのは、びっしりとした文字。

 将純は震える手で、涙で滲んできた目で、その手紙を読み始める。


『永咲将純君へ


 これを読んでいる頃には、わたしはもう世界にいないかもしれません。


 きっと言わなかったと思うけれど、わたしは慢性腎臓病を患っていました。現代の技術では治せないらしいです。


 詳しくは知らないので書けないけれど、この病気のせいでわたしは長く生きられないのは幼い頃から知っていました。ずっと体が弱かったわたしは、人生の大半を病院で成長しました。


 君と出会う四年前に、わたしは余命宣告されていました。長く持っても五年。


 わたしは世界にここで生きたっていう証を残したかった。だから、好きだった絵を必死に学びました。


 今から二年前の事です。幸運な事に、わたしは憧れの漫画家になれました。それから、二年の間に沢山の漫画を出版できました。


 そして、君と出会う一か月前。わたしの余命は一年と診断されました。


 わたしは人生の大半を過ごした病院から飛び出して、世界を知りたかった。だから、主治医に「余命を短くすることになる」と反対されたけれど、わたしは両親の家で最期を迎えることにしました。わたしは夢であった高校生活を過ごせることになりました。


 だけれど、一つだけ気がかりが残っていました。


 君に渡したリドル・アクター、あれはわたしの人生の集大成だった。それを世の中に出すのが、わたしの最後の願いでした。けれども、編集はいつ作者が亡くなるかわからない作品は刊行できない、と許可しなかった。


 そしたら、小説家の君に出会った。君ならわたしの作品を世の中に出せる。君ならわたしの願いを叶えられる。そう信じて君に託した。


 君と出会えてよかった。この三週間、楽しかった。


 病室以外に知っている場所が全然ないわたしに、色んな景色を教えてくれた。ありがとう。わたしに幸せを教えてくれて。


 もしよかったら、わたしの最後の願いを聞いてください。君の文章でわたしの作品を完成させて下さい。


わたしに可能性と幸せをくれて、ありがとう。君には何も残すことが出来ないけれど、君のおかげで、わたしの人生は本当に幸せでした。


 平池彩華』


 手紙の内容は、半分以上理解できなかった。認めたくない。

 彩華に限って『そんな事』はないと思い込みたい。それが何を表しているかは考えたくない。

 でも、そんな事は絶対にない、と打ち消したい気持ちが強かった。


 だから、ぽたり、と音を立てて手紙に落ちた水滴が、自分の涙だと理解するのには時間が掛かった。

 意識とは無関係に、両目から溢れ出した涙が手紙に次々と染み込んでいく。


「彩華……さん」


 喉からやっと出た言葉は、震えている。


「これは、本当のこと…………なんですか?」

「そこに何が書かれてあるかは知りませんが、もし本当のことを知れば、貴方は後で後悔するかもしれません。それでも、聞きますか?」


 鼻をすすって顔を上げる。迷わずにしっかりと頷く。

 涙と嗚咽を零しても、否定の言葉は零さなかった。

 彩華をずっと騙してきたのだ。それなら、医師から告げられる言葉を、一言一句聞き逃してはいけない義務がある。

 必ずけじめは付けなければならない。


「お願いします、教えてください。これは俺の罪だから……」

「わかりました、お伝えします」


 そう言った看護師は、一度、口を黙った。すきま風で、白衣の裾が揺れている。

 腎臓病。

 その言葉は将純でも少なからず知っている。

 悪い生活習慣などが原因で腎臓の機能が低下し、血液がきちんと濾過されなくなる病気。

 そして、進行してしまえば、死ぬ可能性もある病気……


「どこから話しましょうか……。では、まず、病気の説明からしましょうか。永咲君はもちろん、腎臓病については少なからず聞いたことがありますよね?」


「……はい」


 ずっと他人事だと思っていた。

 将純の知人で死んだ人はいない。ずっとテレビの画面越しでしか、知らなかった。

 だけれど、今、そこに足を踏み入れようとしている。迷いはない。

 将純はこれから医師の口から紡がれる言葉を、全て信じて、全て正面から受け入れないといけない。

 どれだけ、苦しくても。


「腎臓病とは簡単に言えば、腎臓の糸球体や尿細管が傷つけられて起こる病気です。ですが、現代の日本では医療技術が確立されていて、完全に治すのは難しくても、そこまで恐ろしいものではなくなりました。しかし、腎臓病にも、さまざまなケースがあります」


 視界が揺れている。

 将純は下腹に力を溜めて、不快感に耐えた。


「——彩華さんのケースは、その中でも群を抜いて最低最悪でした」


 その言葉は淡々としている。

 でも、声の主は何かに対して怒っているのか、唇を噛み締めていた。


「彩華さんの母親は腎臓病を患っていました。その病が判明したのは、彩華さんが産まれてから一年後の二十三歳の時でした。発見された時には、既に医学用語でA2G3aと呼ばれるステージでした」


「つまり?」

「最も治すのが難しいステージです」


 声にならない声が響く。


「しかし、医療技術の恩恵もあって、彼女は延命処置を受けました。ですが……同時に彩華さんに腎臓病が発覚したのです。遺伝性で慢性腎不全、治すのはほとんど不可能でした。ですが、普通なら血液透析や多剤併用治療によって、かなり進行が抑える事が出来ます。ただ一人、彩華さんだけを除いて……」


 現実とは思えなかった。

 ふわふわとした感覚がしている。

 まだ夢から覚めていないだけじゃないのか。


「彩華さんが他の患者さんと異なったのは、血液の特殊性でした。……まず、日本人では30%しかいないとされるO型の血液を所持していました。この血液型は他の血液型の全てに抗体を持っており、ドナーを見つけるのは容易ではなくなります。ですが、これだけだったら、まだ多剤併用治療が使えたのです。しかし、彩華さんはもっと運が悪かった」


 理性はもう既に崩壊寸前だった。

 今すぐにでもその胸倉を締め上げて、嘘だと吐かせたい。

 それができないのは、どこかで信じている証拠。


「彩華さんの血液は、RH因子が陰性だったのです。日本人がこの血液を持っている確率は百人に一人。つまり、二つの条件を満たす人物は単純計算で、たったの千人に三人の確率になってしまったのです。この数字は、ドナーの見つかる可能性を絶望的にしました。……それだけじゃない。ここまで複雑な血液に薬物を投与するのは、拒絶反応を起こす確率が高く危険すぎるのです。そのため、彩華さんは一部の薬剤を除いて使用が制限されてしまい、血液透過だけに頼る事になりました…………」

「……そこに、何の問題が?」

「血液透過は腎臓の役目をサポートするものです。二を三にする事は出来ても、ゼロを二にする事は出来ません……。つまり、腎臓の機能が完全に失われた時、血液透過は事実上で効果を持たなくなるんです」

「…………」

「今から八年前、彩華さんの容体が悪化して入院しました。それから八年以上、彩華さんは病院で成長しました。……私は後悔しているんです。彼女にもっと別の道を与えてやれたんじゃないか、もっと他の世界を教えれたんじゃないかって…………」


 医師は険しい顔で言い切った。まるで自分を責める棘のように、鋭くて冷たい声。

 将純と同じだった。もっと他の選択ができたはずだと、自分を責めている。


「私は将純君に感謝しているんですよ。貴方に出会う前の彩華さんは、いつもどこか寂しそうな顔だった。でも、貴方と出会ってからは、ずっと嬉しそうな顔を浮かべていました。この一週間、あの子は私に一度も涙を見せなかった。…………貴方の存在が支えになっていたのでしょうね」

「……」

「その手紙は、三日前に預けられたものなんですよ。こんなに早く貴方に渡すことになるとは、思ってもいませんでしたが……」


 医師はそこで静かに口を閉ざした。沈黙が二人の間を支配する。将純が黙り込むと、医師は一人にするためか、踵を返して戻っていった。

 すると、突然ぼたりと何かの音が、その脆弱な静けさを打ち消した。


 それは将純の目から落ちたもの。


 涙。


 慌てて止めようと思っても、次々と落下音を鳴らしていく。

 喉から漏れ出る嗚咽は、大きくわなないていた。

 頬を伝う涙は、雨のように軌跡を描いて落ちる。

 それは、現実を突きつけられたからだ。自分の罪の重さを知ったからだ。

 自分が彩華を殺したのだ。この嘘が彩華を殺すのだ。


「……俺が、彩華の支えになってた?」


 ふざけるな。そんなはずがない。

 確かに、将純が彩華の支えになっていたかもしれない。

 幾度となく彩華は笑顔を見せてくれた。

 ずっと笑い方を忘れていたような、ぎこちない笑顔を見せてくれた。

 彩華は電車の切符の買い方も知らない。学校から家に帰るだけで迷子になったり、食事すら自分で用意できない。そして、パンツすら自分で洗えない。

 それは彩華が病院で生活していたなら説明が付く。

 彩華は外の世界を本当に知らなかった。病院という箱庭で育てられた彩華は、世界の広さを知らかった。

 そして……人の嘘を知らなかった。

 ずっと嘘のない世界で過ごしていた。だから、世界の理不尽さを、残酷さを、知らなかった。


「俺は……そんな彩華に」


 嘘を付いた。

 飛び出した彩華が出会ったのが永咲将純だ。

 心細かったはずだ。

 期待に胸を躍らしていたはずだ。

 楽しかったはずだ。

 それなら、確かに将純は彩華の心の支えになっていた。

 でも、人の悪意を知らない雛鳥に、将純は嘘を付いていた。

 裏切られた時の感情は、他人よりもずっと大きかっただろう。


「俺は……なんてことを」


 それが彩華を殺してしまうかもしれない。

 それが彩華が倒れる原因を作ったのは、もはや自明だった。

 もう自分ができる事は何もない。

 彩華にしてあげれる事は何もない。

 全てが手遅れ。何をしても、全て無駄になる。

 将純の想いも、何もかも彩華には届かない。


「マサはどうしてここにいるの?」


 驚きを含んだ声。


「母さん」


 顔を上げたその先には、訝し気な顔をした母が立っていた。


「なんでマサがここにいるの? その顔じゃ、私の帰りを待っていたみたいじゃなさそうだし」


 そこで気が付いた。

 この総合病院は、母が看護師として勤めている病院だった。

 でも、そんな事はどうでもいい。

 燻る感情を誰かに聞いて欲しかった。


「母さん、俺さ、友達に嘘付いてたんだ……」


 自然と言葉が口からぽつりぽつりと溢れ出てくる。

 何も考えず、感情に任せて全てを話す。

 母は急な事なのに口を挟まず、じっと将純の話を聞いている。

 今だけは、それが有り難かった。


 自己紹介で嘘を付いた事、その後に彩華の家にお邪魔した事、漫画を託された事、四人でいろんな経験をした事、水族館に行った事、嘘がバレてしまった事。そして、彩華が倒れた事。

 嬉しかった気持ちも、悲しかった想いも、楽しかった気分も伝えた。


 決壊した堤防のように、次々と言葉が紡がれていく。

 母は黙って、将純が話し終わるまで聞いていてくれた。

 そして、ずっと閉じていた口を、母は重そうに開く。


「それだけ?」

「は?」


 反射的に低い声で聞き返した。


「だから、マサはそれだけのことで悩んでいるの?」


 再度、同じ言葉を繰り返した。


「なんだよ、それだけって。……なんだよ! 俺はずっと嘘を付いていたんだ! 悪いことをしたんだ! 謝りたいのに、謝れないんだ。もう手遅れなんだよ。どうすることもできないんだよ……。なのに、なんだよ、それだけって!」


 その胸倉に喰らい付いて、ぐわんぐわんと容赦なく揺する。


「ちゃんと、やるべきことをしなさい!」


 頬に鋭い痛みが走った。思わず、たたらを踏む。


「本当はわかってるんでしょ! その彩華ちゃんの為に、すべきことをしなさい!」

「何をだよ!」

「彩華ちゃんに言われたんでしょ!? 最後の夢を叶えて欲しいって!」

「それは……そうだけど」

「夢を貰ったのなら、夢で返しなさい。それが終わるまでは、家に帰ってこないこと。以上!」


 話は終わりだと、母は玄関ホールから病院の外へ出ていった。

 将純は一人、残される。

 手術中表示のランプはまだ消えない。


 ——ちゃんと、やるべきことをしなさい!


 母の声が心の中で暴れまわる。頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。

 やるべき事……

 将純が今、彩華の為にするべきこと。

 一つだけ残っている。

 最後に託された願いがここに。やるべき事はちゃんとある。

 そこから顔を背けていただけなんだ。怖かったから。

 でも、今ならできる。世間体なんか、どうでもいい。絶対にしなければいけない、義務がそこにはあるから。

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