第13話 告白
気が付けば、自分の部屋に帰って来ていた。整理整頓されている、素っ気ない部屋に。
足は生まれたばかりの小鹿のように、ずっと震えている。心臓は高鳴ったまま、一向に落ち着かない。
将純は逃げてしまった。彩華の前から逃げてしまった。弁解する事もなく、立ち去ってしまった。絶対、彩華には疑われてしまっている。焦って取り返しのつかない失態を犯してしまった。
携帯で時刻を確認すると、四時五十分。
彩華は大丈夫だろうか。置いて来てしまっても良かっただろうか。呼吸するように迷子になる彩華だから、家に帰ってこれないかもしれない。
でも、将純にはそんな彩華を迎えに行く資格なんてない。
ふらつきながら、冷たいフローリングに座り込む。ドアを閉めると、部屋は真っ暗になった。
気分は最低最悪だった。息は苦しいまま。もう何もしたくない。何も見たくないし、聞きたくない。
将純はただ、彩華の背中に憧れていただけなんだ。
彩華は日本で名の知られている人気漫画家。でも、将純はただの高校生。
将純はただ、彩華と仲良くなりたかっただけなんだ。
その立場の差を埋める為に、嘘を付いた。その罪悪感がずっと身体を蝕んでいた。
出会って三週間。その間、ずっと将純は彩華の背中を見てきた。ずっとその隣で努力の塊を見てきた。
授業中は堂々とノートにイラストを描いていて、家に帰ってきたら寝るまで漫画を描いていた。夜中に目が覚めて窓の外を覗くと、彩華の部屋の電気がまだ点いていた事もある。
将純が普通に授業を受けて、普通に食事をして、普通に掃除をして。そして彩華の部屋にお邪魔して、本棚の漫画を読んで、家に帰って風呂に入って、少しだけ小説を書いてみる。
そんな日常を繰り返している間、ずっと、彩華は机に向かって漫画を描いていた。ずっと努力をしていた。少しも手を抜かず、真剣な目で。
そんな背中を、将純はずっと見てきた。応援したい気持ちはもちろんあった。だけれど、その背中は眩しすぎた。どんどん離れていく、将純の目の前から。
すでに届く距離でもないのに、どんどん彩華の背中は離れていった。
嫌だった。息苦しかった。辛かった。悔しかった。怖かった。
自分の手が届かない場所に、彩華が行ってしまう気がして。でも、近くにいても嫌だった。何の努力もしないで『ラノベ作家』を名乗っている自分を責めているような気がして。
例え、将純が心を入れ替えて、執筆活動を始めたとしても。それはただの演技だ。彩華の努力と比べれば、ただの演技だ。
彩華には将純が持っていなかった才能があった。漫画を描く才能はもちろん、成績はいつも学年トップ。人を惹き付ける才能もある。
将純とは住む世界が違う。凡人には永遠にたどり着けない、雲の上の世界に住んでいる。
そんな彩華に嫉妬していた。でも、同時に将純は彩華に好意を持っていた。だから、嘘を告白できなかった。
「最悪だな、俺……」
気が重い。これから彩華とどう接したらいい。どうすればいいんだ。
何も覚えていない風を装って、普通に学校で話しかけてみようか。いっその事、彩華とは顔も合わせないようにしようか。でも、彩華は前の席に座っているから、無理がある。
「逃げるなんて、醜い人間だ…………」
本当は、やっぱり嘘を告白して、きちんと怒られたかった。そして、できることなら彩華に許して欲しかった。
なのに。
それなのに、逃げ出した。
だから、許してもらうチャンスすらも失ってしまった。
「俺は……」
そんな自分に嫌気が差す。どんなで、酷い人間だ。
最初から決まっている答えに、背を向けている自分自身に。
自分には努力がないとか言っているのいに、離れていく背中をただ見ているだけで、何の努力もしない自分自身に。
気分は最低最悪だった。
「寝ようか……」
寝てしまえば、誰の元にも朝が来る。残りは明日になってから、考えればいい。
今はただ何も考えずに休める時間が欲しかった。そうすれば、答えも見つかるかもしれない。
床から立ち上がると、急に寒さを感じて、鼻をすすった。零れ落ちそうになる涙を堪えて、風呂に入ろうとドアノブに手を伸ばす。
そのとき、まだ触れていないドアが独りでに開いた。部屋に差し込んだのは、一筋の光。
ぼんやりとした頭で、締め忘れた玄関から泥棒が入ってきたのかもしれないと思いながらも、憂鬱すぎて警戒する気分にもなれないままでいると、ドア口に誰かの足が見えている。
驚いて顔を上げると、ドアの向こうには彼女がいた。
目がばっちりと合う。
平池彩華だった。
「ど、どうして!?」
——ここにいるの、と。
「タクシー」
当然のように答える。
水族館からの金額は、学校からの比にならないはずだ。
違う。本当に言いたいのは、こんな事じゃない。
喉の奥から言葉を引きずり出し、震える声にする。
「……ごめん」
「わたしは、今とても怒っているの」
彩華の声には氷のように冷たく、炎のように熱い怒りが込められている。
「君は、わたしに嘘付いてたんだね?」
やっぱり電話の内容を聞かれていた。
ごまかせる雰囲気ではない。
続く言葉が容易に想像出来て、将純は俯いた。
「どうして? どうして、わたしに嘘を付いたの?」
「……ごめん」
「わたしの事を弄んでいたの?」
「それは違う」
「じゃあ、なんで嘘を付いたの?」
「…………」
黙り込むしかなかった。反論できなかったから。
「わたしの想いも嘲笑ってたの?」
「違う、違うんだ。俺は、ただ……」
彩華と仲良くなりたかっただけなんだ。
「そもそも最初から、おかしかった。漫画家と作家がクラスメイトになる確率なんて」
「違う、それだけは違うんだ。俺が全て悪い、悪いんだよ! 俺はただ、ただ彩華と仲良くなり——」
「そんなの、聞きたくない! 何も知りたくないし、聞きたくない!」
「違う、俺は」
「放っておいてよ、もう一人にしてよ」
「……ごめん」
目の前で何が起こっているのか、将純は理解できなかった。
床のカーペットの染みが増えていく。原因は彩華の涙。泣いている、彩華が。
一度も怒ったり泣いたりした事がない彩華が、怒りながら泣いている。
取り返しのつかない事が、目の前で起こっている。
「出ていってよ」
「でも——」
「ここから出ていって!」
涙を振り撒きながら、彩華は吠える。張り上げられた声が鼓膜を揺さぶる。
その迫力は将純の足を一瞬でひるませて、有無も言わさず体を動かすのに事足りた。
彩華の怒ったような鳴き声に背中を押されて、将純は部屋の外に出た。すると、木製のドアが甲高い音を響かせて閉められる。
「……なにしてんだ、俺は」
ドアと向かい合うように、崩れ落ちるように床へ座り込む。
「どうしてだよ。どうして俺は……」
目が滲んでくる。閉ざされたドアは、将純を拒絶しているかのようにも思える。
たった三センチの木の板が、二人の世界を無慈悲に分け隔てていた。
「…………」
今すぐにでも、ドアの向こうにいる彩華に謝りたい。頭を下げて謝りたい。
でも、何を言えばいいんだ。何から始めればいいんだ。肝心の頭は、何を聞いても答えてくれない。どれだけ考えても、捻り出せない。
でも、ここで何か言葉を紡がないと、ドアが開くことは絶対にない。
でも、将純は彩華に謝る権利があるのか。
何もしないで、嘘を付いていただけの将純が。ずっと努力して、栄光を勝ち取った彩華に。それは身の程を弁えていない、厚かましい事ではないか。
悔しい。彩華と同じ土俵で戦う事すら許されない自分に。将純にも努力できたはずだ。それなのに、努力しないでずっと呆けてきた。
彩華は将純にとっては高嶺の花だ。
手を伸ばすことは叶わない。でも、隣に立つぐらいは許されるはずだ。
気持ちを固める。彩華に伝えたい事は、思っている以上にある。自分でも笑ってしまうほど、たくさんある。
体は熱い。喉は乾いている。心臓は今にも破裂しそうなほど、どくどくと鳴り響いている。冷や汗が出てくる。落ち着かない。居心地が悪い。本当なら、逃げ出したい。
でも——
「進むんだ」
——前へ。彩華の隣へ。進むんだ、夢に向かって。
顔を上げる。閉ざされたドアが、将純を重く拒絶している。
けど、さっき見た時よりは、不思議と軽そうに思えた。
「なあ、彩華」
怖かろうが何だろうが、知った事じゃない。自分の気持ちを自分の中で咀嚼して、飲み込んで、言葉にして、紡ぎ出す。
「彩華」
わずか五メートルにも満たない距離だ。届かないはずがない。
「これは俺の独り言だから、聞き流してもいいからな」
聞き流してくれていい。それでいいんだ
でも、本当は聞いて欲しい。だって、初めて自分の本心をさらけ出すんだから。
「俺は、彩華と仲良くなりたいって思ったんだ。あの日、入学式の日に一目見て」
三週間経っても色褪せない。あの時の彩華を忘れない。
「嘘だって思うかもしれないけど、本当のことなんだ」
一年四組の教室で、彩華に出会ったんだ。
「仲良くなりたかった。友達になりたかった。でも、彩華は漫画家で、俺は才能のない高校生。何も接点がなかったんだ」
理解してくてなくてもいい。聞いていなくてもいい。
大切なのは、どれだけ真剣なのかを伝える事だから。
「だから俺はラノベ作家だって嘘を付いたんだ。それで彩華が起こっているのは謝る、ごめん。でもさ、俺、なんでか後悔していないんだ」
そう、今は後悔していない。大切な事を知れたから。
「水族館でさ、俺は彩華に嫉妬してるんだって気付いたんだ。だって、彩華は俺の想像も出来ないような場所で戦ってる。何の才能すらない俺とどんどん離れていく」
でもな、彩華。それは違うんだ。
「けれども俺さ、わかったんだ。俺が努力をしていないだけだって。なあ、次はさ、俺が努力する番なんだと思う。背中を見ているだけじゃ、ダメなんだ。いつまで経っても彩華には追い付けない」
だから、目指すべきだと思う。なりたい自分に、胸を張って生きられる自分に。
「有耶無耶にしたくないから、今ここで宣言する。ラノベ作家っていう嘘、それを現実にする。それが初めての夢だ」
それが彩華に、紗季に、大助に、はっぱを掛けられて決めた夢。
「初心者の俺だけれど、ちょっとは書いてみたんだ。とても酷かった。プロ作家と比べれば、そりゃあ天と地の差くらい」
あれは本当に酷かった。とても人に見せれるような作品じゃなかった。
だけれど、今の将純の頭にはどんどん良いアイデアが浮かんでくる。
「だから、次こそは、胸張ってラノベ作家と名乗れる人になってさ」
——彩華に告白したい。君が好きだって。
「ダメかな、こんな俺じゃ。もう一度、やり直させてくれないか?」
返事は、ない。
これが現実だ。
沈黙が空気に漂う。ドアの向こうからは物音一つさえ帰ってこない。
「……あのさ、確かに聞き流してもいいって言ったけど、無視って酷くない? 俺の一生分の告白だったんだぞ」
ドアは動かない。期待していたわけじゃない。
でも、もしかしたらと思っていた。
苦しいけれど、仕方がない。これが将純の罪深さだ。
「なあ、今思うとそこって俺の部屋なんだけど。入っていいか? そろそろ寒いし」
反応はない。疲れて寝ているのかもしれない。
「やっぱり俺が悪いのは分かるけどさ、何の苦行だよ、これ」
流石に心配になってきた。
薄暗い闇の中で、膝を抱えて泣いている姿が脳裏に浮かぶ。
「入るぞ、入っていいか?」
返事がないので、ドアノブをぐっと握る。ゆっくりと少しだけ隙間を開けて、そこから中の様子を覗き込んだ。
「……え?」
彩華は部屋の中央で、静かに倒れていた。
どう見ても呼吸は、していなかった。
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