第12話 露呈
水族館は、思っていたよりもずっと空いているみたいだった。
理由は簡単だ。水族館の滞在時間の平均は二時間程度。それにも関わらず多くの人は朝から来てしまう。結果、夕方にもなると大抵の人は帰ってしまって、閑散としてしまう奇妙な現象が起きるのだ。
そんな説明を受付のお姉さんが話していた。
それを見越して、紗季は集合時間を十二時にしたんだろう。何も考えていないように見えて、実は考えている。
三日に一回は下校途中で迷子になる彩華でも、さすがにはぐれる事はないと思う。逆に、頑張ってもはぐれる事ができないかもしれない。
でも、右手に感じる肌の温かみは、夢だとは思えない。
「…………あのさ」
「なに?」
「距離が微妙に近いと思うんですけど。と言うよりも、もう密着してるんだけど!」
繋がれた右手を胸の前まで持ち上げながら、彩華に言い寄る。力を入れてるのは主に彩華。傍からどう見えようと、将純は無実潔癖だ。
「どうして手をまだ繋いでいるのでしょうか、お答え下さい彩華さん?」
「恋人の証明に必要のことだからよ」
「それは入場口だけだぞ!」
五分前、入場口で受付のお姉さんが話した内容はこうだ。
——春季限定でカップルだけ特別割引キャンペーンやってます! 恋人らしい事をお二人でしてもらったら、学生割引に追加で二割引きます! ですので、そこの彼氏さん、彼女さんと手を繋いでください!
二割引きと言っても、四百円程度しか変わらない。それだけの為に、彩華と恋人の真似事は何より恥ずかしかったし、する理由もなかった。だから、無視しようと決めたのに。
白い指を絡めてきたのは彩華からだ。結局、受付のお姉さんには誤認されたままだし、それ以降も手は繋いだまま。
館内に入ると、一番最初にとても長いエスカレーターに乗ることになる。水族館は八階建てで、最初に一番上に行ってから、ぐるぐると回りながらフロアを下りていくのだ。
エスカレーターで八階に移動しながら、右隣りに交渉を持ちかける。
「そろそろ恥ずかしいから、離してくれない?」
「わたしも、どくんどくんいってる」
「生きてるからな!」
「死ぬ、ってどんなことなんだろ」
「急に哲学の話やめてくれる?」
「死にたくないよ」
「誰でもそうだ!」
こんな感じで、将純が繋いだ手を放そうとすると、話題をすり替えてくる。
前にも手を握った事がある。あれは学校に遅れそうになった日だったか。でも、あれは何かのどさくさで、こんな風に落ち着いた場面ではなかった。
自覚できるくらいに頬が熱い。別の事で気を紛らわせようとしても、頭が上手く動かない。
でも、これは恥ずかしさじゃない。
胸の中に渦巻く感情に、将純は縛り付けられていた。暗くて黒い死神のような感情。
なんなんだ、これは。どうしてなんだ。なんで、こんな気持ちが胸の中にいる。
手を繋いでいる。憧れの彩華と、手を繋いでいるんだ。
ずっとその横顔を追っていた。いつも荒っぽい声を掛けながらも、本当は優しさでいっぱいだった。なのに、今、自分は何を考えている。この感情はどう反応している。
彩華に顔を見られたくなかった。この感情を知られたくなかった。
自分が、彩華なんて死んでしまえば良い、と少しでも思ったなんて…………
大切な人間をそんな風に考えたなんて、酷いやつだ。人間ですらない。
そう思ってしまった原因は、既に知っている。
それはやっぱり、自分絵の劣等感からだった。
彩華は人気漫画家。将純は何もない男子高校生。それに関しては、もう吹っ切れたからいい。本当の問題は、それを嘘付いていることだ。
将純は嘘を付いた。ラノベ作家だという嘘を。それで彩華と仲良くなれた。でも、それは彩華が将純をラノベ作家だと誤認しているからだ。
何の肩書きも持っていない将純には、何の価値もない。それなのに、彩華はその価値のない人間の手を握っている。それだけは、ダメだ。絶対に。
それだけは許せない。少しも許せない。彩華が隣で歩くのが許せない。一緒に弁当を食べるのが許せない。二人で登下校をするのが許せない。何もかもが許せない。死んでしまえば良い。
「君、顔色悪いよ?」
彩華に顔を覗き込まれても、すぐには反応できなかった。
「あっ、悪い。考え事していた」
「大丈夫?」
「ああ。でも、ちょっと手を放してくれるか」
彩華は将純の声の裏に何かを感じ取ったのか、素直に繋がれたままの手を離した。
肌が触れ合っていた自分の手を見つめる。優しい暖かさは残ったままだ。思わず流れ込んで来た黒い感情を振り払う。
どうやら少しの間、上の空だったみたいだ。今日が楽しみで、あまり寝ていなかったからだろうか。
場所は長いエスカレーターを上り切った場所だった。そんなに時間は経っていない。
将純を慮るような彩華の表情では、心境まで気付いたわけではなさそうだ。
少し安心した。
「ごめん、見て回ろっか」
不安そうな彩華を連れて、歩き始める。
まずは日本の環境を模した展示エリア。小さな魚に加えて、可愛らしい小動物が小さな池の畔で水浴びをしている。水が流れていて湿った岩には、沢山の赤い点が付いていた。
気になって近くに寄ってみると、赤い点の正体は子ガニ。親ガニはどうやら池の底で丸くなっているのか、赤い絨毯になっていて、上には淡水魚が優雅に泳いでいる。
素直に楽しめる気分ではなかった。でも、楽しそうにはしゃぐ彩華を見ていると、少しだけ来て良かったと思った。
短いスロープを通って、一階下のフロアに移動する。二人を出迎えたのは水槽のトンネルだ。
くねくねとして先の見通せないトンネルの壁は、曇り一つなき透明なガラス。それを隔てた向こう側には、色鮮やかな魚達が縦横無尽に泳いでいた。
満たされている水は透明で、空を飛び回っているようにも見える。
「彩華は……水族館に来たことあるのか?」
彩華は頭上を泳いでいくイワシの群れを見ていた。水面上から降り注ぐ光を反射して、キラキラと、さながら光のカーテンのようだ。
やはり返事はない。
その横顔は真剣そのものだ。漫画を描いている時と違い、玩具を買ってもらった子供が浮かべる、楽しさに満ち溢れた顔。
集中して声どころか、将純の存在すら忘れている。
少しの間、沈黙が空気を満たした。近くに他のお客さんはいない。将純を見ているのは、無数の熱帯魚。何も考えずに、将純は彩華の背中をぼんやりと眺めていた。
返事はだいぶ時間が経ってからだった。
「来たことない」
「……そっか」
「うん」
イワシの群れには興味を失ったのか、彩華はトンネルの先へ足を運ぶ。
その瞬間、何の前触れもなく急に視界が開けた。
宇宙。
どこまでも広い世界。そこに数え切れない生命が浮かんでいる。
映画のスクリーンのように、その向こうには宇宙が広がっていた。
水中に差し込む淡い光の間を縫うようにして沢山の魚達が泳ぎ回っている。魚が泳いだ道筋には空気の泡が留まり、キラキラと光を反射しながら水面へと浮き上がっていく。
小さな宇宙だ。世界の神秘がそこに詰まっている。
有限の水槽は、無限の宇宙。そこかしこで小さな波紋が生まれ、蜃気楼のように光のカーテンを作り出している。
幻想的な景色。
この場所には、通る人の視線を奪ってしまう魔力がある。一度、釘付けにされたら、もう離れられない。
じわじわと足元から感覚が失われ、将純の意識は海に飲み込まれていた。呼吸の仕方も忘れて、その小宇宙を見ている。
「綺麗だな……」
震える声で、それだけを絞り出した。
他には何も言えない。
金縛りのように、全身が麻痺したかのように動かない。
彩華も同じ様子だった。
宇宙に取り込まれた彩華が、虚ろな眼差しで向こうの世界を見ている。瞬きすらしない。心を奪われているのだ。少し前まで、将純もそうなっていた。
彩華の手が自動的に鞄からクロッキー帳を取り出した。たぶん、無意識だ。習慣に染みついて、気付いていない。
後ろから覗き込むと、マグロの刺身。無駄にリアルで、無駄に上手い。
次々と彩華の手は新しい絵を完成させていく。サバの缶詰、アジのフライ。お腹が空いているんだろうか。
「調理するな! デッサンはそのままで描け! 食材のままで描いてあげて!」
「…………」
「え? もしかして、食べたいなあとか思いながら見てんの?」
「……」
反応はやはりない。
横から指先で整った顔に触れても、何も反応しない。例え、その頬にキスしても気付かないだろう。
やはり彩華は常識の概念を夢の世界に置き忘れてきたようだ。今日もまた、絶好調の天然ぶりだ。
彩華と過ごす日常は、いつもだいたい予想を上回っている。
話は変な方向に脱線するし、突飛な行動に振り回されるし。ずっと異国に住んでいたかのような常識離れ。こうなった原因は未だ不明。
でも、世の中には知らない方が良い事だってある。きっと聞いてしまったら、心臓が飛び出てしまうような気分になる未来しかみえない。触らぬ神に祟りなし。
そんな事を考えていると、携帯電話が鞄の中で振動した。
取り出して見てみると、ディスプレイには『竹見大助』の表示。
将純は通話ボタンを押して、耳に当てる。
「どうした?」
「今、マサ一人?」
「いや、隣で彩華が大水槽を見てる」
「じゃあ、聞かれたら困るから、離れて」
そう言われて、大助がどうして電話を掛けてきたのかがわかった。素直に水槽トンネル手前まで移動する。
「……嘘のことだろ」
「わかってるなら、話は早い。そうだよ、僕は心配なんだ。マサはどこか抜けているとこがあるからね、嘘がバレないか心配なんだよ」
バレてないよと言って笑い飛ばそうとしたが、できなかった。大助の声のトーンは下がっている。
表面的には冗談めかしているけれど、真剣な感情が声に乗っている。
逃げるなよ、とスピーカー越しに伝えられていた。
将純も真剣に話をしなければならない。
「まだバレてない。竹見の心配もわかるけど、そう簡単にバレないと思う」
「それなら、安心さ」
「でも、俺もさ、悪いと思ってるんだ。俺もちゃんと、ラノベ作家じゃないって真実を伝えたい。ちゃんと彩華と話し合いたい……けど」
「今すぐ、とは言わない。そこまで考えてるなら、大丈夫だよ。いいかい、何事も焦っていては成功しない。でも、機会を逃したら、挑むことさえできないんだ。紗季の言葉だよ」
「…………」
「僕が知りたかったのはそれだけ。まあ、そのデート中に話すのかどうかは、僕はどっちでもいいけれど、マサにとっては話す方がいいのかもしれないね。だって、逃げないって、決めたんだろ? 僕も紗季に誇れるような才能がなかったけれど、紗季と過ごすことができたんだ。それならマサが彩華と付き合えるのは道理だろ? 例え、マサに才能がないとしても、そして、ラノベ作家という嘘があったとしても」
「……俺はラノベ作家じゃない。でも、その嘘を実現しようと思っているんだ。これも竹見が俺を叱咤してくれたおかげかな。ありがとう」
「まあ、それはマサが頑張っているだけなんだけどね。それじゃあ、切るよ」
「ああ」
電話が切れた。だけれど、残ったのはモヤモヤとした気持ちだけ。不思議と胸が苦しくなり、体が動かない。
嘘だと告白する。
そうだ、元々は嘘から始まった関係だ。だから、嘘でしたと告白するのは当然の成り行きのはずだ。
きっとそれで彩華が怒るのだろう。今まで怒った姿を見た事はないけれど、絶対に怒るだろう。
もし、それで彩華に絶交されてしまったら。
ずっと嘘を付いていた罪があるじゃないか。当然のように報いを受けなければならない。
もし、このまま付き合うとしたら。
それは一番望んでいる未来だ。少なくとも会話中に罪悪感を抱かなくて済む。
罪の告白を躊躇うのに、理由はなかった。
けれども、足が竦んでしまって動かない。
ただ、壊したくなかっただけだった。今日のような幸せな日常が。恥ずかしそうに笑う彩華が隣にいる日常を壊したくなかった。
答えは出ていたはずなのに。
まるで化け物を目の前にしているかのようだ。どうすればいいのか分かっているのに、逃げることも戦うことも怖くて出来ない。立ち向かうのが、失うのが怖い。でも何よりも……
——わたしに嘘を付いていたの?
そう彩華に指摘されるのが一番怖い。だけれど、そうしなければいけないような気がして、逃げ道はなかった。
ドロドロとした思考が同じ道をずっと繰り返していた。唇を噛み締める。握った拳が震える。
歪んだ顔を覆って項垂れる。泣きたい。消えてしまいたい。こんな自分を殺してしまいたい。
「ねえ、君」
驚いて振り返ると、いつの間にか彩華が立っていた。
もともと歪んでいた顔が、さらに引きつっていく。悟られないように、将純は顔を背けた。
「電話が終わってから、君を何度も呼んだよ?」
小さくて透明感のある声音。そこに感情は感じない。
「ああ、ごめん…………ちょっと、竹見と電話してただけ、だから」
彩華が隣に来ていた事には、気が付かなかった。少なくとも、電話に出た時には水槽を見ていた。
でも、いつ隣に来たんだ。いつから、ここにいるんだ。いつから、聞いていたんだ……
気になるけど、彩華の表情からは何も読み取れない。感情の起伏が乏しくて、何も感じられない。
でも、なぜか全部聞かれていたような気がしてならない。
「また顔色が悪いよ」
「だ、大丈夫だよ。それじゃあ、次のフロアに行こうか」
将純は喉の奥から声を絞り出した。
早く帰りたかった。今の将純は彩華の顔が直視できなかった。
ふらふらとした足取りで、スロープに向かった彩華の背中を追う。
どうしよう、どうしよう。沈黙が気まずい。いつ指摘されるのか、身構えてしまう。
本当は聞いてなかったかもしれない。でも、黙ったその背中は怒ってるように見えて、逃げ出したかった。
震える手で手すりを握りながら、下のフロアに向かう。前を歩く彩華の足が、いつもよりもゆっくりに見える。
頭が働かない。でも、大丈夫だ。もし電話に聞かれても、嘘を付けばいいじゃないか。
そうだ。嘘を付けばいい。
これまでもずっとそうしてきたから、これからも嘘を付き続ければいい。実質的な事は何も変わらない。ちょっと真実を伝えるのが遅くなるだけだ。
嫌などろどろした渦に思考が巻き込まれる。彩華の背中を必死に追うだけで必死だった。
「ねえ、君」
魚の餌やりコーナーの前で振り返った彩華が、話しかけてきた。
「どう、したの? 実はさっきから腹が痛くて、トイレに行きたいんだ」
思わず早口で言い切って、逃げるようにトイレに向かう。だけれど、裾を掴まれて、つんのめった。
「ねえ、さっきの電話のことだけど」
真っ白になった。
目の前も、頭の中も、そして津波となって押し寄せてきた。飲み込まれる。まさか、今だとは思っていなかった。
なんとかして、態勢を整えろ。軌道を戻せ。普段の自分を取り繕え。心は焦る。足は震える。声は出ない。体は動かない。
ごまかさなければ、いけない。
偽れ。偽れ。偽れ、偽れ、偽れ、偽れ。自分を偽って、偽れ。
顔面が熱くて仕方がない。でもきっと他の人から見たら、蒼白にしか見えないに違いない。
やっと憧れの彩華とのデートなのに。まだ水族館に入ってから、一時間も経ってないのに。
落ち着け。落ち着いてる。いける。大丈夫だ。嘘を付けばいいだけだ。
でも……
「ごめん。今日、お母さんが寝込んでて、早く帰らないといけないんだ。それじゃあ、またな」
でも、電話を否定できるような勇気はなかった。
それだけを言い切ると、背中を向けて、水族館の出口まで階段を駆け下りた。彩華が呼んで来た気がするが、そんなの知らない。
体を限界まで酷使して、そこから逃げ出す。頭に酸素が回らなくなるくらいに、走りに走った。将純は逃げたのだ。
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