第9話 夢のきっかけ

 放課後、将純は中庭の掃除当番の大助とそれを待つ紗季は放って、彩華と二人で電車に乗った。会話のないままの三十分。すぐに電車は家への最寄り駅に着く。

 もやもやとした気分で電車から降りる。背中側から小春の追いかける足音が聞こえる。


 結論から言えば、五時間目は出席しなかった。一時間丸ごと芝生に寝転びながら大空を仰いでいた。なんで、空は青くなったり赤くなったりするんだろう。そんなことを考えながら。

 そうでもしないと、大助の声が頭の中でリピートされてしまう。


 ——言い訳に才能の有無を挙げるな


 脳内を反響する声は時間を経るごとに、どんどん大きくなっていく。まるで、池に石を投げれば、波紋が広がるように。


「あ~、くそっ!」


 何で苛立っているのかは、初めからわかっている。努力してこなかった自分に苛立っている。

 将純だって努力したい。何かに打ち込んでみたい。

 誰かに認められる実績が欲しい。頑張ったねって褒めて欲しい。


 でも、無理だ。できない。怖い。頑張るのが怖い。

 頑張ってしまったら、言い訳ができない。失敗しても、言い訳ができない。自分の努力が足りないと思い知らされるだけ。逃げる事はできない。

 それなら、努力しない方がいい。このままでいい。

 でも、彩華に追いつきたい。見えなくなってしまった背中に、少しでも近づきたい。


「……負けたくない」


 漏れ出た言葉が、将純の心を代弁していた。

 いつ駅を出たのか覚えていない。気付けば、両足は地面を交互に踏んでいた。車に轢かれなかったのは奇跡だと思う。

 西の空に沈む夕日が、淡い光で世界を包みこんでいる。さみしい鳥の鳴き声が空に響く。雲が無くて端まで塗りつぶされたオレンジの空には、小さな小さな月がポツンと浮かんでいた。


 それでもやっぱり凍えるように寒い空気の中、将純と彩華は歩いていた。

 ただ、黙って彩華の家を目指す。もう玄関ポーチはすぐそこだ。


 この沈黙は将純が作り出したものだ。何度も彩華は話し掛けようとしてくれた。その都度軽くあしらったのは将純だ。

 意地でも振り向きたくなかった。

 でも、これではただの八つ当たりだ。罪悪感の芽がすくすくと成長して、花を咲かせていた。

 結局、今はこの沈黙が身を切るように痛い。耐えきれずに将純から話し掛けた。


「なあ、彩華」

「……なに?」


 冷たい声。将純が彩華を無視し続けたのに怒っているのかもしれない。けれども、将純は言葉を続ける。


「あのさ、ずっと気になってたんだけど」

「うん」

「入学式終わった後、電車乗る時に改札のバーを乗り越えようとしてたよな」


 目で頷く。


「うん、今はもう切符買えるけど」


 普通は子供でも買える。そんな事を思いながら、ただ言葉を続ける。


「それなら、入学式の朝の通学時はどうしたんだ?」

「タクシーよ」

「ブルジョワだな、おい」


 最近の漫画家は、リッチらしい。ここから学校までは、五千円を超えるんじゃないだろうか。将純の一ヵ月分のお小遣いと等しい金額。

 考えるまでもなく、漫画家として得たお金だ。


 息が詰まる。


 将純が努力していない所で、彩華はもっと先を行っていた。顔を背けていた事実が立ち塞がる。

 将純は無意識のうちに次の言葉を探していた。

 しかし、口から出たのは、本当に言いたいものと別の事。


「それって、やっぱ、自分の所得からだよな」

「うん」

「じゃあさ、家も自分で買ったのか?」


 彩華から聞いていた話では、両親は一年前に亡くなっている。そして、今の家に引っ越してきたのは、二週間前。

 なら、家は自分で購入した物件だとてっきり思っていた。


「違うわ、今の家は両親が住んでいた家」


 だから、この返答には戸惑いを隠せなかった。

 聞き返そうと振り向いたけれど、できなかった。その顔はどこか悲痛めいて、これ以上聞いても教えてくれそうになかったから。

 声にならない吐息は、熱を出した時みたいに苦しそうだ。


 夕日によってアスファルトに映し出された彩華の影からは、不安が滲み出て押し寄せてくる。今すぐ抱き締めて、安心させてあげたい。

 何が不安なのかわからない。けれど、大丈夫だよって安心させたい。

 でも、できない。

 たったの二歩の距離でも、そこには深い深い溝があるから。


「そっか」

「……うん」


 ドアの鍵穴に鍵穴に差し込まれ、開錠された音。開かれた玄関に消える彩華の背中を追って、将純も家に入る。


 何度もお邪魔した家には、やはり生活感はどこにもない。ここに彩華の両親が住んでいたなんて信じられない。

 リビングに置かれている家電は数えるほどしかない。食器棚には食器の姿も影もないし、テーブルの上には花すら飾られていない。壁にはカレンダーもないし、生活雑貨は一つも置かれていない。売却中物件と言われても違和感がない。


 将純はここにいた住民の姿を思い浮かべながら、彩華を追って憂鬱な足取りで二階に上がった。

 彩華の部屋に入ると、将純は妙に甘い匂いベッドの上に座らされた。新品当然のふわふわとしたベッドの感触は、彩華と同質の香りがして、意識しないようにしても血が騒いでしまう。


 慌てるように部屋を見渡すと、あいかわらず床は大量のB4サイズの用紙が散乱していた。その間に、ところどころ昨日洗濯して渡した彩華の衣類も散乱して、目のやり場に困る。

 どうすべきか考えていたら、彩華がベッドの隣に座った。緊張をほぐす時間はもらえないようだ。


「で、俺はどうすればいいんだ?」


 視線を泳がせながら訪ねると、


「寝て」


 真剣な顔で彩華に言われ、将純の意識は一瞬で凍り付いた。

 とりあえず、顔を背ける準備だけする。


「寝て」


 聞き間違えでないのを確認すると、顔を背けながら問う。


「よし、俺たちには話し合いが必要のようだ」

「そんなの知らない」

「ちょ、うわっ!?」


 あろうことか、次の瞬間、彩華に押し倒された。背中とベッドの間で、散らかっていた原稿のくしゃっと潰れた音がする。

 急な事に混乱していると、彩華が将純の腹にまたがってきた。


「何してんの!?」

「話し合いをしましょう」

「お前が断ったんだろうが!」

「今からする」

「この体勢で!?」


 彩華が顔を近づけてくる。頬をちろちろと撫でる髪の毛は甘い香りを放っていた。

 顔と顔の距離は十センチ。ケーキのように甘い吐息。宝石のように澄み渡った二つの瞳。

 視線の置き場所を探していると、彩華が顔をどんどん近づけてくる。

 思わず、目を瞑る。見えていた世界が闇の奔流に飲まれて、少しの光も見えなくなった。

 彩華が何をしようとしてるのかは、言われなくてもわかる。どちらかといえば、少しだけ期待もしている。

 ただ、それを受け止める準備が必要だった。


「……」

「……」


 何もなかった。

 待っても何もなかった。

 将純の純潔は守られたままだ。


 瞼を持ち上げる。途端、視界いっぱいに光が飛び込んで、その眩しさに目を細める。

 彩華は腹の上に跨ったままだ。それは変わらない。


 紺色のブレザーと光沢感のあるスカート。ネクタイには赤色のボーダーのアクセントが入っている。揃えられた前髪を留めているのは、かわいい水色のピン。

 おかしいのは、彩華が右手に持っているものだ。それだけが異色の空気を発していた。


「……あの、彩華さん?」

「なに?」

「その右手に持ってるものは何でしょうか?」

「注射器」

「それは見ればわかるよ!」


 彩華の右手には、透明な注射器が収まっている。太い針に太いガスポケット。中身は空だ。

 それは、かわいい彩華には似合わなさすぎる品物。不自然にもほどがある。


「その物騒なものでどうするおつもりですか?」


 警戒警報が頭の中で鳴り響いて、思わず丁寧口調になる。


「君の血が欲しい」

「ついにドラキュラの真似事ですか!?」

「ちょっと腕を出して」

「物騒なそれを置いてから、話をしよう! いや、置いてください、今すぐに!」

「大丈夫だよ、痛いのは一瞬だから」

「俺が大丈夫じゃねえ! 血が欲しいなら、自分の血を使えよ!」

「嫌よ、痛いから」

「そんなもん、人にするな!」

「……君」

「おう、どうした?」

「意気地なし」

「この状態で平然とできるやつは、宇宙人くらいだ!」

「紗季は特別よ」

「知るか! とにかく、注射器をしまえ!」


 素直に紗季は注射器を机に置いた。だけど、まだ将純の腹の上にどっかり座ったままだ。


「で、なんで急に血が欲しいんだ?」

「担当に言われたの」

「えっと、何て言われたんだ?」

「戦闘描写に登場する血がリアルじゃないって」

「だから急に注射器か」

「そうよ」

「てか、よくそんなもん、売ってたな」

「病院で貰ったの」

「貰えるもんなの!?」

「君には絶対あげないわ。これは、わたしのよ」

「欲しくねえよ!」

「そう、残念」


 本当に残念そうな顔をして、彩華は立ち上がった。パソコンを立ち上げると、回転式の椅子に座る。


「はあ~。こんなの毎日やってたら、俺の心臓が持たん」

「……救急車、呼ぶ?」


 彩華がポケットから携帯を取り出して、どこかに電話をしようとしている。


「呼ぶなよ! 今のは比喩だ!」

「わかった」


 小さな声で反応した。


 彩華は携帯をポケットに落とし込んだ。すると、会話はこれで終わりとばかり、タブレットの画面に絵を描いていく。さらさらとペンの走る音がする。


 急に部屋の雰囲気が変わった。彩華の周りだけ空気が、がらりと変わった。

 厚い膜が、見えない壁が、彩華の周囲を分厚く覆っているように思えた。

 顔つきが違う。彩華の意識はここにない。絵の世界に没頭している。


「……彩華」


 呼びかけても、彩華は少しも反応しない。聞こえていないのだ、将純の声が。届いていない。

 今、彩華はパソコンの画面しか見えていない。

 今、彩華の世界には自分が存在していないんだと思った。


「……お前はどこで戦ってんだよ」


 答える人間はどこにもいない。

 将純は溜め息を付いて、彩華の背後から画面を覗き込んだ。


 ペンがすらすらとタブレットを滑るたびに、驚くべき速度でセシリアの姿が描かれていく。引くべき線が初めからわかっているように、間違いのない一手が込められていく。


 すると、彩華の背中が離れていく錯覚を覚えた。

 何度も経験した、この感覚。近づくことは決して許されない背中。手を伸ばしても伸ばしても絶対に届かない。


 その感覚を意識の外に追い出したくて、将純は視線を本棚に移した。一定のルールはあるものの、ごちゃごちゃとした本棚。一番上の段には沢山の参考書が突っ込まれている。

 その中で一冊、将純の興味を引くものがあった。


 ——イラスト入門書


 手を伸ばして、その一冊だけ抜き取る。

 今は何かきっかけが欲しかった。何かを目指すきっかけが。だから、入門書という言葉に惹かれたのかもしれない。


 最初のページを開く。そこは綺麗な円をコンパスなしで描いてみようのコーナーだった。次のページは他の図形のコーナー。次々にページを捲ると、少しづつ難しい内容になっていくみたいだ。

 思い切って、パラパラと最後のページまで進めた。

 すると、挟まっていた何かがひらひらと床に落ちた。将純は床から指先で拾い上げる。


「なんだこれ」


 それは、一枚の絵だった。

 違う。正しくは、絵とは決して呼べない絵が描かれていた。

 骨格の構成がおかしい人、物体の大小関係が崩壊している背景、明らかに不自然な色使い。下手だ、とにかく下手だ。百人見れば、百人が口を揃えて下手だと評価する絵。思わず顔を背けたくなる絵。少しの才能も感じられない。


 今の将純でも、それを超える絵は簡単に描ける自信が十分にある。

 だから、その数字が目に入っても、意味がわからず呆然としていた。

 ありえない数字が書かれていたから。


 ——2018.02.24


 四年前の数字だった。


「なんだよこれ」


 いまだかつて触れた事のない感情が、自分の中で渦巻いている。だから、その感情に名前を付ける事なんて不可能だった。

 はっきりと思うのは、自分は『悔しさ』を感じている。どうしてなのか、わからない。

 もやもやとした気持ちで顔を上げると、彩華がこちらを見ていた。既に描いていたイラストが一枚完成したようだ。


「……下手よね?」

「はっきり言えば」

「それ、わたしが漫画家を目指し始めた時に描いたんだ」

「……四年前か?」

「そうよ」

「他にもあるのか?」

「うん」


 机下の引き出しを開けた。がさごそと聞こえる音を待っていると、彩華が取り出したのは数枚の紙。

 その全てに下手な絵が描かれていた。日付を追うごとに、少しづつ綺麗なイラストになっていってる。


「凄いな」

「これぐらいなら、チンパンジーでもできるよ」

「俺はチンパンジー以下か」

「そうよ」

「意味わからん」


 最初は彩華とも話したくないと思っていた。でも、今はこの会話が心地いい。


「俺、思ったんだけど、これを売ったらバカ売れするぞ」

「どうして」

「みんな神田先生がどうやって成長したか知りたいから」

「バカには売れるかな」

「ああ、楽しみに待ってる」

「うん」


 会話はそれだけだった。

 それ以降、彩華は将純が話しかけても反応しなかった。真剣な顔で画面だけを見つめている。

 でも、それが悲しいとは思わない。将純には得たものがあったから。

 四年前に彩華は漫画家になろうと思った。そして少しづつ絵が上達した。


 ——彩華さんだって、紗季だって努力してるよ。もちろん、僕も


 大助の言葉が響く。


 ——努力は報われるもんじゃない。報われるために努力するんだよ


 その通りだ。将純が間違っていた。言い訳に才能の有無を挙げていた。

 彩華も最初から漫画を描く『才能』はなかった。

 努力して、努力して、少しづつ前進して、夢を掴んだ。


 あの絵を見た後ならわかる。彩華がデビューするまでに想像できないような『努力』を積み重ねてきたことぐらい。

 悔しかった。将純がぬるま湯のような毎日を送っている間に、同じ年齢の彩華は自分の夢に向かって頑張っていたことに。

 自分には『才能』がないとずっと思っていた。けれど、本当はこの世界に『才能』なんて初めからなかったんだ。それは自分で作り出すものだったんだ。


「……くそっ、こんな所で俺は何やってんだ」


 自分は本当に何していたんだろう。周りにはこんなにも努力している人たちがいるのに。


 オリンピックに行けるようなスポーツの才能がある紗季。


 世紀に残るような漫画を描く才能がある彩華。


 世界中の情報を網羅する才能がある大助。


 こんなにも才能がある人物に囲まれていて、考える事を放棄していた。自分は本当に何していたんだろう。

 隣で毎日努力している姿を見ていたのに。もったいない。

 こんな所にいてられない。さっきから体中で疼きが止まらない。

 頭の中で未来予想図が完成していく。感情が先走ってる。

 もう抑えてられなかった。感情に身を任せて彩華の部屋から飛び出す。


「ありがとう! 彩華!」


 大きな感謝をその背中に残して。

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