第8話 罪の追求
時刻はお腹の鳴る音が合唱を始める四時間目。
現国の担当教師である浅田が黒板にさらさらと文章を紡いでいく姿をぼんやりと眺めながら、将純は彩華について考えていた。
自己紹介の時間にはとんだハプニングもあったが、一週間も経てば浮ついた空気もなくなる。誰でも新しい教室の雰囲気に慣れてくる。
彩華がいるこの一週間は驚くほどに何もなかった。宇宙人の侵略とか、超能力者の出現とか、未来人が時空を飛び越えて遊びに来たりとか、そんな現実離れした事はなかった。
普通の日常が過ぎた。騒がしいけれど、落ち着いた日常が過ぎ去った。
黒板の上をチョークが滑る音がする。中学生の時は国語の授業で睡眠以外をした覚えがない。でも、担任の浅田が面白い性格のせいか、どうにも眠くならない。現国の時間はスキップ不可の強制イベントに等しい。
とは言っても、そこまで中学の時と変わらない。
ただ一点を除いて……。
浅田の芯の太い声優のような口調に混ざって聞こえる、鉛筆でデッサンでもしているような軽やかとした音。出処は将純の一つ前の席に座った少女。言うまでもなく、平池彩華だ。
先ほどから、クラスメイトの多くが授業を受けながら、ちらちらと彩華を見ている。何をしているのか気になっているのが大半、その美貌に好意を寄せているのが少数といったところか。
肩越しに覗き込むと、クロッキー帳にメロンパンが描かれている。お腹が空いたのだろうか。無駄に上手くて、無駄に美味しそうだ。だいたいどの授業でもノートを取らずに、落書きをしている。でも食べ物は初めてだった。
将純が入学してからの一週間、彩華はずっとこんな調子だ。
自由気まま。完全なマイペース。性格は猫に近い。
それなのに、なぜか成績は優秀の部類に入る。浅田が授業中に抜き打ちの質問をしても、スラスラと答えていた。授業を聞いていないくせに、小テストは毎回高得点なもんだから不思議だ。
浅田が振り向いた。眠りそうになっていた生徒が、びくっと肩を震わせる。
「え~、芥川龍之介は羅生門の筆者で、数々の名作を残しています。ちなみに塵芥というように、芥川の名前は低湿地の『どぶ川』が語源です」
授業終わりを知らせるチャイムが鳴った。浅田は授業を切り上げて、さっさと廊下に出ていった。
それと同時に、将純は机へ倒れこんだ。
「はあ~」
「元気ないね~将純くん!」
「ほとんどお前のせいだけれどね!」
振り返りざまに、言い放ってやる。
絡んで来たのは、授業が終わると共に瞬間移動してきた赤城紗季だ。だいたいの休み時間、こいつは将純か大助に絡もうとする。高校へ進学してからは、その選択肢に彩華が追加されたが。
紗季は頬を膨らませて、アヒルのように唇を尖らせている。
「将純くん、お弁当!」
お腹を鳴らしながら、紗季は大声を上げた。クラスメイトの針のような視線が突き刺さる。宇宙人に羞恥心の概念はないらしい。
「俺はお弁当じゃねえ!」
「知ってるよ~ん。永咲くんは彩華ちゃんのお母さんだもんね」
「誰がお母さんだ、このやろう!」
紗季は悲痛な将純の悲鳴には振り返らず、
「先行ってるよ~」
と叫びながら教室から飛び出していった。宇宙人は行動力がある。見習いたい。
その光景を大助が苦笑いしながら遠巻きに眺めていた。
「大変だな、マサ」
「わかってるなら、変わってくれ。紗季の彼氏だろ」
「いや、僕には宇宙人の相手は荷が重いよ」
「彼氏が言う言葉か、それ!」
「はは、冗談だよ冗談」
「真顔で言われても説得力皆無なんだけれど」
軽口を叩いていると、制服の裾を引っ張られた。見ると、白い華奢な彩華の手。
「……ごはん」
「ごめんごめん、それじゃあ行こうか」
二人分の弁当箱が入ったサイドバックを持つと、将純は彩華と大助と一緒に教室を出る。
この学校はやたらと複雑な構造をしている。だから、生徒の大半が存在を知らない場所が多い。これから向かうのはその一つ、彩華が『秘密の庭』と名付けた小さな緑地。
渡り廊下と階段を経由して部室棟の二階に行くと廊下を端まで歩き、非常口から外階段を下りて生け垣沿いにしばらく進み、見落としそうなほど狭い隙間を抜けると、縦横十メートルほどの正方形である緑地にでる。
青い空を大きな雲が流れていく。優しい風が肌を撫でていった。
季節の色とりどりの花の中央には、白い短髪を風になびかせる紗季の姿。耳に掛かった雪のような髪を払う仕草は、さしずめ春の妖精。一見すると、いたいけで可愛い少女にしか見えないけれど、そこに騙されてはいけない。
想定外。予想外。規格外もいいところだ。
日々問題を増やし、将純を悩ませる存在。それが遥か遠くの宇宙からやってきた宇宙人こと紗季だ。
天然の芝生に移動すると、「よっこらせ」という掛け声と同時に腰を下ろす。
この庭には、将純と彩華と紗季と大助しかいない。
毎日、昼休みをここで過ごすのは明確な理由がある。
それは教室だと落ち着いて過ごせないから。自己紹介をした次の日、学校に行けば全校生徒に彩華の名前が知れ渡っていた。神田先生の知名度は偉大だ。しかも、超絶の美少女。誰もが興味を抱いていた。
休み時間にネーム作業をやるもんだから、生徒たちは彩華を神田先生だと信じて疑わない。
そうして、昼休みの時間になると校舎全体からファンが集まり、握手とサインを求める長蛇の列ができた。
だから、こうして昼休みは紗季が見つけた『秘密の庭』で過ごしている。
彩華が将純をじっと見ている。言われずとも、意味はわかった。
「なんだか、餌付けする親鳥の気分だな」
大空の下でサイドバックから取り出した大小二つの弁当箱を並べる。ちなみに大助の弁当は紗季の手作り。
「それじゃあ、みんな! 手を合わせて」
「「いただきます」」
紗季の仕切って、一斉に弁当箱の蓋を開ける。
芝生の上には四人の人物しかいない。時計回りに、将純、彩華、紗季、大助の順番だ。中央にはそれぞれの弁当箱。色鮮やかで食欲を掻き立てる。
彩華はダイエット中らしいので、具の交換はしない。各自それぞれの弁当箱に箸を伸ばす。
「そういえば、結局二人は昨日何してたんだ?」
将純は口にかんぴょうの炒め物を運びながら、紗季と彩華に尋ねた。
「下着も含めた全ての服を!」
「交換し合ってたんだよ?」
紗季の言葉を引き継いだのは、彩華だ。その返答を受けるとすぐに将純は大助を睨んだ。
「怖いな、マサ。嘘は言ってなかったろ」
「その顔で言われると腹立つな」
「でも、一瞬だけ楽園を見れただろ?」
楽園とは、二人の生まれたままの姿だろう。はっきり言って、そんなに覚えてない。覚えているのは、彩華の恥ずかしそうな声ぐらいだ。今では後悔している。
「直後に投げ飛ばされたから、記憶から吹き飛んだよ」
心の底から正直に答えると、何がおかしいのか大助は爆笑した。
イラついたので、大助の弁当箱からタコ焼きを一個奪取して、将純は口に放り込んだ。直後、火を噴いたかと思うくらいに、口中が熱く燃え滾った。胃の中身が喉奥まで逆流してくる。タコ焼きとは思えない辛さ。わさびだ。
思わず、咳き込みながら専用容器を開けて、味噌汁を飲み干す。
「あ、ごめんね永咲くん! 六個のうち一個だけわさび入りタコ焼きなんだ~、どうかな? スリルとサスペンス満点のロシアンルーレット弁当で当たった気分は」
「……もう無理、吐きそう」
「ほらね、マサ。言わんこっちゃない」
大助が勝ち誇った顔をする。声を荒げる元気すらなかった。
おかげで張本人の紗季からも哀れんだ視線を送られた。
「俺の周りの人間は、どうしてこうも宇宙人ばっかりなんだ……」
声に全力で不機嫌さを滲ませる。どんよりとした将純の肩を励ますように叩いたのは大助だ。
「そのうち、いいことあると思うよ」
「だといいな」
「拾ったら届けてやる」
「……期待せずに待っとくよ」
にんじんを頬張りながら答える。
隣にいる彩華は他人事のような顔をして、今は味噌汁に浮かんだ麩を箸で突くのに夢中だ。空の青さが水面に反射して、よくわからない色をしている。今の将純の心境のようだ。
「あ、そうだ!」
会話に無関心だった彩華を見かねた紗季が、元気よく立ち上がる。無駄にテンションが高い。嵐が去った後は静かだと言われるが、肝心の嵐はまだまだ去りそうにない。
だが、この程度で驚いてはいけない。紗季の真の恐ろしさは、言い出した事を本当にしてしまう行動力にある。
石狩鍋を食べに北海道へ日帰り旅行をしてしまうような宇宙人だ。何を言い出すか、予想できたもんじゃない。
だから、将純の安泰は彩華の次の言葉に懸かっている。
「せっかくだし、みんなで水族館に行こう! 曜日は今週の日曜! 各自で昼食を取った後、昼十二時に最寄り駅集合よ。遅れたら、全員にコーヒー奢りだから!」
どっかのヒロインみたいなセリフを早口に言い切った紗季は、口におかずを詰め込むと一人で校舎の中に戻っていった。嵐は過ぎ去り、静寂が訪れる。将純の安泰は守られた。
「ごちそうさま」
小さくて優しい声。
彩華も既に弁当を食べ終えていたみたいで、すでに見えなくなった背中を追って校舎に消えていった。
芝生に残っているのは、広げられたすっからかんの弁当箱。彩華に片付けるという概念はないらしい。
屋上には放置された男子二人だけ。気まずい沈黙を打ち破るように、口を開く。
「竹見はどう思う?」
「何を?」
「学校に来てから彩華に避けられてる気がするんだ」
「ん? ああ。それは、確かに避けられてたな」
花壇に植えられたカーネーションを眺める大助は、わざとらしく気のない返事をした。
やっぱり大助も感付いていたようだ。今日、学校で彩華と話したのは一言だけ。昼休みが始まったときに、「……ごはん」と言われただけ。それ以外はずっと避けられてる。視線も合わせようとしてくれない。好意を寄せている彩華からのそんな態度は、将純の心をぐさぐさ抉った。
残りのヒットポイントは心許ない。ゲームオーバーの演出もそろそろ近い。
「俺、嫌われたのかな」
「違うだろ。そりゃ、彩華さんは思春期の少女なんだよ。今日の出来事、思い出してみろよ」
思い出す。今日は出勤前のお母さんと少し話をして、二人分の弁当を作って、着替えに部屋へ戻ると紗季がいて、リビングは無法地帯になっていて……、思い出すと腹が立ってきた。頭も痛くなってくる。
「なんかあったっけ?」
大助が力を抜いて笑う。
「はあ、それだからマサは鈍感なんだよ。家から最寄り駅の間、どうやって移動した?」
「全力疾走」
結局、今日は遅刻ギリギリだった。そんな時間に家を出たので、みんなで最寄り駅まで走って移動したのだ。
ここでも問題は彩華だ。走るのが遅すぎる。仕方なく将純は彩華の手を取って走るしかなかった。
普段はめったにないけれど、普通の日常。失いたくない日常。けれども、大助が言うような点はどこにもない。
「照れてるんだろ」
意味わからん。そのことを季節の花々を眺める大助に、目で訴えた。
「はあ、ほんとに鈍感だな。説明してやるよ」
両手を合わせて、感謝の念を伝える。
「僕が思うには、原因は走る時にマサが彩華さんの手を握った事だろ。恥ずかしいと思っているんだろうね」
「彩華に限って、それはない!」
秒単位の速さで否定する。
絶対に恥ずかしいはずがない。自分のパンツを男子に洗ってもらうような人間に羞恥心があるとは、少しも考えられない。天地がひっくり返っても有り得ない。
おかげで、将純がパンツを洗わなくなるのは、夢のまた夢。
日に日に将純の方の羞恥心が増大してしまう始末。
「マサがどう思うかは勝手だけど、僕にはそう見えたね」
相談相手を間違えてしまったようだ。大助の目元が笑う。が、しかし、大助は急に真剣な顔をした。この流れは、あの話が始まるのだ。簡単に予想できて心拍数が上がった。
「で、話変えるけど、将来の夢は決まったのかい?」
「とりあえず進学、かな」
「違うだろ、マサ。本当にしたいのは別にある」
「…………」
何も言い返せなかった。図星だ。だから、声に出せなかった。
「マサは今、焦ってるだろ? 自分だけがただの高校生だって」
「……」
「紗季にはオリンピックに行けるようなスポーツの才能がある。彩華さんには世紀に残るような漫画を描く才能がある。そして、僕には世界中の情報を網羅する才能がある」
将純にはこの後に続く言葉がわかった。
じゃあ、将純には?
「じゃあ、永咲将純には何の才能がある?」
認めるのは悔しい。認めたくない。今すぐその胸倉を掴みに行きたい。
「誰も言わないから、僕が言ってやる。好きなものも嫌いなものもなく、今までにやり遂げた事も打ち込んだ事もなく、ずっと周りに流されてきた。言い換えれば、一度も努力したことがないのが、永咲将純だよ」
「……」
そうだ。昼休み、彩華に握手を求めにくるファンを見るたびに、本当は寂しい思いをしていた。彩華と将純の違いが顕著に現れるからだ。
彩華は人気漫画家、対して将純は何の才能も持たない一般人。
天と地、月とすっぽん、雲泥万里、提灯に釣り鐘、雪と墨。作家でもなくとも、彩華との関係を表す言葉はどんどん思いつく。それほどの埋められない差、はっきりとした溝が両者の間にあった。
手を伸ばしても届かない、背中はどんどん離れていく。平凡と非凡、才能の有無。先へ先へ、もう見えない所で彩華は走っていた。
泣きそうだった、惨めだった、何も持っていない自分に。嫌だった、何も与えてくれなかった神様に。
人気漫画家の彩華と会話しても、優越感なんてものはなかった。あるのは敗北感。周りのクラスメイトは将純を『ラノベ作家』だと信じて疑わない。けれども、本当はただの一般高校生。誰かに「カッコいいね」とか、「凄いね」とか言われても、それは彩華と比べられているような気がして、嫌だった。
自分じゃない自分を褒められているようで。彩華の才能はまるでナイフだ。近くにいるだけで切り裂かれ、ぼろぼろになってしまう。それだけに、彩華と将純は違った。
どう頑張っても、才能ある人間には勝てない。報われない。
才能のない将純が努力したって……
「違うね」
「え?」
「努力は報われるもんじゃない。報われるために努力するんだよ」
一瞬、心を見透かされたかと思った。大助の目線が一直線に将純の心を貫いている。
「彩華さんだって、紗季だって努力してるよ。もちろん、僕も」
「……それは、わかってるけど」
「いや、わかってない。マサはわかってないんだ」
「…………俺には才能が」
「例えばだけど、マサが思っているほど僕は完璧じゃないんだ。本当は僕にも何の才能もなかったんだ。でもさ、紗季には才能があった。悔しかったよ、惨めだったよ。僕が何もしていない間に紗季は一歩二歩と先へ進んでいる。だから僕は自分の興味があったパソコンの道を進むことにした」
「……それは」
「どうして僕がどんな情報でも知ってるのかわかるかい?」
「……いや」
「今の僕はね、プログラマーのようなものなんだよ。努力した結果、プロの称号も貰った。僕がマサの個人情報を知っているのは、マサの携帯をハッキングして抜き出した結果だよ。彩華さんが入学するのを知ったのも、学校のサーバーを覗いたから」
「それって犯罪だよな」
「警察には言わないでくれよ。別荘で一生過ごすとか嫌だぞ」
「……」
「まあ、今は腕を見こまれて警察庁にスカウトされてるけど」
大助が自嘲気味に笑った。将純は少しも笑えなかった。大助は本当の嘘は言わない。
ずっと疑問だった。どうして大助は他の人が知らない事を知っているのか。その疑問はハッキングしていたらと考えると解消される。にわかには信じ難いが、確かに大助のパソコン操作は凄い。
そんな大助も才能がなかった。もっと信じ難い。けれども、不思議と納得してしまう。
「僕が言いたいのは、ただ一つだけ。言い訳に才能の有無を挙げるな」
「…………」
話は終わりだと、大助が立ち上がる。将純が顔を下に向けている間に弁当箱を片付け終えていたらしい。
将純に残ったおかずを食べる気力はなかった。昼休みの終わりも近いのに、体が動かない。力を抜いて、芝生の上にごろんと寝転がる。視界いっぱいに青空が広がる。
全て正しかった。大助の言葉は全て正しかった。
ずっと才能の有無を言い訳にして努力から逃げ続けていた。
何もしないまま、もう十六年が過ぎる。逃げ続けたまま。
本当は自分でもできるんだって、心のどこかで甘えて。
やればできるんだって。そう信じて。
何もしないまま。
全てが過ぎる。
遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
のろのろと立ち上がって、食べきれなかった弁当箱と散らかされた彩華の弁当箱を片付ける。
五時間目はもう始まっている。こんな所でのろのろしている暇はない。けれども、足は動かない。思考はぐちゃぐちゃとしたままだ。こんな頭で授業は受けれそうにない。諦めて、どっかりと腰を下ろす。
ただただ時間が過ぎていく。何もしたくない。
思考停止した将純のポケットで、携帯が震えた。メールの着信だ。
重い重い指で操作してメールを開く。
——今日、わたしの家に来て
それは彩華からだった。
「……ははっ」
乾いた笑いが口から洩れる。
今、彩華だけは話したくない相手だった。
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