第7話 セキュリティとは
ピピピピッッ、と目覚まし時計の機械音で叩き起こされる。
水面へ浮かび上がる時のような、現実と夢の境界線を漂うような浮遊感を感じると、すぐに重力が体に舞い戻ってくる。
好き嫌いが少ない将純でも、この感覚は嫌いだ。
夢の中で空を飛んでいる時の体の軽さや、何でもできる神のような全能感覚がさっぱり消え失せて、代わりに重力に押しつぶされそうになるからだ。きっとニュートンは、この感覚から重力を発見したんだろう。
体を支配する違和感を振り払って、何度か失敗しながらもベッド横の目覚まし時計を止める。
現在時刻は早朝の五時半。良い子とお天道様はまだ闇の中で眠っている時間だ。
冬なのか春なのかはっきりしない季節の上に、まだこんな時間なので、布団の外の空気は凍っているように冷たい。感覚的にはマイナスの域の温度だ。
今すぐ二度寝したい。でも、そうすると学校には間に合わない。
ベッドから毛布だけ引っ剥がすと体に巻き付けて、将純はふらふらとした足取りで一階に降りる。極寒の空気で満たされた廊下の移動は、五十メートル全力疾走よりも疲れる。
そんな将純の足が止まったのは、廊下にリビングからの光が漏れていたからだ。
「母さん、おはよう……、今日はいつもより早いね」
「おはよう、マサ。今日は早番なの」
背中にも届くような黒髪を背中で束ねている母は、コーヒーカップを左手で支えながら、右手で新聞を読んでいた。
地味だが清楚なブラウスとハイウエストデザインの紺色スカートを着ていて、今にも仕事に行くような恰好だ。新聞から顔を上げた母は、将純の方を見た。
「高校のほうはどう?」
「……中学と変わらないかな」
「友だちはできたの?」
「まだいないよ」
「……」
「……」
すぐに会話が途切れる。
将純の母は近くの総合病院で看護師の職をしている。病院までの勤務時間は、将純の通学時間と同じ一時間。将純よりも早く起きて、遅く帰ってくる。時には帰ってこない日もある。
だから、朝は会話する時間がなく、将純も急いでいる母とは会話しないようにしている。
しかし、今日は違った。母は視線を新聞に戻す事なく、将純の顔を凝視したままだった。
「……マサ、何かいいことあった?」
「ないよ、そんなの」
「嘘ね、顔に書いてあるもの」
「今どきそんな手口には騙されないよ」
「あらそう、けれども珍しく嬉しそうな顔してるわよ。目元の隈が目立っているけどもね」
「…………」
あながち間違い、ではなかった。
昨日の一件の後、将純は夕飯の時間になるまで紗季に事情説明を求められた。最終的にはただの事故として処理されたが、一週間毎日スクワットと腕立て伏せそれぞれ百回ずつを義務付けられた。スポーツマンの紗季にとっては朝飯前かもしれないが、将純には夕飯後だ。理由はどうであれ、一週間後には筋肉ムキムキに違いない。
けど、将純が恐れていたのは、もう一人の被害者だ。
彩華はあれから口を聞いてくれなかった。話しかけても全無視。視線は極力交わらないようにされる。うっかり目が合うと、「むう」とか唸って、威嚇してくる。しまいには、いつもなら家まで送るのだが、将純が声を掛ける前に帰宅されていた。
嫌われたのかな、と一人で悩んでいた将純の元に届いたのは、彩華からの一通のメール。
内容は、
——お嫁に行けなくなったから、引き取ってください
と将純を喜ばせるもので、昨晩の永咲家の風呂場からは、「いやっほ~!」という浮かれた雄叫びが聞こえていたという。
誰でも一目で図星だと分かる顔を浮かべた将純に、母は含みのある眼差しを向けると、新聞を畳んで立ち上がる。出社の時間だ。
コーヒーカップを水で軽くすすいで、母はリビングから出ていった。と思ったら、すぐにドアが開かれて、
「いってらっしゃい、頑張ってね。恋の相談には乗ってあげるわよ」
と笑いを堪えるような声で、優しく言い残して出ていった。
「……余計な心配だ」
複雑な気分で吐き捨てる。母親とは思っているよりも息子を見ているらしかった。
気持ちを入れ替え、棚から大小二つの弁当箱を取り出す。二つなのは、彩華の分もあるからだ。
一週間前に彩華が訪れた時、ダイエット中だと言う彩華の出した条件下で夕飯を作ってみた。与えられた条件はタンパク質3グラム程度、リンは1グラム以下、塩分とカリウムがごく微量。厳しすぎる。ダイエットとは思えない厳しさだ。
だけれど、幼い頃から両親の帰りが遅かった将純は、料理の腕だけはメキメキと上達していた。その上、母親は総合病院で働く看護師。だから、厳しい食事制限を満たす料理のレパートリーも広い。
冷蔵庫の持ち合わせで作った夕飯は彩華に絶大な支持を受け、それ以降の彩華の弁当は将純が担当している。
キッチンの前に立つと、調理スタート。
鍋に水を入れて加熱している間に冷蔵庫から味噌、麩、ネギ、かんぴょう、にんじん、ごま油、砂糖、しょうゆ、だし汁、これらの食材を取りだす。
水が沸騰したと同時に火を消すと、均等に味噌をこし器で溶かす。麦茶のような色になった熱湯に、ネギと麩とだし汁を少量ずつ入れる。これだけで簡単な味噌汁の完成だ。
次にフライパンを出すと同じように加熱し始める。にんじんは使う食材の中でも一番火が通りにくいので、最初からフライパンに乗せるのがポイントだ。芯までしっかり火が通ると少しの砂糖とかんぴょうを投入して、上からごま油、醤油、だし汁を少量ずつ注ぎ込む。
美味しそうに漂う芳香を落し蓋で封じ込め、火を消してしばらく放置。冷凍飯をレンジで加熱するのと同時進行で、かんぴょうの炒め物を弁当箱に詰めていく。味噌汁は専用の魔法瓶に入れる。最後にご飯を弁当箱に敷き詰めていく。これで完成だ。
二つの弁当箱を学校指定のサイドバックに入れると、将純は着替えを済ませる為に二階へ向かった。
「やあ、永咲くん! 今日はいい天気だね~」
出迎えたのは、仁王立ちの紗季。将純の眉がぴくりと反応した。
頭を抱えても、現状は変化しない。
「……あのさ、ベランダの鍵って閉めていたはずだよな?」
「昨日帰る時に開けておいたよ」
「俺の家にはプライバシーの概念がないのか!」
「盗んだよ」
「概念は盗めない!」
わずかに残っていた眠気はすっかり吹き飛び、将純は普段の調子を取り戻していた。
「永咲くんは今日も朝から元気だね!」
「だ、れ、の、せいだ! このやろう!」
「裸を見た相手にそんな暴言を吐いちゃうんだ~、彩華ちゃんに言ったろ~」
「んなっ、それは卑怯だぞ!」
「そうそう、彩華ちゃんの胸って意外と大きかったよね~」
「お前はどこにプライバシーを捨ててきたんだ!」
「トイレに流した!」
「下水道で探してこい! 後、着替えるから部屋から出ていけ!」
「ふ~ん、私は気にしないも~ん」
「俺が気にするの!」
「私の裸見たくせに」
悔しいことに、何も言い返せなかった。
紗季が将純のベッドに右足を乗せて、右手を空高く掲げる。勝利のポーズだ。
「……満足したなら、出ていけ」
「一階で待ってるね!」
珍しく素直に紗季が部屋を出ていく。俊敏な身のこなしは、さながら猫のようだ。すぐにどたどたと階段を飛び降りる衝撃が響く。
「……どこかに平和とか、やさしさって落ちてないかなあ」
心の底からの溜め息を付く。朝から気分は最悪だ。なんで罰ゲームのような思いをしてるんだろうか。もう少し将純に優しくしてくれてもいいだろ。世界は思い通りにはいかないらしい。
壁に掛けられた菜ノ花高校の制服を手に取ると、ずっしりとした重い気持ちのまま素早く着替えを済ませ、鞄を引っ提げてから階段を駆け下りる。
一階に戻ると、三人の人物がテーブルを囲んで座っていた。
目が合う。
「おはよう、マサ。不機嫌そうな顔だね」
「さあ、学校よ! 青春の舞台に向かって飛んで行こう!」
「遅いわ」
三人が同時に口を開く。同時に聞こえて、何を言ってるか少しもわからん。
テーブルを囲んでいるのは、大助と紗季と彩華だった。紗季が玄関を開放したのだろう。
「お前らな……」
わなわなと肩が震える。気を落ち着けないと、すぐにでも爆発しそうだ。落ち着け、こんなのは慣れているだろ。
「まあまあ、そんなに怒らないでよ。私と永咲くんの仲なんだから」
「宇宙人は宇宙に帰れよ。見送りには行ってやる」
「じゃあ、学校に行こう!」
「因果関係どこにあった!?」
「ねえ」
「こっちは何だ?」
「遅刻するわ」
澄み渡たる透明感のある声音。優しく小さいのに、それでいて芯がはっきりした口調。彩華だ。
「あのな、お前らがプライバシー侵害するから遅刻しそうなんだ!」
「国境線は存在しないわ」
「国内だからな! セキュリティもあったもんじゃねえよな!」
「わたしが守ってあげるよ」
「お前が侵害してる側なんだよ!」
腹の底から出した将純の叫びは、春の大空に響きわたったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます