第6話 防風の訪問

 天気は快晴。気分は好調。今日は絶好の勉強日和だ。さすがにそろそろ溜め込んだ宿題を消費しないと、提出期限に間に合わない。


「よし、やるか」


 発声して腹に力を溜める。こうすることで不思議とやる気が湧いてくるのだ。怠け癖の強い将純が考えた、勉強を始めるきっかけ作りだ。

 さっそく物理基礎の教科書と参考書を開く。まだ一週間も使われていなくて、まるで新品のように光沢が宿っている。一年後にはぼろぼろな姿だろう。

 始めようかと決意してシャーペンを持つ。あと十秒で勉強を始めよう。深呼吸してから、カウントダウンを開始する。

 十、九、八……七を思い浮かべた瞬間、思わぬ邪魔が入った。


 コツンッ。

 何かが窓にあたったような音。紗季からの呼び出しだ。

 嵐が来たら農業はできない。

 勉強は諦めて、出番のなかった参考書を閉じる。立ち上がって、溜息を付きながらベランダの扉を開ける。

 するとサルのような体使いで、紗季がベランダ横の排水管を伝って登ってきた。さながら、その顔は獲物を見つけた猛獣のようだ。


「今日もお邪魔するよ~ん」

「……あのなあ、家に入るのは玄関からにしろ! ベランダは玄関じゃない!」


 毎日毎日ベランダから家に侵入される身にもなって欲しい。


「だって~、ベランダの鍵が開いてるんだし!」

「開けてるんじゃない、壊れたんだ! つか、そもそも先週直したぞ! 玄関から入れ、玄関から!」

「階段上らないといけないし、ちょっと距離長くなるし!」

「そんなに変わんねえだろ! うだうだ言い訳するな!」


 もうすっかり勉強する気は起きなかった。紗季のマイペースぶりに振り回されすぎだ。

 言っても仕方ないので、諦めるような気持ちで大きく伸びをした。しばらくは心身ともに休めない。

 あくびを噛み殺していると、紗季がふと何かを思い出したような仕草をした。


「あ、そういえば、大助くんが玄関の鍵開くの待ってるよ~」

「それ先に言えよ!」

「だって、三歩前に進めば忘れるもん!」

「鶏かよ!」

「宇宙人だよ~ん」

「開き直るな!」


 どたどたと慌てて階段を下りて、玄関の鍵を開けると、すぐに外から扉が開けられた。ぱあっと視界が広くなって、眩しさに将純は目を細めた。

 立っているのは、一人のリア充。底が見えない灰色の目に、かっこいいシャープなデザインのメガネ。親友の将純でも嫉妬してしまうような美貌は、相変わらずのニヤニヤとした笑みを貼りつけてる。

 その顔を見たら、どっと安心感が体に流れ込んだ。


「よう、遊びに来たぞ」

「……はあ、良かったー。竹見だけは普通の子だー。俺が落ち着けるのは竹見だけだー」

「棒読みで言われても、ちっとも嬉しくないんだけど」

「彩華は今日もとことん非常識だし、紗季は友達の部屋の窓に小石をぶつけて呼び出すような子供の真似するし」

「へえ、マサってそんな風に女の子を呼び出したことがあるんだ」

「な!? んなわけあるか!」

「じゃあ、呼び出された側か?」

「もっとねえよ!」


 声を荒げると、大助は確かな微笑を浮かべた。いつものニヤニヤ笑みじゃない。もっと確かなものだ。


「で、彩華は?」

「マサの部屋にでもいるんじゃない?」

「は? どういうことだ?」


 そう聞き返しても、大助はこれ以上答える気はないといった雰囲気で、階段の奥を見ている。

 その先に彩華は見えない。

 あれはちょうど一週間前の出来事だ。


 校長の長ったらしい演説を聞いた入学式があった日。長居した彩華の家から自分の家に帰ると、数時間後、逆に彩華が将純の家を訪れた。もちろん、彼女は極度の迷子中毒らしいので、事前に家の場所を地図アプリで教えていたのだ。

 だが、教えてその日の内に訪ねてくるとは思っていなかっため、将純はかなり慌てた。

 玄関の扉を開けると、倒れてきたのは彩華の細い体。弱り切った猫のようだった。


「……どうしたんだ?」

「ォ————おなか、へった」


 意味わからない。

 状況の把握するのに少し時間が掛かった。その間にも彩華のお腹はぐーぐー可愛い音を発している。


「……で、どうして欲しいんだ?」

「ご飯をご馳走して欲しいと思ったり、して?」

「自分で作れよ!」

「料理下手だよ、わたし」

「弁当買えばいいだろ!」

「ダイエットで食事制限してるから、わたしには難しい」

「意味わからん」

「何もなくて飢えそうになってたら、『ちょうどよかった、君がいた』って思い出して。食事を恵んでください」

「乞食かよ!」

「料理造れるなら、君はいつでもお嫁さんになれるね」

「何の話だよ! てか、それなら、平池さんがお嫁さんに来る側だろ、絶対」

「えっ!?」

「ど、どうしたんだ?」

「……君はわたしにお嫁さんに来て欲しいの?」

「いや、その……まあ」


 そんなラブコメをしていたら、今日と同じようにベランダから侵入した紗季と鉢合わせをした。


 彩華のぶっ飛んだ性格と紗季の宇宙人的な性格は、どこか互いに惹きあうものがあったみたいで、あっさり打ち解けて仲良くしていた。水と油みたいに反発しあうとてっきり思っていたのに。物怖じしない性格の大助とは、言わずもがな。

 毎朝、通学路で三人が出会うと、


「彩華さんは今日もかわいいね」

「ごめん、竹見君とは付き合えないよ」


 大助の言葉に、彩華が何の気もないように答える。


「まあまあ、そう言わずに。僕のお嫁さんになってよ」

「花嫁姿は永咲君にもう先行予約されてるから」

「それは残念」

「え~、大助くん彩華ちゃんを口説くなんてひどいよ~。大助くんのお嫁さんは私なんだも~ん」


 こんな会話を楽しんでいた。性格は似ても似つかずだけど、意外と馬は合うようだ。


 これが五日前の事なので、今ではすっかり馴染んでいる。そしてどうしてか、将純の部屋は三人の溜まり場となってしまっている。国境線もあったもんじゃない。

 ほんと、どうして周りには変人ばっかなんだ。この世界には常識人っていないのかな。


 そんな事を痛感しながら階段を上ると、本当に彩華が将純の部屋にいた。


「ちょ、どうして彩華がここにいるんだ!? 紗季じゃあるまいし、どこから入ってきた!」

「ベランダから」

「ブルータス、お前もか!」

「私が上り方を教えたんだよ! いや~、漫画家って言うだけに手先が器用で、どんどん上達してお母さん嬉しいよ」

「妙なこと教えるな!」


 頭を抱えたくなる。この頃は声を荒げる頻度が高くて、水分の消費が激しい。黒い炭酸飲料で喉を潤す。

 そこらへんに平和は落ちていないらしい。交番に落とし物として届けられているだろうか。


「ねえ、君」

「次はなんだ?」

「これ、よろしく」


 彩華が差し出してきたのは、色とりどりの衣服が入ったビニール袋。中身は全て彩華の服。生活に必要な知識がことごとく不足している彩華は、自分で服の洗濯すらできないのだ。だから、どうしてか将純が彩華の服を毎日洗っている。学校の制服も下着も全てだ。


 将純は男子だから紗季にでも頼めよ、と最初は思っていたのだが、宇宙人には荷が重すぎた。洗濯機を貸したら、返ってきた時には修理が必要な状態だった。親父が直してくれて、弁償はせずにすんだ。

 大助はというと、ニヤニヤした顔を浮かべているだけで、彩華の下着でも何でも淡々と洗ってくれそうな気がする。でも、そんな光景は想像もしたくないので、結局、将純が洗濯する事になったのだ。


 それでも、将純が彩華の下着を洗うのは抵抗がある。それなのに、彩華は逆に少しも抵抗がない。

 どうして洗っている方が羞恥心を覚えるのか。人類永遠のテーマだ。

 先日、さすがに荒れ狂う感情を抑え込むのに疲れ、将純は彩華にこう聞いた。


「あのさ、彩華は今までどう生活してきたんだ? 親御さんもいないのに」


 すると、彩華からは単純明快な答えが返ってきた。


「世話してくれる人がいたから」


 と返事された時は妙に納得してしまった。やっぱり彩華は一人では生きれないらしい。つまり、あれだ。廃人なのだ。


 ビニール袋の一番上はおとなしい水色の下着上下セット。色がおとなしくとも、下着には変わりない。男子高校生には目に毒だ。視界に入らないよう目を逸らしながら受け取ると、彩華が嬉しそうに微笑んだ。

 その顔を見ると、毒気を抜かれてしまう。

 取り繕うように将純は口を開いた。


「下着ぐらいは自分で洗えよ」


 毎回洗濯物を渡されると思わずしてしまう、恒例のやり取り。


「天地がひっくり返ってもできないよ」

「自慢げに言うな」

「それほどでもないわ」

「一度でいいから彩華の下着を洗う俺の気持ちにもなってくれ」

「……どきどきする」

「わかってるなら、せめて下着は自分で洗ってくれ」

「じゃあ、代わりに君のパンツを洗ってあげるから」

「どんな理屈だよ!」


 ちゃぶ台を用意して座っていた大助が、腹を抱えて大爆笑している。

 笑われるのが癪に障った将純は、大助の視線を無視して、ビニール袋片手に階段を下がる。向かったのは、永咲家共通の風呂場。

 もちろん目的は入浴ではなく、隣に備え付けられた洗濯機。


 蓋を開けると、洋服も下着もなんでも構わずに全て放り込む。いちいち全て分別していたら、狼か仙人にでもなってしまいそうだ。

 袋の底に一つだけ残ったグレーのパンツは目を背けながら、指で摘まんで放り込む。僅かながら漂う彩華の甘い匂いが感情をかき乱す。

 変な妄想をしないうちに、残ったビニール袋はゴミ箱へぶち込む。終えた時にはすっかり息切れしていた。

 今までも理性が吹き飛びそうになったのは、いったい何回あっただろうか。荒れ狂う感情を抑え込むのにも疲れる。


「慣れたもんだね」


 その声に振りかえると、腕組して壁にもたれかかった大助の姿が、将純の視界にあった。


「何が?」

「いや、彩華さんの下着を扱うのも板になってきたな、と」

「慣れたいとは思ってない」


 一週間前はいろいろ入ったビニール袋を前に三十分ほど固まっていたが、今はそこまで考えずに洗濯できる。だけど、本当は一生こんな事に関わりたくない。そもそも、こんな未来になるなんて、入学当初は考えもしなかった。

 ほんと、人生何があるかわからない。


「そりゃそうだろうな。誰が気になってる子のパンツ洗うんだ? 変態かよ」

「変態言うなよ!」

「僕ですら紗季のパンツは洗わないぞ」

「聞いてて虚しくなるから、やめてくれ……」


 どんよりとした気持ちで洗剤を計量し、洗濯機の中に入れて蓋を占める。使用するのは標準コース。中に水が入っていく音が聞こえる。一時間もあれば終わっているはずだ。

 それを横目に、大助が触れて欲しくない話題を切り出してきた。


「んでさ、マサは小説家のことをどうするつもり?」


 急に襲ってきた罪悪感に息が詰まる。


「……まだ、考えてない」

「それなら早く決めた方がいいと思うよ。嘘だと告白してもこの関係を続けるか、それとも彩華さんのことは諦めるか」


 ずっと後回しにしてきた問題は直視したくない。本当は自分でもわかっているから。嘘を付くのは悪い事だって。


「…………まだ、考えてない」


 大助の顔にはニヤニヤとした笑みはない。真剣な顔。

 本当は将純だって真実を告白したい。ずっと嘘付いていた事を謝らないと。でも、怖くてできない。彩華がどんな反応をするのか、考えただけで身が竦む。だから、嘘を付き続けるしかない。


「僕と紗季がいつまでも嘘を付き通すと思うなよ」

「……わかってる」


 大助と紗季には本当に感謝している。将純が嘘を付いた理由には深く言及せずに、そっとしてくれている。周りの人達にも真実を言わずに、将純をずっと守ってくれている。

 それも長くは続かない。二人以外にも情報が漏洩するリスクはある。そんなことになるぐらいだったら、将純から真実を言った方が良い。


「……勇気がないんだ。言い出す勇気が」

「勇気があるから言い出すんじゃない。言い出すために勇気を出すんだ」

「なんだそれ」

「いや、紗季の受け売りの言葉。ちょっとだけアレンジ加えたけどさ」


 少しも顔を上げられなかった。全て正しい。正しいからこそ、怖い。一方的な即死級のコンボだ。


「悪かった、そこまで落ち込むとは思ってなかった」


 見上げると、ちゃんとニヤニヤ笑みを貼り付けた大助の顔。いつもはイラついていたが、今だけは有り難い。

 両頬を叩いて、気合を入れる。くよくよ落ち込んでいても、埒が明かない。


「ありがとうな、竹見」

「ん?」

「まだ勇気は出ないけど、俺、考えてみるわ」

「頑張れよ」


 会話を終えて階段で二階に上がろうとした将純だったが、大助に後ろから腕を掴まれてつんのめった。


「待てよ」

「……竹見?」


 振り向くと、何かを企んでいるような顔をしていた。


「今、上に行かない方がいいと思うよ」

「どうしてだ?」


「いや、彩華さんと紗季がさ、下着も含めて全ての服を交換し合ってるんだよ。もしかしたら今、二人とも全裸かもしれないだろ?」


 思わず、生まれたままの姿の彩華を想像しそうになった。体中の血液が沸騰して、将純は慌てて想像を止めた。

 その様子を見て、大助が噴き出す。完全に弄ばれた。


「嘘だよ、嘘。たまにはジョークもいいかなって思ってさ」

「とんだ迷惑だな」

「ごめんごめん」


 大助の声を後ろにして、しっかりとした足取りで階段を上る。将純は廊下をまっすぐ進むと、突き当りの自室のドアを遠慮なく開けた。

 思考が停止した。


「きゃ!?」

「え?」


 紗季と彩華の声が同時に響く。二人は部屋の中央に立っていた。一糸纏わぬ生まれたままの姿で。二人の間には脱ぎ捨てられた衣類の山。一番上には二人の下着的なものがある。彩華は肩を抱くように胸を隠し、紗季は猫のような速さで移動して机の陰に隠れている。


「え、何してるんだ? 二人とも」


「「…………」」


 二人からの返事はない。

 それで停止していた将純の思考が、少しづつ現実を認識していく。細い肩に控えめな胸。やわらかな腰のラインに、長い髪。

 次の瞬間、絶叫が部屋中をこだまする。


「ぎゃあああああああああああ!」


 悲鳴を上げたのは将純だ。人生で一番の音量だったかもしれない。慌てて自室のドアを閉める。嘘のように空間が静寂を取り戻した。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい」


 ドア越しに誠心誠意込めて土下座する。


「覗いたな! 大助くんにも見られたことないのに!」

「わたし、お嫁さんに行けない」

「ほんとごめん!」

「許さん!」


 家中を揺るがした精一杯の謝罪は効果も虚しく、将純は下着だけ身に着けた姿で飛び出してきた紗季に投げ飛ばされた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る