第5話 マンガ家の依頼

 それから一時間後、将純はどうゆうわけか彩華の家の前に立っていた。


 場所は運命なのか、将純の家からさほど離れていない。直線距離にして約百メートル。近いとは言えないが、同じ通りなので家の窓からギリギリ見えるか見えないかのような、とにかく微妙な場所である。

 とは言っても、小中学校の校区が違ったので、お互いを知らなかったとしても不思議ではない。


 落ち着いた黒色の屋根とグレーに塗られた壁で、小さな庭付きの簡素な一軒家。どこにでもあるような家だが、将純は心を惹かれた。


「ここが、私の家」

「……綺麗だな」

「ありがとう」


 素直に感想を伝えると、彩華がはにかんだ。

 結局、将純は彩華の家に来てしまったのだ。

 道のりは約一時間。学校の正門から最寄り駅まで歩き、電車の車内で四十分揺られ、そこから少し歩いたところにある。こんな遠方の高校を選んだのは将純の責任だが、いささか遠すぎではないか。まだ初日だが、疲れた。流石に毎日続けるような気力は湧かない。


 いや、本当に疲れたのは、そんな原因じゃない。

 問題は彩華が天然だったという一点に尽きる。言い換えれば、ただの『世間知らず』だったのだ。

 例えば、彩華は恐ろしい事に、電車の乗り方を知らなかった。

 何を思ったのか知らないが、彩華は改札のバーを自然な動作で乗り越えようとして、係員に止められていた。本人が言うには、切符という存在は伝説だと思っていたらしい。

 だったら、今朝はどうやって学校に来たのか。それが無性に気になってしまう自分を、将純はひどく腹立たしく感じたものだ。


 だが、そんな程度では終わらない。

 彩華の家に向かう途中、将純は大きな公園の周囲をぐるぐる回っているのに気が付いた。何をしているのだろうと思っていたら、そのまま彩華は公園の周りをぐるぐる歩き続けるでないか。あまりに当然という表情だから、将純はすぐに判断できなかった。


「なあ、平池さん」

「どうしたの?」

「この道、さっき通ったよな?」

「うん」

「道に迷ったよな?」

「迷ってなんかないわ」

「嘘つけ! どう見ても迷っているだろ!」


 彩華はかわいい顔で、首を傾げた。その様子に心臓の彩華が跳ね上がる。思わず、顔を逸らしてしまった。


「……道に迷った以外に、何と説明すんだよ?」

「ただの迷子よ」

「それを道に迷うと言うんだよ!」

「そうかもしれないね」


 彩華はどこ吹く風のような態度をしている。そこでもう将純は彩華の性格に感付いていた。紗季側の人間だ。よくもまあ、途中で投げ出さなかったと思う。もちろん、彼女に惚れているからである。そうでなければ、既に会話を強制終了しているところであった。


「あのさ、迷子って、お前……家の場所がわからないのか?」

「もちろん、そうよ」

「自慢げに言うな!」

「そうかもしれないね」

「そうとしか言わないんだよ!」


 まさしく未知との遭遇に将純は言葉を失ってしまう。何もかもめちゃくちゃだ。


「どうやったら、自分の家を忘れんだよ」

「わたし、先週引っ越してきたばかり」

「そんな理由で忘れるかよ! 相手する警察も大変だな、おい!」

「事実、ここに忘れている人物が約一名」

「お前だよ!」

「君、責任転嫁は良くないと思う」

「だから、それはお前だろ!」


 頭がおかしくなりそうだ。自分の中の常識が崩れていくのを感じた。この世界で理解の及ばざる未確認生物は紗季だけでいい。


「ということで、君にはわたしを案内する義務がある」

「どういうことだよ!」

「でも、大丈夫」

「……一応は聞いてやるけど、何が大丈夫なんだ?」

「怒らない?」

「ああ、怒らない。意味不明な事を言わない限り、絶対に怒らない」

「じゃあ、言うね」

「はよしろ」

「わたし、迷子には慣れているから」

「それの何が大丈夫なんだよ!」

「ひどいわ」

「お前がだよ!」

「怒らないって言ってたのに」


 そんな感じで、彩華との会話は予想を上回っていた。これが演技じゃないから、恐ろしい。

 まさに、ずっと異国に住んでいたかのような常識離れ。そうでないなら、厳重に保護されてきた箱入り娘。末は国家の重鎮にでも嫁ぐのか。


「いったい、いつの時代だよ……」


 考えてみれば、校門前のやり取りからもそんな予兆はあった。

 会話自体がずれていて噛み合わないし、出会ったばかりの人を家に招くように、スキンシップが激しすぎる。大胆なのか天然なのか、とにかく距離感が掴めない。

 けど、それが良いと将純は思った。

 だって、彼女こそが平池彩華なのだ。唯一無二の存在。他人とは違う魅力だ。


「どうぞ」


 彩華が玄関のドアを開けて、振り向いた。


「あ、はい。お邪魔します」


 ここまで来たら、家に入らない選択肢はない。

 暗い玄関に入ると、続いて入ってきた彩華が電気を点けた。暗闇に包まれていた玄関が光の下に現れる。

 疑っていたわけではないが、本当に引っ越し直後らしく、家具は一切置かれていない。カーペットも傘立てもなく、剥き出しの下駄箱の中身はすっからかん。生活の雰囲気は感じられない。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなる。


 ただ、目に入るのは、床に置いてある二足の靴だけ。一つは学校指定の運動靴で、もう一つも同じく体育館専用靴。両親の靴は見当たらない。一人暮らしなんだろうか、と将純は思った。


「親は、一緒じゃないのか?」

「……お父さんは交通事故で、お母さんは一年前に」

「……そっか、ごめん」

「いい、慣れてるから」


 強がるように彩華が小さく笑った。将純は笑えなかった。一瞬だけ彩華の顔に陰りが見えた気がする。手を伸ばさないと消えてしまうような、そんな儚い印象がした。


「上がって」


 靴を脱ぐと、彩華が階段をとてとて昇っていく。慌てて付いて行くと、廊下突き当りの部屋が開かれていた。


「……え?」


 よくもまあ、言葉を失わなかったと思う。まるで、下降気流が暴れたような部屋。

 真っ先に目に飛び込んだのは、床一面に散乱した大量の雑誌とB4サイズの紙。内容はわからないが、どうやら絵が描かれているみたいだ。


 次に目に入るのは、多くの蔵書が差されている本棚。部屋の反対側には業務用のどでかく高級そうなスキャナーと印刷機。そして正面に構える机にはパソコンの大きなモニターが二つも設置されていて、これまた高級そうなペンタブが据えられている。


 先ほどの生活感のしない玄関とは変わって、そこは沢山の物で溢れかえった狭苦しい部屋だった。

 それよりも、散乱している大量のB4サイズの用紙のせいで、床の表面が見えない。もはや足の踏み場すら残ってない。


「……………………」


 その部屋は素人の目でも見紛う事なく、正真正銘マンガ家の仕事場であった。


「ちょっと散らかっているから、片付ける」

「……ちょっとって、だいぶ散らかしてるの間違いだろ」

「そうとも言える、かな?」


 そこは、異世界だった。いたって普通の人生を歩んで来た将純には、宝石箱のようにきらきらと輝いて見えた。

 見渡す限り、知らない世界が広がっている。いや、その本棚にはもっとたくさんの世界が詰まっている。

 そんな詩的な表現が平気で思いつくほど、そんな衝撃に脳を揺すぶられていた。


 彩華はというと、そんな将純には関心も示さず、屈みこんでは一枚一枚用紙を拾っていく。

 見る限り数百枚はあるので、すぐには終わらない。

 それでも彩華は平然と集めていく。

 そんな姿を眺めているのもいいけれど、制服姿でしゃがむからいろいろと見えそうで目のやり場に困る。今日から男子高校生だから仕方がない。


 何とか理性を保って、将純は視線を中身がぎっしりと詰まっている本棚に移す。

 木の温もりを感じる本棚は三段。その上段には『簡単にわかる上級漫画家の書き方講座』や『手っ取り早い新しいネームの創作方法』や『全米が震撼した絵画全集』といった、漫画に関した書物が突っ込まれている。マンガ家という職業が如実に表れている。


 この時点で、もう将純は彩華が本当の『神田先生』だと信じて疑ってなかった。

 これを見て漫画家以外の職業が思いついたら、逆に怖い。

 そもそも初めから、あの大助の太鼓判押しだ。天地がひっくり返っても大助は嘘を付かない。


 中段には神田先生の漫画『殺し屋メイドシリーズ』の全巻と、作中に登場する主人公たちのフィギュアが飾られている。特に戦闘用のメイド服で身を包んだセシリアが可愛い。

 でも、左から並べられていて、右にはどうしても隙間が目立つ。刊行速度がいくら早くても、まだ世界には十冊の漫画だけだからだ。だから、表紙が見えるように飾っても、本棚には悲しい隙間ができる。


 下段には……、素人の将純には皆目見当もつかない、用途不明の機械が突っ込まれていた。


 将純は視線を中段に戻す。

 飾られている漫画本の表紙はいつ見ても見事なものだった。

 コアなファンからは『はじまりの街編』と呼ばれる一巻の表紙は、元の世界のスパイ服を着ているセシリアと黒と白のメイド服姿のセシリアが背中合わせで立っていて、こちらを見ているイラストだ。


 背景は二人の間を境界にして、左側は現実世界の煌びやかな都会ビル群、右側は異世界の中世風の街並み。その二つの世界を繋ぐのは、軽やかなフォントで描かれた作品タイトル。さながら不思議の国のアリスみたいに不思議な構成だ。


 だけど、驚くべきところはそこでない。その圧倒されるセンスだ。

 初めは、ただの幻想的な絵だ。何も感じない。でも、しばらく見ていれば、絵に命が吹き込まれたかのような錯覚を覚える。

 肌を撫でる暖かい風を感じる。煌びやかな都会からは夜の喧騒が、中世的な街からは祭りのような騒がしさが耳をくすぶる。


「…………」


 圧倒的だ。声すら出ない。息を忘れる。ふわふわと浮かぶような感覚。絵の中に飲み込まれるような衝撃。

 何度も見た表紙なのに、この感覚はいつまでも慣れない。

 それは、例えるなら『生きた絵』だった。イラストであるにもかかわらず、写真以上の価値を持つイラスト。いや、もしかしたら映像さえを超えるかもしれない。そんな絵だ。


 常識の概念がない表紙の漫画が、第一巻から第十二巻まで飾られていた。

 最初、その表紙が目に入っても、反応できなかった。

 それが見知らないイラストだったからだ。


「ん? ……、十二巻?」


 びっくりして左から数え直す。でも、確かに十二巻の漫画が飾られている。

 『殺し屋メイドシリーズ』の最初の二巻は勇者の陰で暗躍する『はじまりの街編』だ。そこから二巻ずつ舞台となる国の名前がサブタイトルとして振られている。

 軽やかなタッチの雪と冷ややかな氷が美しい『冬の国編』、その次の二巻は重めかしい背景が写真のように綺麗な『鉄の国編』、そこから『花の国編』と『楡の国編』が続いて、ここまでが販売されている十冊だった。


 その隣には見た事もない二つの表紙。


 いつものメイド服を着ているセシリアと、剣を構えた勇者が描かれている。背景はとんでもなく真っ白な空を背にした巨大な城で、よく見るとあちこちで火と煙が上がっている。

 次の瞬間、漂ってくる血の匂いと肌を焼くような熱さを感じ、剣と剣が交わる重金属音が聞こえた、気がした。

 将純は我を忘れて、その表紙を見ていた。鳥肌が立った。何か、底知れないものを感じていた。

 無意識に瞬きを繰り返していると、題名の下に描かれたサブタイトルに気付いた。


 第十一巻『白夜の国』


 ほんとに知らない名前だった。


「これ、刊行前の……」


 言葉とは裏腹に、将純の意識も感覚も、まだ表紙に囚われている。

 思わず、手が伸びていた。

 読みたかった。

 まだ誰も読んでいない最新刊を。続編が待望されているこの作品を。読んでみたかった。


 でも、まだ未発売の作品を無関係の一般人が読んでしまっていいのか。著作権とか、後々になって問題にならないだろうか。だけれども、読んでみたい。

 体から出ようとしている感情と、わずかに残っている理性がせめぎ合っている。

 しかし、罪悪感が少しずつ将純を蝕み、だんだん理性が優勢になってきた。


「そこにある漫画は自由に読んでいいよ」


 けれども、後ろから聞こえた彩華の言葉に、あっさりと理性は崩れ去った。

 残ったのは、荒れ狂った感情。

 それに身を任せて、将純は十一巻に手を伸ばした。

 手は震えている。一ページずつめくりながら読み進めていく。

 最初の数ページは、前回のあらすじと物語導入部分の完全カラー。


 セシリアと勇者は近隣で目撃された魔族を追って、白夜の国に侵入する。けれども、スパイとして疑われた二人は身包み剥がされて城の地下牢へ放り込まれてしまう。

 絶体絶命のピンチに訪れたのは、魔族の襲撃イベント。二人は一本の剣もない状況で、何とかならないか画策し始める。


 そこからは普通の白黒印刷に変わる。けど、クオリティの高すぎる作画力が絵に次々と色を与えていく。澄み渡る空の群青。颯爽とした草木の翠緑。光を飲み込む夜空の漆黒。燃え盛る焚き木の真朱。光を反射した剣の白銀。


 凄い。本当に凄い。コマに描かれた主人公たちが生きてるかのようだ。

 気が付いたら息も忘れて読み耽っていて、その巻も残すところ二十ページぐらいになっていた。

 見た事もないような演出で、例え一日中でも読んでいられる。でも、その前に両目の限界であった。

 本を閉じて、そっと元の場所へ直す。


「読み終わった?」


 余韻に浸っていた将純の意識は、彩華の呼びかけで戻って来た。

 いつの間にか、散乱していた雑誌や用紙は綺麗さっぱり片付けられていた。フローリングは全貌を現している。

 彩華はどうなんだろうと思って振り返ると、椅子に座って机に向き合っていた。横から覗き込むと、手元にはペン。タブレットに何か描いている。


「あの、平池さん?」

「……まだ終わってないから、もう少し読んでいて」


 せっせと黒いペンを動かす彩華の顔は、想像も出来ないほど真剣。タブレットの画面上を滑るペン先に、その全ての神経を使ってる。


「何してるんだ?」

「ネームを描いてる」

「それは見ればわかりますけど……」


 ネームといえば、漫画の下書きの事だ。何も見ずに描いていたから、ネームだろうと当たりを付けてた。


「わかるなら聞かないで、今忙しいから」

「…………」


 理不尽だろ。

 将純は口の中だけで呟いていた。

 溜め息を付きながら、その背中越しにタブレットの画面を見る。


「……すごい」


 次は声に出して呟いてた。

 その一言はタブレットの画面に描かれた絵を見た将純の心を、的確に代弁していた。


 ジャンルは、強いて言えば恋愛漫画だろう。

 それは、一人の少年が本棚に寄り掛かって漫画を読んでいて、その様子を彼女が眺めているだけの物語。どこにでもあるような、ありふれたシーン。日常の一コマを切り取っただけの物語。


 ただ、その絵を見た瞬間、息が詰まった。

 じわじわと体と外界の区別がつかなくなる。

 何がそうしたのかわからない。けれども、その絵には何かがあった。足元から迫り上がってくるような、心臓を鷲掴んで訴えかけてくるような、言葉にできない何かが。

 何かが、その絵にはある。


 もちろん、これは原稿ですらない、ただのネーム。

 背景もないし、色の濃淡もない。吹き出しも、演出もない。

 それでも、将純の心は惹かれていた。


 震える足を抑えて、動き続ける彩華の手元に視線を移す。

 画面上を滑るペンは、人の域を超えた速度。だけど、その動作一つ一つによって付け加えられる線は意味のある存在となっていく。作品が完成に近づいていく。

 いや、その表現は少し語弊がある。

 すでに完成している絵に手を加える事で、それを未完成にして、完成を次々と塗り替えていくような。

 将純にはわからなかった。将純にはその作品の本当の完成を、その作品の限界を読み取れなかった。


 呆然としていると、彩華の手が止まった。

 ネームが完成したのだ。言葉を失ってしまう、そんなネームが。

 彩華がせわしく操っていたペンを置いた。そして可動式の椅子をくるっと回転させて、将純と向き合う。

 無垢で純粋な視線とぶつかる。


「そこに、座って」

「……ああ」


 彩華の声で、将純は素直にぺたんと床へ座る。すると、彩華も椅子から床へ座り直した。


「…………」


 でも、座っても彩華は何も話さない。沈黙の幕が下りる。

 思い切って将純が口を開こうとすると、彩華ががさごそと机の引き出しを漁る。

 取り出してきたのは、分厚い紙の束。軽く四百枚を超えているだろう。

 そしてあろうことか、それを将純に渡してきた。両手へずっしりとした重みを感じる。


「……これは?」

「新しいネーム」


 なるほどそれらは漫画の下書きみたいだった。まだ色の濃淡はしっかりしていない段階だが、コマ割りもされてるし、吹き出しの中にはセリフも入っている。


「これって、俺が読んでもいいのか?」


 下書きを元に漫画の内容を決める。その時に作者が話し合うのは、編集のはずだ。まだ完成もしていない原稿を、編集以外の人が読んでしまっていいのか?

 そんな意味を込めた質問は、彩華の「早く読んで」という言葉で一蹴される。


「じゃあ、読むぞ」

「うん」

「本当に読むぞ」

「うん」

「本当の本当に読むぞ」

「…………早くして、バカ」


 睨まれた。

 本人に許可されたので、部外者の将純が読んでも大丈夫だろう。

 最初の一枚から読み進める。どれだけ早く読んでも一時間はかかりそうな量だ。だけれど、不思議と楽しみだった。神田先生の新作なんて、普通は読めるもんじゃない。


 タイトルは『リドル・アクター』と表記されている。直訳すると『なぞなぞ・勇者』だろうか。よく分からないけれど、異世界ファンタジーのようだ。

 凝ったデザインのタイトルの下から漫画は始まっているようで、ドラゴンが空を飛んでいる

 イラストが描かれている。


 世界観は魔法や剣技のありふれた、ゲーム感が溢れる異世界。その世界で人族は長い歴史を綴ってきた。

 しかし、ある時、後に大地融合と呼ばれる大規模な地殻変動が発生し、人族の暮らしていた大陸が別の大陸と繋がった。すると、別の大陸にいた住民が戦争を仕掛けてくるのだ。いわゆる、魔族である。


 彼らは身体能力のみならず魔法にも秀でているため、次第に人族は劣勢となる。

 そこで、人族側は女神からの加護がある人材を育て、勇者として、魔界へ送る計画を進めた。目的はただ一つ。魔族を統べる魔王の討伐、それだけ。


 沢山の勇者が戦場に送り出され、互いの勢力は拮抗する。そして、終わらない戦争が七十年続いた。


 ある日、その名誉ある勇者の一人に選ばれたのが、主人公エイジ。彼は自分の故郷を魔族に滅ぼされ、そして剣技の才能があったエイジは、仲間たちと魔王城を目指す。


 しかし、エイジは旅の途中で優しい魔族と出会ってしまった。自分の故郷を滅ぼしたのだから、もちろん悪い魔族もいるだろうが、逆に友好的な魔族だっているのだ。


 とはいっても、勇者という職務を放棄することはできない。例え、望んでいなくも、彼らに刃を向けなくてはならない。殺したくないのに、殺さなければいけない。そんな日々が続く。

 そうして、勇者エイジの心はいつの間にか疲弊して、本当の自分がわからなくなってしまう。


 そして、そんなエイジに夢を思い出させたのは、皮肉なことに、幼い魔王エリアだった。

 彼女もまた平和を望んでいたのだ。けれども、攻撃的な魔族が多い魔界では、彼女の考えは異端であった。

 でも、あるいは、本来の敵である勇者なら。彼を説得して、人界との交渉を進めれば。そう考えて、魔王エリアは勇者エイジに接触したのだ。


 二人で世界平和を目指す為に。


 しかし、それを快く思わない輩だってもちろんいる。ただ単純に殺すことが好きな者、戦争でお金を稼ぐあくどい商人、人族と魔族は水と油のように相容れないと信じて疑わない民衆、たくさんの壁が行く手を阻む。

 それでも、二人は二人の夢を目指す、そんな話だった。

 とても面白い。物語の中に入っていくような感覚がして、自然と手が次のページへと伸びていく。


 空の青さを感じる。吹き抜ける風を感じる。料理の味と匂いを感じる。ベッドの体を包み込む柔らかさを感じる。敵と戦う時の肌がピリピリする緊張感を感じる。傷を負った時の焼けるような痛みを感じる。

 どこまでも、本当にどこまでも漫画の世界に引きずり込まれていく。ああ、と声にもならない感嘆の声が漏れ出る。


 そして読み終わると、原稿を持っていた自分の両手に雨が降ってきた。発生源は将純の両目。

 それに込められている感情は、内容への感動だけでない。主人公二人のかわいそうな境遇への涙だった。


 戦争は終わらない。望んでも終わらせられない。人族は魔族に家族を殺され、魔族は人族に仲間を殺された。だから、復讐するしかない。どちらかが滅びないと戦争は終わらない。流れた血は、相手の血でしか流せない。それが戦争だ。

 本当はみんな戦争の終結を望んでいる。でも、一度始めたものを追える踏み切りが付かないのだ。血生臭い戦いの末に、残るものが何もないと知っていても。


 勇者エイジが魔王エリアを匿った後はといえば、それを知った民衆からは異端と見なされ、かつて彼に加護を与えた女神は、彼を破門とする。そして、戦争をなくしたいと訴えても、助けてくれるのは少数派。

 それでも、二人は困難に立ち向かう。いつか、その丘の向こうの景色を見れると信じて。


 表面上は悲しい物語だ。けれど、それは間違っている。間違っている。

 悲しくても、幸せな話だ。幸せなハッピーエンドを約束されている、そんな話だ。


 もっと続きを読みたい。まだ完成もしていないのに、そんな感想を将純は持った。

 顔を上げると、彩華がじっとこちらを見ていた。


「どうだった?」

「……面白かった。上手く表現できないけど、心にぐっときた」

「そう」


 彩華の声は特別何の感慨も抱いてなさそうだが、その頬のわずかな紅葉は気温だけが原因じゃないだろう。自分の作品が人に評価されるのは、やっぱり嬉しいのだ。


 まだ出会って半日も経っていないけれど、彩華は世界を知らない無垢で純粋な少女だと印象に残った。変な自己紹介をしたり、家の場所を覚えていなかったり、電車に乗れなかったり。日常生活に必要な知識が欠落している。

 例えるなら、何も書かれていないノート。何にも染まっていない真っ白なキャンバス。物語はこれから始まるのだ。そんな予感がする少女。


「で、どうしてこれを俺に見せたんだ?」

「……」


 返事はない。

 言うべきか悩んでいるような様子だ。将純は彩華が口を開くのを待った。


「その、えっと……」

「……」

「君にそれを小説にしてほしくて」


 一瞬、幻聴かと疑った。小説、そんなワードが聞こえた気がした。


「ごめん、俺にもわかるような簡単ジャパニーズで、もう一回言ってくれ」

「その、えっと……」

「そこからかよ! その次だ!」

「君にそれを小説にしてほしくて」


 意味わからん。本当に意味わからん。

 思わず彩華の瞳の奥を覗く。そこには冗談の色がない。


「よし、話し合いをしようか。どうやら互いの情報に行き違いがあるみたいだ」

「そうみたい」

「まず俺が平池さんの漫画を読んで」

「それで、わたしの作品を小説にしてほしいとお願いしたの」

「いや、だからどうしてだよ!? その理由を聞こうか」

「君には関係ないと思う」


 さいですか。

 理不尽さに思わず溜め息が出る。でも、これで彩華と仲良くなれるかもと割り切る。と言うよりかは、そうでもしないとやってられない。


「で、具体的に俺はどうすればいいんだ?」

「話せば長くなるよ」

「それでいいから、説明してくれ」

「まず、」

「まず?」

「何度も何度も読み直して」

「読み直して?」

「いっぱい理解して」

「理解して?」

「この作品を小説にするだけ、とっても簡単だよ」

「……他には?」

「えー、小説にするだけ、以上!!」

「何も考えてなかったんですね、わかります」


 小説にする、とは軽々しく言うけれど、小説を書き上げるのは易々とできる事でないはずだ。将純は作家でもないけれど、それぐらいはわかる。

 ちくりっと心に痛みが走る。考えなくてもわかる。自身が付いた嘘への罪悪感だ。でも、もう取り消しはできない。嘘に嘘を重ねるしかない。


「わかった。初めてやるような内容だから、きっと時間かかると思う。それでも、いいか?」

「うん」


 昼前には学校から帰ってきたはずなのに、窓から差し込む茜色の光に、将純はどこか物悲しい空気を感じたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る