第3話 恋と嘘
初めて入った教室には、当然だが将純が知る者は一人もいなかった。
本来なら大助と紗季はクラスメイトなので、ここに姿がなければいけない。が、二人の席は空席のままだ。
幸いな事に、まだ担任の先生はやって来ていなかったので、遅刻を諫められる事はなかった。
「よう、寝坊か?」
席に座ると同時に、右に座っていた生徒が話しかけてきた。
ちなみに、このクラスの男女比は珍しくぴったり半々であり、男女それぞれの名前順で交互に座っている。そのため、『梓川』や『池田』のような名前の順番が逆になったりもする。
「ね、寝坊じゃありませんよ」
慣れない敬語を使うと、その様子に男子生徒は笑いを我慢するように腹を抑えた。
もはや地毛とは思えないようなブラウンヘアで、海外の人のように長身でスリムな体形。シャープで鷹のような目つきだが、滲み出る雰囲気は柔らかく、話しかけやすそうなタイプだ。
どちらかと言うと、全体的に日本人とは見えず、フランス語を話していた方が違和感なさそうに見える。
大助とは別の方向で、女子ウケしそうな外見だ。と言うよりかは、大助よりも女子に慣れてそうにも思える。
「ごめん、ごめん。びっくりさせちゃったよね? 俺は
「あ、はい」
「で、何やってたの、お前? 朝から彼女とデート?」
「違いますよ」
「まあ、そりゃそうだよな。この学校に来て、青春なんかないよな」
何が面白いのか、声に出して笑った。
「毎月テスト二回はあるし、そんな暇ねえもんな」
「そうですね」
敬語でいいと言われたが、元々が人見知りをしてしまうタイプなので、口調は固くなってしまう。
だが、そんな将純にも関わらず、希光は怪訝な顔をしなかった。
「ま、一応簡単な自己紹介をしとくと、俺は東中学出身の向井希光。将来の夢はプロのバスケ選手になって、NBA優勝すること。で、お前は?」
「俺は、
「おう、よろしくな!」
そんな他愛のない自己紹介が済んだところで、前の扉から担任の先生が入って来た。若いの青年教師だった。
どうやら、始業式は教室備え付けのプロジェクターで見るらしく、黒板の上からスクリーンが降りてきた。
「なんか、私立高校ってお金持ちだよな」
担任に聞こえないように、隣の希光が小声で言った。
校長先生がスクリーンの中で話す。確かに体育館まで移動しなくていいな、と思ったりもしたが、入学したという雰囲気は少しも感じられない。
ただ、新たな学び舎に期待を寄せている他の生徒と反対に、将純は暗い顔をしていた。この学校の歴史やら校訓やらはどうでもよく、問題はこの後に待ち受けている試練。
入学式はどこの高校でもあるようなテンプレートで滞りなく終わり、巻き上がっていくのは本日の業務を終えたスクリーン。
担任の浅田なる青年教師は教卓に立ち、一人一人の顔を順番に眺めていくと、
「みんなに自己紹介をしてもらおうと思う」
と言い出した。
ありがちな展開だろう。一般的な流れだ。広辞苑に『自己紹介とは、入学式の次に行われるイベントである』と載る日もそう遠くないはずだと思う。
だけれど、理性では受け入れても、感情では嫌だ。未だに五年前のトラウマが脳裏をチラついている。少しづつ、少しづつ友達が離れていった、あの日々が脳裏から離れない。幻覚が見えるようだ。
三年前の中学初自己紹介は同じ失敗を繰り返さない為に、いろいろと理由を付けて学校を休んだ。その日と同じように、今日も休むつもりだった。
まあ、それでもいいだろうと将純は思っていた。初日では授業もないし、それぐらいで内申点を下げられるはずがないのだ。
だが、あれはつい一時間半前の事だった。
まさか学校に行くとは思っていなかった将純は、前日から徹夜でゲーム攻略に勤しみまくっていた。
しかし、今日の朝、
「おはよう」
「俺にしたら、今からお休みなんだけど」
「ふむ、お前は高校初日から休むと言うのか? 我が息子よ。このまま自宅警備員になるつもりじゃないだろうな?」
「いやいや、今日だけだって」
「ほう、なるほど、で?」
「明日からは学校行くから、今日だけは休んでもいいかなって」
「……お前ももう高校生だ。もう大人だ。もう年頃の息子だ」
「急になんだ?」
「だから、永咲将純、今日学校に行くか、俺の蹴りを腹に受けるかを最後に選ばせてやる」
「じゃあ、蹴りで」
「…………よかろう」
と反抗期で父親に逆らいたい年頃の将純は、腹に鋭い蹴りを受けて、家から無理やり追い出されたのである。
そんな間違った一時間半前の選択が、今では遥か前の出来事のようにも感じる。
「——というような理由から、筋肉トレーニングとプロテインの相乗効果は馬鹿にできない。その為、成長期の君たちにはしっかりと正しい筋トレを行って欲しい」
浅田はそうやって自身の自己紹介を終えて、それから出席番号順にしていくように促した。
将純は教室の真ん中から一つ左の列、前から三つ目の席に座っている。だから、順番が回ってくるまでは、だいぶ時間がある。
右端の生徒から一人ずつ立ち上がり、次々と自分の紹介をしていく。
家で飼っているペットの名前、好きな料理はカレーだとか場刺しだとか、アイドルの推しやら趣味やら、この高校の志望動機まで、実に普通な事を一人ずつ楽しそうに話す。
どうやら出席番号と名前だけでは座らずに、情報を付け足して直ぐには終わってはいけない、そんな暗黙の了解があるらしい。
話し終えた生徒は着席し、次の生徒が立ち上がる。だんだんと将純の出番が近づいてきていた。
けれども、将純には言えそうな事など一つもない。一応は考えたりもみるが、何も思いつかない。
もし紗季なら、「やあやあ、諸君。その呆けた面を見せるぐらいなら、私の配下になるとよいぞ。ふははははは」とか恥ずかしげもなく言いそうだ。今ばかりは、その宇宙人的な性格が羨ましい。
そして、三つ前の男子が、平均よりやや短い自己紹介を終えて座った。
同時に、前に座っていた女子生徒が立ち上がる。音もしない、なめらかで人形のような動きだった。
その女子は背中まで流れているが、束ねていない髪を揺らしながら振り向いた。
瞬間、空気が変わった。
その女子の周りだけ、まるで別次元になったようだった。
襟は白色でネクタイは黒色の紺色ブレザー、ふわっとした質感のあるスカートは少し淡めにした紺色で、この高校としては珍しいちょっとおしゃれな制服だった。前髪は揃えられていて水色のピンで留められている。
目はくっきりと
彼女はポケットからメモ用紙らしきものを取り出すと、口を開いた。
「えっと、わたしは
不思議な声だった。
そこまで大きな声でないのに、教室全体へ溶け込んでいく。
「わたしは、小学二年生の時から、事情があって長らく休学していました。だから、久しぶりの学校生活はとても楽しみです」
はっきりとした声が、脳に直接響くようによく聞こえる。
全てを包み込むような優しさが溢れた声で、心をつかむような声だった。
「でも、残念ながら事情があって、一年以内に転校することが決まっています」
教室のあちこちから、「そうなんだ」や、「何があったんだろう」など、みんなの心の声が聞こえてくるような気がした。
ここまでは、少し普通の自己紹介とは違うものの、そこまで特別な何かを感じさせるものではなかった。
ただ、この先の言葉が教室を騒然とさせた。
「わたしは趣味で漫画家をしています。もしかしたら知っているかもしれませんが、代表作は『元殺し屋メイドは転生しても奉仕するようです』で、わたしは小説家と友達になるのが夢です。短い付き合いになるかもしれませんが、よろしくお願いします」
クラス中がざわついた。だが、やはりと言うべきか、信じていない
「嘘だあ」
「あの、『殺し屋メイド』シリーズ?」
「ほんとに神田先生?」
クラス中から、そんな呟きがはっきりと聞こえたが、頭は全然理解しようとしていなかった。
透き通る白い肌に、芯のしっかりした声に、長くさらさらとした髪に、自己紹介をしながら僅かに浮かべた笑顔に、将純の心は奪われた。
目の前に座っている彼女が、将純の見ている世界から色と時間という概念を奪った。全ての音が遠ざかり、彼女以外が白く染め上げられた。
「……………………」
声が出なかった。心臓の鼓動は跳ね上がり、呼吸は苦しく、座っているのも覚束なくなり、自分がどこにいるのかさえも、この時の将純は忘れてしまった。
彼女だけを見ていた。その肌の白さに、その唇の透けるような薄さに、病人みたいに輪郭が細いけれど美しいその華奢な手に、優しく包み込むような声に、将純は目を離せなかった。この世界から彼女以外の万物が消滅する。そんな錯覚がした。
初めての感覚に動揺した。ぽっかりと開いた心の穴が、塞がっていくような感覚だ。
見つめていると彼女はまたもや振り返り、席に座った。
すると、白く染め上げられていた世界へ、失われていた音と色が急速に戻ってくる。
「——なのかな?」
「……………………」
「本当に『殺し屋メイド』の神田先生? 偽物じゃないの?」
「…………」
「さあ? でも神田先生はプロフィール隠してるから、あるかもしれないよ?」
「…………」
不思議な幻想から帰って来ても、しばらくクラスメイトたちの騒めきに反応出来なかった。耳に入った言葉は、頭を素通りしていくだけだった。
「えー、一度みんな落ち着こうか」
担任の浅田が手を打って、クラス中の注目を集める。
「平池さんから説明があったと思うが、彼女は一年以内に転校するのが決まっている。一年は思っているよりも短い。だから、一緒に楽しい思い出を作ってあげてくれ」
教室の女子が、頷いていた。
「えー、では、次の人」
その声に反応できなかった。耳に入らなかった。
「次は二十番の永咲くんだぞ」
担任の声が聞こえた。
「聞いているのか? 次はお前の番だぞ」
「……は、はい!」
喉から上擦った声が出た。慌てて盛大な音を鳴らして立ち上がると、クラス中の視線が射抜いてきた。
心拍数が上がる。頭が真っ白になっていく。
「え、えっと、
何とか噛まずに名前を言えた。だけど、言葉が続かない。何も考えていなかった。
だから、ふと目の前に座って黒板を眺めている彼女の姿を見てしまった。瞬間、形容しがたい感情が嵐となって、襲ってきた。
彼女と仲良くなりたい、彼女の事をもっと知りたい、彼女に興味を持ってもらいたい、そう思った。いろいろな感情が渦巻いていく。
ねっとりとした、混沌とした感情。名前も知らない、生まれて初めての感情。よくわからないけれど、彼女と話をしてみたいと思った。
だけれど、将純には趣味も特技もあまりない。小説家でも漫画家でもない、ただの一般高校生。どこにも接点はなかった。
だから、少し——、
ほんの少しだけ魔が差してしまった。
自分が何をしようとしているかを深く考えていなかった。泥のように重い感情。それでいて、羽のように軽い感情。それに流されて、将純は取り返しのつかない事を、口走っていた。
「ペンネームは未だ明かせませんが、俺はラノベ作家をしています。これから三年間、宜しくお願いします」
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