8-X.記憶の無い海
ぶくぶく。ぷかぷか。
記憶を閉じ込めた泡が水中を揺らめいて泡沫となって弾けていく。
はじけた記憶が徐々に集まって僕という存在を形作るように浮上する。
白い光。神秘的なものは何もなく、無機質なそれは瞼を通して目を焼き脳を刺激する。
覚醒もままならない微睡の中思うのは今の自分が夢か現か。
積もった記憶から伝わる最後の記憶は驚いた表情の誰か。喧騒を引き裂くような悲鳴。体に伝わるズレと熱。そして安堵感。
僕は何かに手を伸ばし、何か大切なものを引き換えにそれより大事なものを守ったような印象。
きっと今の僕に後悔というものはないのだと思う。それぐらいすっきりとした心持ちなのだから。
声が聞こえた。恐らくは最後に聞いた声。それでいてよく聞いていた声。
それはきっと偶然だった。たまたま相手がそうだったというだけの話。
耳に馴染む響きと聞きなれたセンテンス。感情の波が穏やかなものに変わる感覚。
開いた視界の先にあるのはいつか見た気がする無機質な白。いつも黒い部屋の壁をくりぬいたような窓から見ていたそれが天井だと認識する前に覚えのある顔がこちらを見ていた。
「……っ! ……、……!」
「……、……! ……!」
何かを言っているがそれが言葉として認識できない。何かを言っている男女は確かに見覚えのあるものなのだが。
考えているうちに徐々に音が遠ざかり、不意に静寂が訪れた。
『起きてよ』
聞きなれた声が聞こえた。
『おーい、リスナーさーん?』
ぱちり。転寝をしていたようだが、そんなことよりあいつってこんな美少女だったっけ?
「……おう」
『あ、おはよー。測定予定地点に到達したよー』
ここは深海えーっと、何mか忘れた。5000を超えてからは覚えていない。
というかそうだ、サティの声がなんだか聞き覚えがあるっていうアレだ。
うん? どうだっけ。こっちで聞きなれたのか、サティの声が誰かと似てるのか。
「んで、測定とやらはどんくらいかかるんだ?」
『んーいろいろ実験する予定だからわかんない!』
既に俺が見たかったものは見れた。凡そ水深1000mまでの間に町は見れた。多分関東のそれ。というかなんとかタワーやらアホほど高いビル群を抜けている間に存在した看板にそれを確信させるものが書いてあった。
正直なんで俺がここにいるのかとか、ここがどんな世界なのかとかは割とどうでもいいことで。
俺にとっては久しぶりの外だ。多分俺一人だったらこんなところまで来てない。
きっと夢を見ていた時の俺もどこかにいるんだろう。ここにいる俺が偽物だという訳ではないだろうが、何処かふわふわしているような感覚があるのは否めない。
食事も水も必要無いし、何なら眠ったのだってここ最近で何度かあったくらいだ。
「そうか、俺も見て良いやつか?」
『うん? もちろん! あ、深度調整はしてね!』
圧力の調整だな。これ本当にうすぼんやりと覚えていただけのことだったんだけど、俺には全く影響なくて二人が困惑してたのは笑ってしまった。二人もほとんど調整してないから同じようなもんだろと思ったけど、多分違うんだろうな。どこぞの猫型ロボット並みに便利な二人が人間で堪るかというのもあるけど何かしらの超技術で進化した未来人と言われた方が納得できる。
そもそもアイツら配信者って言ってたけど、多分視聴者は地球じゃなくて宇宙にいるんだろう。スペースコロニーとか月とか。いや、もしかしたらもっと遠く、太陽系の外とか。
いいじゃん。本当に夢がある。俺がただ外に出ただけで感動してたのがアホらしいとまでは言わないが、素敵な未来だと思う。地球がこんな状態なのはまあおいておこう。俺にどうこうできる物でもないし。
「ああ、お前もやっとけ」
「ひゃん」
この不思議な狼も最近ほんのりと体毛に色がついてきた。最初に見た時は白い毛玉だったのに今じゃすっかり森林迷彩っぽさが見えるようになってきた。
俺とサティの間を行ったり来たりする忙しなさがあるうちは今のうちだろうし、サティが背もたれにしていたサイズまで成長することを考えるとそれこそかわいいのは今のうちだけだろう。
『あ、きたきた』
そうして彼女たちの研究室とも呼べる場所で見たものに目を奪われた。
何故か頭に謎猫を乗せているメシエも、こちらを振り返ったサティも今は気にならない。
紅くて赫いその眼。燃え盛るような赤とどろどろと奥から湧き上がる熱がここからでも感じられる。
自然現象というにはあまりにも人間的なそれは確かに瞳というに相応しい。
彼女たちが観測するその星の瞳がモニター越しに俺を見ていた。
自然現象に意志なんてない。そんな思い上がりを正さんとするかのような強いものを浴びせられたかのような衝撃だった。
存在するとは思ってもいなかった何かに、思ってもいなかった何かを言われている。
間違いを正されている。思い上がりを窘められている。自己満足を否定されている。
自然現象に意志なんてない。それが間違っているとは思わない。
しかしそれは明確に俺に問いを投げかけていた。それが正しい事なのかと。
惹きつけられ、引き寄せられ、弾き飛ばされたかのように飛ばされて、不意に体の重みを感じた。
なんだこれ、俺の体はこんなに重かったか? 白い光に照らされて眼球の奥に突き刺さるような刺激に眉根を寄せてやっとのことで瞼を開いてみれば記憶に残る少女がいた。
『起きてよ、ばか』
年子の妹。クソ生意気で態度も口も頭も悪いやつなのは明らかだが顔とセンスがいいのは認めなければならない。
別に親が違うとか差別や贔屓をされたとかそんなことは無かった。俺も妹もかなり自由を謳歌していた。
ああ、そうか。こいつの声が似ているのか。
こいつは勉強以外は何でもできる天才肌タイプの人間だ。歌も踊りも演技も演奏も、要領を掴むのが上手いと言えばいいのか。
凡そ勉強以外の全ての才能を持ち合わせるあいつが持っていないものの一つが運だ。アイツはことごとくツキに見放されている。
ツキに見放されすぎて信号の切り替わりのタイミング、ブレーキを踏むのが億劫だったのか加速しながら突っ込んできた夜闇に溶けるような黒い車が信号待ちの交差点で自転車に跨りながらスマートフォンをいじっていたアイツに向かって滑っていく光景を幻視した。
そうした理由はわからないし、自転車に乗っていたアイツが半ギレになっていたことまではわかっている。幸い信号機の電柱に近くまで押しとばしたからかもしれない。
そうして俺は吹き飛ばされたのだ。
ああ、そうか、俺死んでもいいかと思ったんだ。
多分訳わかんない事言いながらあいつを突き飛ばしたことに対し反射的に並べられた罵詈雑言すら柳に風、馬耳東風どころか朝の歌うような鳥の鳴き声にすら聞こえた。そんな清々しささえ感じるほどに安心したはずだ。
何でそんなことをしたのか。そんなのは俺にもわからん。
理由をつければそんなもんはいくらでもある。
年上だから。兄だから。たまたま助けられる位置にいたから。
俺は別に善人じゃないけど、これだけは間違いなく正しいと思えることをしたはずだった。
ああ、でも。こういう姿が見たいと思ってしまったんだ。
人目を惹くメイクできらびやかな衣装をまとい脚光を浴びるようなものではない。
アイツは見てくれる人のためにだとか応援してくれる人にとかそういう存在じゃない。
あくまで自分主体で自由に活動できるような何か。
正直あいつがまともな仕事についてる印象なんて欠片もないのが悪い。
更に言えば配信者が向いているとも思っていない。
ただ、本当に何となく。
あいつなら自分の持っているもので勝負できそうだよな、なんて考えてしまったからか。
出会った少女が配信者を楽しそうにやってるのを見て、一人じゃなければできるんじゃないかなんて考えてしまって。
当然俺が手伝うなんて予定もない、ある訳が無いわけで。
考えてみれば配信者なんていう画面越しの存在が、テレビ越しの芸能人、タレント、歌手や俳優なんかと同じように人間として存在しているわけで。
ああ、でも。サティは本当に楽しそうだった。
旅をするのも丁度いい目的だった。なんとなく簡単には終わらなそうなのが丁度良くて。
彼女たちがどんな存在なのかはいまいち分からない。特に知らなくてもいいと思っている。
敵対もしなければ仲間でもない。旅の仲間ではあるが配信者と名乗ったからには関係がありそうで全く関係の無い個人を特定されない存在である視聴者として。
いや、そもそも出会った時は俺自身のことは名前や状況なんかは一切分からなかったし、関係性としてはそれが一番だと思ったからというのもある。
それが徐々にスタッフという距離にまで近づき、配信者として活動するサティを応援しながら、知っているはずの極東まで来た。
『リスナーさん!』
サティが再び俺の目の前まで来ていた。全く似ていないのにどこかアイツとオーバーラップする。
「おう」
多分、俺の記憶か意識がおかしくなっているのがわかっているのだろう。
彼女のそれはこちらを心配している表情そのものだ。メシエも訝しげにこちらを見ている。
『大丈夫? なんだかバイタルが安定していないみたいだけど……もしかして星の瞳の影響を受けてる?』
『体感できるレベルの次元パルスが観測されています。貴様、調子が安定するまで休息をとりなさい』
部屋の中央のモニターには何も映っていない。どちらかによって既に切り替えられてたのだろう。
マカミばかりかてとてとまで俺の近くに来ている。動物っていうのは本当に察する力がずば抜けているな。独立行動しがちな猫にすら気遣われるくらいに俺は弱って見えるらしい。
「そう、だな。少し休むよ」
そう言って部屋を後にする。背後から扉が閉まる音を聞きながら、なんとなくそろそろだなと予感する。
此方の世界が現実だとは思えないがそれを言うのは二人に対する裏切りに思う。かといってあちらが現実だとは信じたくないが、記憶が正しいのはあちらだ。
多分、俺はあっちに戻らなくちゃいけないのだろう。
安易に死を選ぶなっていう事なのだろう。
何事も終わり良ければ総て良しというがそう思っているのは終わらせた俺だけで、終わらせられたと思っている他のやつからすれば全然良くはないのだろう。
海底を進む先の道から濾過を挟んで一区画隣にあるのは俺とサティ、メシエが3人で向かい合い、マカミとてとてとの寝床が間に並んで輪を描いたようなフリースペース。
俺はその一角に備え付けられた窓際のベンチに横になる。
組んだ腕に乗せた頭、ベンチに横たえた体が背中や腰に負荷をかける。これまではこんな負荷さえ感じなかった。
そして今度はその感覚が消えていき、重いという感覚だけが残っていき。
思い出すのはあの赤い瞳。恨んでいるのかもしれない。誰が?
ああ、思い当たるやつが一人いたな。もしかしたら俺が助けなくても問題なく助かっていたかもしれない。ああいや、能力があってもアイツは運が悪い。多分ぶつかってたんじゃねえかな。
ふふ、無駄死にの可能性かあ。そいつは考えてなかった。
でもまあ、そんなこと考える暇なんて無かったし、多分俺はあのクソ生意気で馬鹿な妹であっても見殺しにするのは間違いだと思ったのだ。何度考えてもあの時にとった行動に後悔はない。
ああ、だからこそあいつは怒っているのかもしれない。片方だけしか助けられないような中途半端な真似をして、と。
トロッコ問題の亜種かもしれん。ただしレールは一直線。向かう先は妹。俺はレールの傍に立っていた一般人。
トロッコ止まれやとかトロッコ破壊するとかそういうことが出来ない以上、どうにかしてレールの先にいたやつを助けなければならなかった。
考えている時間も止まっている時間もなかったのだから。
静かだ。白い光が照らす病室の中でただ無機質な静寂だけがその世界にあった。
体が重い。動かせないぐらいに重い。何なら瞼を上げ続けるのも億劫だ。
ただ今回は何とか動かせそうだ。少しの間ぼーっとしつつ、ゆっくりと呼吸をする。自然にできるはずの呼吸もやたら重い。視線を動かせば俺がいる場所はカーテンで区切られているらしい。
指先に力を入れてみる。右はどうも感覚が薄いが左はちゃんと反応する。徐々に腕を動かそうとするがベッドに張り付いているかのような重さを感じる。
少しだけ呼吸を整え発声してみる。意味の無い音。それこそ何かを思い出したかのようなぽつりとした、あ、なんて音。
がたり、と音がした。ベッドが揺れる。ああ、あの小憎たらしい妹がこちらを覗き込んでいた。
『お兄……』
「は……」
久しぶりに俺を呼ぶ声がアンタ以外だったので鼻で笑ってしまった。
何を一丁前に泣きそうに心配してましたなんて表情なんてしてるのやら。
まあ兎に角、持っておかないといけないものがある。それだけ確認しよう。
「……俺、の……は?」
『……なにそれ、最初に心配すること?』
ほとんど声出せなかったはずなんだが読唇術までこなすとかもう怖えよ、こいつ。
まあでもそれをオレの視界の範囲内にまで持ってきてくれた。うわ、ひっでえ。これ使えるのか?
まあきっと使えるんだろう。だからこそ俺はもう一度だけ、あの二人に会えるように願いながら瞳を閉じた。
ぱちりと瞼を上げる。部屋の照明は僅かに暗くなっており、淡い日の揺らめくような明かりが視界の端に移りこんだ。ああ、休憩中かと思い体勢を戻そうとすれば何か重いものが体の上にあるのがわかった。
「ひゃん」
ああ、お前か。いや、キレイに俺の上で丸まってんなよ。俺の腹で立ち上がるなぐへえ。
『あ、リスナーさん!』
『……起きましたか。随分長い間寝ていたようですが』
足元に下ろしてもまだひゃんひゃん鳴いているマカミをあしらいながら、定位置に座る。
「どんくらい寝てた?」
『14日くらいかなあ?』
「はあ? え、マ?」
『正確には40時間くらいでは?』
「んん?」
どうやらあんまり日数とかの感覚が無いらしい。しかしどうやったら二日が二週間になるのか。いやワンスパンが短いのだから多分宇宙的な時間の計り方なのかもしれん。
『バイタルは……比較的安定、しています』
『……でもこのパターンは……』
ああ、うん、なんとなく察してるっぽいね。こう心情的なことはポンコツなのに仕草や動きなんかから察することが出来るのはズルいよな。
アレだ、女の勘ってやつ。多少の差はあれど見る目や見られる視線に敏感に反応するのは女性特有という事だろうか。
ただ小奇麗な服を着ていればいいなんて考える俺に比べて前髪の角度や厚みを延々と気にしている妹の姿を思い出す。
まあ俺にどれだけ時間が残されているか分からないし、ここにいる俺がどうなるかもわからないんだ。やることをさっさとやってしまうか。
「よっと」
『……何それ? 通信端末?』
『随分と痛んでいるようですが使えるのですか?』
不吉な言葉が聞こえた気がするが俺は構わず長押しをする。ややあって見なれたマークと共にスマートフォンが起動する。
「じゃ、最後にショート動画でも取ろうか」
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