第3話 本当はわたし、スルメが好きなんですよ
――一七時五六分。
「ここの家のはずなんだけど……」
地図通りであれば、この場所であっているはず。なのだが……。
もう一度、眼前に佇む家を凝視する。
そこにあるのは普通の家だった。睦目の思い描いた芸能人の豪勢な住宅とはかけ離れている。
大きな車庫が付いた二階建ての一軒家。白色をした外壁に、屋根は朱い。
車庫と庭を繋ぐ黒の門から垣間見えた庭先も、特段広い訳でもなかった。
不安になってきて、何度も塾長から送られた家の位置と見比べる。
と、背後を通り過ぎる気配がした。振り返れば、深緑色のハットキャップを目深に被った男性がとぼとぼ歩いている。
自分より身長は低く、顔は影で見えない。この周辺に住んでいる人だろうか。
「あのすみません」睦目は控えめな声量で尋ねる。「はい?」その男性は足を止めた。
「あの、この御宅は誰の家かご存知ですか?」
『瀬ノ』と苗字で言わないのは守秘義務だ。例え近隣住民でも、居場所がバレてしまったらどうなるかわからない。
と、その男性は、しばらく考えるような動作をして。
「……さぁ、ただ散歩をしているだけですから」
それだけ言って、その男性はまた歩き出した。すぐにその背は塀の曲がり角で消える。
変な人だ、と思った。知らないなら知らないと言えばいいのに。
だが、妙に粘っこいその喋り方が、ガムみたいに耳に張り付き不快感を残す。
確かめる術をなくし、本格的にどうしようか悩んでいたら。
唐突にカーテンで閉まっていた窓が開かれる。
「せんせー。ここで合ってますよ!」
見間違うはずがない。瀬ノ杏奈が窓から顔を覗かせ、手を振り教えてくれた。
どうやら間違えていなかったらしい。同時に、ただの普通の家だと思ってしまったことに申し訳なさが募る。陸目は熱くなる顔を俯かせると、軽く手を挙げ応えて、黒の門に手をかけた。
石が埋め込まれた道の先に玄関が構えている。重厚感がある扉を開けると、母親が迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました睦目さん」
華麗な所作と兼ね備えた美貌を以て、お辞儀する姿は絵になる。
柑橘系の、レモングラスのようなさっぱりした芳香が漂っていた。汚れ一つない清潔なタイルに、天井に吊られたシーリング照明の暖かな橙色の明かりが二人を包む。
あの時は面食らって見ている余裕がなかったが、確かに杏奈の面影を端々に感じる。
例えば切れ長な目尻や小ぶり鼻、顔の骨格などだ。
「すみませんでした」睦目は謝った。「目の前にありながら、全然気づかなくて……」
明らかな自分の失態。初日からこんな調子だと幸先が不安になる。
「――――杏奈は二階にいますので」
しかし母親は意に介さず、踵を返しすぐに歩いていってしまった。
急いで脱いだ靴を揃えてその後ろ姿を追う。二階に上がった。
一瞬、手前側にあったドアを開けようとして、母親に首振られた。ここではないらしい。
そして母親がその右隣の、もう一つの方のドアをノックした。
「はーいどうぞ」ドア越しからでもわかる透き通った音色。
母親はドアノブを捻った。途端に、今度はライムの香りが鼻腔を撫でる。
杏奈はふわふわの可愛らしい、猫の模様が散りばめられたベッドの縁に腰かけていた。
高校の制服を纏った彼女は新鮮で、やっぱり高校生なんだなぁ、と改めて思う。
当たり前のことだけれど、テレビに映る杏奈は大人っぽく、特別感があって近づきがたい印象があった。しかし今こうして見れば、そこら辺の女子高生となんら変わりない。
けれど――どんな近くにいても、決して果てしない距離は埋まることはない。
「失礼します……」
そうして睦目はその足を一歩、人気子役のプライベート空間へ踏み下ろす。
部屋は平たく表現すれば、女子らしい部屋って感じがした。
感じがする、というのもこれまで女子の部屋に訪れたことがないからだ。
床に敷かれたマットの柔らかい感触が、靴下越しに伝わる。他にも腰ほどある本棚が二つあったり。猫のぬいぐるみが飾られていたりと、至って特別な何かがあるわけでもない。
「では、睦目さん」
「はい」
睦目は振り向き、母親の方を見る。
「杏奈のことよろしくお願いしますね」
母親がどれだけ杏奈のことを大切にしているかよくわかる。
だから陸目も、託されたその気持ちに応えるように、誠心誠意込めて言った。
「……はい。お任せください!」
こうして母親は最後にドア閉め、その場を後にした。
二人きりとなった部屋。いよいよ、睦目にとっての初授業が開始される。
睦目は何度か深呼吸をし、荒ぶる感情を鎮めた。今は芸能人してではなく。ただの生徒として扱うこと。これは仕事だ。そう言い聞かせ、意識を切り替える。
そんな緊張に満ちる睦目を、杏奈は静かに見つめていた。
「とりあえず、椅子に座ってもらってもいいかな」
この口調は研修で散々練習したもの。
杏奈は素直にキャスターチェアに移動してくれる。
家庭教師で一番大事なのは生徒との信頼関係だと、塾長が教えてくれた。
そのためにはまず、生徒と仲良くなることから。節度は守りつつ、全然砕けた話し方でいいらしい。身体が覚えていてよかった。ほっと胸をなでおろす。
さて、自分の椅子はどうしようか周囲を見渡して、部屋の隅――ちょうど、本棚の横に丸椅子が置かれてあった。一人部屋に椅子? ふと睦目は首を捻ったが、そこまで気にすることでもない。
取ろうと身を屈めて気づいた。
漫画や小説ばっかりだと思っていた本棚の中身は、そのほぼ半分が台本で埋め尽くされていることに。どれも単色カラーのカバーにタイトルを黒い文字で印刷したもの。しかも、どのタイトルも睦目は知っている。『雪の小道、家族の墓』は杏奈が初めて映画の主役を務めた作品だ。
目線を上にずらすと、棚には海を背景に友達と写っている杏奈の写真が飾られている。
「あ、せんせー気づきました?」
杏奈が椅子を回して、こちらに身体を向ける。
「瀬ノさん……これって台本……だよね?」
「瀬ノ、でいいですよ。年上にさん付けされるとムズムズします」
杏奈はとてもフレンドリーに話してくれる。だからか、とても話しやすい。
杏奈の人懐っこいような、人当たりがいいような。いつもどこか楽しげな口調が自然と人を集めるのかもしれない。凝り固まっていた感情が、段々解けていく感覚がした。
「じゃあ瀬ノ……」言いかけて、「さん……」
「……」
杏奈がジト目で睨んでくる。
流石の陸目でも、いくら生徒だからって呼び捨てにするのは気が引けた。
「すごいね。こんなに沢山台本があって」
とりあえず、雑談から始める。言葉を交わし、お互いの距離を縮めることも大切だと学んだ。
それによっては相手の個性がわかり、学習の方法も変わってくるからだ。
「まーこれでも一部、ですけどね」
「一部?」
「別の部屋――私が一人で演技の練習をするため用の部屋があるんですよ。この本棚よりもっと大きい本棚があって、そこに全部収納してあります」
と、杏奈は平然と言う。
これでも一部……? その発言は、睦目にとって十分衝撃的であった。
「……すごいね、瀬ノさん」
だからこんな、簡素な感想しか思い浮かばない。
「それほどでも……ありますよ」
杏奈が嬉しそうに微笑んだ。睦目は、ある青いカバーのした台本の背をしばらく見つめて。手に持った丸椅子を、杏奈の座る椅子の隣に近づけた。
学習机は綺麗に整頓されていて、塵ひとつない。
「では改めて、よろしくね瀬ノさん」
「はい、こちらこそお願いします」
腰を下ろして挨拶をした。ペコっと、杏奈が頭を下げる。
こうして間近で見ると、より杏奈の綺麗な容姿が際立った。
大きな瞳に長い睫毛。端麗な顔立ちに薄桃色の唇。きめの細かい、雪のように白い肌が光を反射する。
「……にしても瀬ノさん。なんで俺を選んでくれたの?」
これはずっと気になっていた事。
杏奈が自分を家庭教師として選んでくれた理由。
――もしかしたら、という淡い期待が陸目の中で膨らんだ。
すると杏奈は、自分の顎下にすっと長い人差し指を添えて、
「んーなんでしょう。なんとなく?」
と、自分でもよくわかっていないような発言をする。
「なんとなく、って……」
なんとなく、で選ばれたのも問題ではあるが……。
「まー勘ですよね」
「勘、か……」
がくっと、どこかで落胆している自分がいた。同時に、そうだよな、と諦観してる自分もいた。無駄に期待していた自分がバカみたいだ。
ふいに杏奈の陸目を見る目が細くなる。
「それにしてもせんせー、家の前でかなり迷ってましたね」
「その初めての場所で、よくわからなくて――」
普通の家とは思わなかった、とは言えるわけもなく。適当にはぶらかそうとしたのに。
「うそ。どうせあれですよね、イメージと違った、みたいな」
「……っ⁉」図星だった。
「演技とかしてると、けっこう表情とか仕草に敏感になるんですよね。わたしの前でうそは吐けませんから」
と、ウインクをしてみせる。その可愛らしい動作に睦目の心臓がギュッと縮まった。
乱れそうになった心の波を、咄嗟に重なる視線から外して平穏を保つ。
「ええと、瀬ノさんはたしか、ケーキが好きなんだっけ」
気を取り直して、質問をした。ネットのプロフィールによれば、好きな食べ物はショートケーキ、趣味は演技とある。
芸能人や著名人、タレントは、調べればすぐに過去の経歴などが出てくる。逆に言えば、不特定多数に簡単に知られてしまうのは、怖い一面でもあった。
「あー調べました? まぁあれ、うそなんですけどね」
「嘘?」
どういうことだろう。
「本当はわたし、スルメが好きなんですよ」
「え、スルメ?」
「はいスルメです」
予想外の解答に思わず聞き返してしまった。プロフィールにはそんな言葉、一文字も書かれていない。
「だって、スルメが好きですって言ったらイメージ悪くなるじゃないですか。だから無難なケーキにしました。まぁそのおかげで、ケータリングとかお土産で、高いケーキ食べれるからありがたいですが」
「じゃあ演技は?」
演技も、嘘なのだろうか。
「あれは本当ですよ。演技楽しいですし。せんせーも、やってみます?」
「いや、俺はいいよ。そういうのは、向いてないし」
――そう、自分に演技は向いていない。
「そうなんですかー。せんせーの演技、見たかったのに」
と、杏奈が残念な表情を浮かべる。人には適材適所がある。杏奈は元から演技の才能に恵まれていたのだ。自分には、それがなかっただけのこと。
今回は初回授業ということで、全体で六〇分。前半は今後の授業の方針とスケジュール決め。後半に授業をする。内訳として、前半二〇分、休憩を入れて後半三〇分を予定している。
後は決まった授業内容やスケジュールを親御さんに確認してもらい、承諾。流れとしてはこうなっている。
残り一○分。
早速本題へ切り出すことにした。
「ではこれからのスケジュールを決めて行きたいんだけど……普段勉強とかどうしてる?」
瀬ノ杏奈は芸能界の仕事で引く手数多で忙しいはず。個人的にも、気にはなる。
「勉強はそうですねー。基本は移動中に参考書とか読んだり、暗記にあてたりしていますかね。小テストとかあるし」
「じゃあ家では?」
「んー宿題はしますけど、疲れちゃって大体すぐ寝ちゃうんですよ」
バックから取り出した手帳に、〈基本勉強は移動中〉〈家であまり勉強はしない〉と書き記す。
「じゃあ苦手な教科とか、ある?」
「苦手な教科ですか……まぁ数学、ですかねー」
「数学、か……」
決して得意ではない、という程ではないものの覚えているか不安だ。去年まで入試で勉強をしていたとはいえ、高二の数学は難しい。模試とかでは地獄を見た。ちゃんと教えられるか心配が募る。
「その他は?」
「他は……」
そこで杏奈は言い淀む。陸目が視線で促すと、杏奈が口を開いた。
「普通ですよ」
「普通……か」
「はい普通です」
その答えに、しばらく陸目と杏奈は、見つめ合う。睦目が怪訝な眼差しを送った。
「成績表、みてもいい?」
「なんでですか?」
「授業の進め方もそうだけど、瀬ノさんの今の学力も知りたいし」
学力に応じて勉強の仕方も方法も変わる。今のレベルを把握しておきたかった。
すると杏奈は、まるで自分の身体を隠すように、身を捩り、
「……女の子の秘密を知ろうとするなんて、せんせーって意外と肉食系?」
と妖艶な瞳が陸目を絡めとる。その言い方だと、まるで自分がイけないことをしているみたいに聞こえる。
「それがないとスケジュール組めないんだけど……」
「べつにそんなのなくても、授業の復習予習で十分じゃないですか」
まぁ確かにその通りだ。授業の復習、予習は大切。授業の理解を深め、長期記憶を保つためにも欠かせない。
「でも、高二だよね」
「はいぴちぴちの高二です」
「大学受験を考えるなら、今のうちに基礎とかを固めて、模試の準備とかしないとかなりきついかも」
「わたし別に、大学受験とか考えてないんですけどね」
「それまたどうして?」
「大学に行ってたところで、とくにやりたいことも無いですし。なにより、本業がありますからね」
すでに杏奈は女優として根を下ろしている。今後の未来が確約されている以上、とくに大学でやりたいことがない人にとっては、その方がいいのかもしれない。
「ちなみに、受験ってそんなに難しいんですか?」
杏奈が首を傾げる。さらりと、その艶やかな黒髪が揺れた。
「まぁー難しいかなー。人によっては毎日勉強一○時間やってる人もいるし」
「一○時間っ⁉ 化け物ですかその人⁉ わたしには、無理かも……」
嫌な顔をする杏奈。気持ちはわからなくもない。
陸目は、一般受験で国立大に入学した。放課後、土日含め勉強三昧。あの辛さは今になっても、二度と経験したくない。けれど、こうして第一志望が通ったため意味はあったと、思っている。だから、そのためにも。
「今のうちに苦手教科とかわかれば対策もできるから、見せてほしいなーって」
「えーでも……」
「お願い、見せて」
「どうしようかなー」
「お願い」
「…………」
杏奈は数秒間沈黙を挟み、「はぁーわかりましたよ」とため息混じりに呟く。
机の引き出しから一つのファイルを取り出し、中から一枚の紙を引っこ抜いた。
杏奈はちらちら、手元の紙と睦目を見比べ、ゆっくり差し出す。
それを受け取ろうと紙の端を掴んだその時。
杏奈が上目遣いで睦目の瞳を覗きこみ、言った。
「見ても、驚かないでくださいね?」
――なるほど。なんとなく、見せたくなかった理由がわかった。
国語や日本史、英語などのいわゆる暗記科目は4~5といいのにも関わらず、数学と物理だけが2と、著しく成績が悪い。まさか、ここまで酷いとは思っていなかった。
「だ、だって数学って訳わかんないじゃないですか! まだ国語とか日本史なら、暗記はできますけど数学なんて、数字ばっかでつまらないし、覚えたとこで意味無いじゃないですか!」
「瀬ノさんは暗記科目が得意なんだ」
「まぁー小さい頃から記憶力だけは良かったんですよね。暗記に関してはドラマで慣れていましたし」
納得した。子役の頃から色んな役を演じていると、自然と「憶える」ことが癖になっていくのだろう。自分はそこまで記憶力はよくなかったため、定期的に復習しないとダメだったが……。睦目は成績表を返す。
けれど、これで勉強の方針は定まった。一旦頭の中の情報を整理して、伝える。
「じゃあ今後の授業についてなんだけど――」
そうして陸目は杏奈に、今後のトライアル期間中のスケジュールを話していく。
話し終え壁に掛けられているアナログ時計を見やると、いつの間にか二〇分を過ぎていた。
決まった事柄を手元のメモ帳に書いていく。
「それじゃ瀬ノさん。休憩入っていいよ。後半は軽い数学の問題解いてもらうから」
「えーやるんですか授業」
「積み重ねが大事だからね」
杏奈はぶつぶつ文句を垂らす。苦手なほど、基礎固めは重要だ。数学は天才でない限り、一朝一夕でできるようなものではない。
ふいに、トントントン。ドアをノックする音がした。睦目が「どうぞ」と応じる。
ドアが開かれる。母親が片手にお盆を乗せて登場した。
「あ、お構いなく……」
と、言い終える前に母親が無言で冷えたグラスと、小袋に入ったモナカを目の前に差し出した。グラスにはオレンジジュースが注がれていてカラリと、中の氷が涼やかに鳴る。
やはり警戒されているのだろか……。
母親のそんな態度に、どう接すればいいのかわからない。
「そ、それにしても、よく休憩ってわかりましたね……」
少しでも話しをしようと、話題をもちかけてみる。
「……家が狭くて、意外と声が響くんですよ」
しかし、あっさりと応えたそれは皮肉が込められているようで、
「そうだったんですか……すみません」と、押し黙るしかなくなった。
杏奈の分のモナカとグラスを置いて、母親は一歩下がる。
「食べ終わった食器はドアの前に置いてくださって構いませんので」
そう言い残して、母親はその場を去った。まだ初日とは言え、ずっとこの対応をされてしまうのも不味い。
一方杏奈は休憩とばかりに、席を立つと本棚から一冊の台本を手に取り読み始めた。
睦目はなんだか見てはいけないような気がして、意識を別の方――後半の授業の準備へ向ける。
視界の端で捉えた、台本を読んでいる時の杏奈は、とても楽しそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます