第4話 塾長室にて

「ではまた金曜日に」


「はい。今日はありがとうございました」


 無事後半の授業を終えた睦目は、授業日記を親御さんへ渡し少し雑談を交わしてから、玄関前で別れを告げ家を後にした。


 授業日記とは、保護者用の報告書みたいなもの。授業内容やその子供の様子を記録するのだ。


 真っ暗な路地を、等間隔に生える街灯の明かりを頼りに進んでいく。


 バスへ乗り、横浜駅に戻った睦目は本社へ足を伸ばした。


 レポートを塾長へ提出しなければいけないからだ。


 本来ならばレポートはメールで送信するだけなのだが、新しい生徒を受け持った教師は、直接塾長に手渡しで提出しなくてはいけないらしい。少々面倒臭いが必要なことだそうだ。


 受付時間が終了し。カウンター前は閑散としていた。スタッフの姿も見当たらない。裏にいるのか、帰宅したかのどちらかだろう。睦目はそのままバックヤードへ入る。


 いまだに仕事をしているスタッフもいたがまばらで、数人程度しかいなかった。


 睦目はレポートの作業をするべく、パーテンションで仕切られた控室に身を滑り込ませた。


 控室を使うのは初めてだ。思ったよりも広く、長机が縦に七台、二列になって整然と並んでいる。様々な参考書が詰まった本棚が壁に沿ってあり、奥にはインクの掠れた跡が残るホワイトボードが佇んでいた。


 控室は自分以外誰もいない。一人暮らしで慣れているとはいえ、小さじ一杯程度の寂しさがばらぱらっと、肩に降りかかる。


 疲れと眠気で鈍くなった思考に鞭を打ち、睦目はノートパソコンを起動して会社で用意されたテンプレートに文章を打ち込んだ。


 数分で書き終えると、すでに登録してあるプリンターからプリントアウトをし、誤字脱字がないか確かめて、塾長室のドアを開けた。


「失礼します」


「いらっしゃい睦目くん。疲れているのにごめんね」


「いえ。大丈夫です」


 そうして、塾長の対面にある椅子を引く。

 睦目は手元のレポートを塾長へ渡した。


「はい、じゃあ確認しますね」


 皺だらけの、骨が浮き出る枝のような細い手で受け取った。丸メガネを掛け、鋭い視線を紙の上に走らせる。その様子を、緊張で詰まった眼差しで見つめていた。


 しばらくして、塾長は顔を上げた。


「うん。上手く書けていますね。どうでしたか? 初授業の方は」


「はい、かなり大変でした。特に後半の数学は中々……」


 ――せんせーこの問題全くわからないんですけど。

 ――ああここは二次方程式を用いて……。

 ――せんせー因数分解のしかた分かりません。三乗ってまずできるんですか?

 ――あぁこの問題はこの公式があって……。

 ――せんせー……っ‼


 みたいな感じで、少し考える問題に突き当たる度に、杏奈は解き方を欲求してくる。


 簡単な問題だと思って、中学か高一で習うような基礎的類題を、家にある参考書から引っぱり出してきたのだが。この調子では他の案を考えた方がいいのかもしれない。


「ふむふむ。数学が苦手で、国語や社会系が得意……杏奈さんは文系のようですね。文系の人は数学が苦手な人が多いですからね……。杏奈さんの様子はいかがでしたか?」


「はい。とても元気で、明るいです。ちょっと調子づいているところもありますが、根は真面目なようで。休憩時間中も台本を読んでいました」


「なるほど。授業内容についてですが、火曜日は総合数学演習。金曜日は各教科の復習、と」


「はい。瀬ノさんに聞いた話では、大学に進学するつもりはないようでして。それで数学の苦手を克服できるように数学の時間を多めに取り、金曜にいままでの授業内容の復習をし、テストに向けてより対策していこうと考えました」


 陸目は自身が提案した授業スケジュールを説明する。


 それを聞いた塾長はふむふむ、と頷き再び視線を紙の上に落とした。そして「上手くできてると思いますよ」と聞きほっと胸を撫で下ろす。


「新しい生徒を持った教師たちにこう話すのはですね、もちろん授業内容の確認もありますが、その教師と生徒さんの相性を見る目的でもありますので。相性が合わなかったら、お互いに辛いだけですしね。でも、初日ですしこれからお二人がどうなるかは、わかりませんが。

 少しでも気になることがあるようでしたら、相談しに来てください」


 くしゃっと塾長は相好を崩す。塾長のその優しさが、全身に染みていくようだった。


 陸目は「はい!」と元気よく返事をする。そして去り際に「あ、参考書は控室に沢山あるのでそれらを使って貰っても構いませんよ」と、言われたので感謝の言葉を述べた後、そのドアを閉じた。

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