命の選択
翌々日、ルネはひさしぶりにエティエンヌの寝室を訪れた。
寝台に横たわるエティエンヌの顔は、熱のために赤く上気している。それゆえに、頬や額に散る白いものが際立っていた。病巣は、既に肌に現れてしまっている。
ルネの姿を認めると、エティエンヌは緩慢に上体を起こした。額から汗の滴がひとつ落ちた。
「報告は聞いている。入手できた不死鳥肉の有効性は、確認できたそうだな」
「ああ、大筋ではな」
幾分ためらいながら、頷く。
一昨日、ルネは入手できた塊のごく一部を調理した。予防効果があるとされた下限の量ぎりぎりを、十人分のスープとして煮出し、ルネ本人とジャックと侍医、残りは封鎖区画で働く医者やシスターで分けた。以後一昼夜、スープを飲んだ人間のうちに
予防効果が確かなものと判断するには、まだ早いと思われた。だが肉に劣化がないことは確認できた。ならば動くのは早い方がいい。いま話をしている間にも、伝染病は街に蔓延し続けているのだから。
だが、おそろしく気が重い。
続く言葉を切り出したくない。
口ごもるルネの前で、ジャックが満面の笑みを浮かべた。
「心より感謝いたします、ルネ様。これで殿下も平癒なされるのですね」
「……そのことだがな、ジャック。エティエンヌも心して聞いてくれ」
二人の怪訝な瞳が、ルネに向けられる。ひさしぶりに見る明るい表情が、今は痛い。
「手元にある不死鳥の肉は、全部で四羽分だ。それでな、必要量が予防と治療とでとんでもなく違う。予防なら、一羽の肉から百人分のスープが取れる」
「では、治療には?」
エティエンヌからの、当然の問い。答えたくない。答えたが最後、続く結論はわかりきっている。
だが、無言でいることもできない。
「発熱時点で一羽分。皮膚に病巣が現れたら……三羽分。それでようやく一人を治せる」
ジャックの顔から血の気が引く。
エティエンヌが、目を丸くしてルネを見つめる。
「つまり一人の治療には、最低でも百人分の予防を断念せねばならないのだな?」
「そういうことになる。肌に出ちまってる状態なら、三百人だ」
わかっている。
こんな話を聞かされて、エティエンヌがどんな判断を下すのか。彼がルネの知る通りの男なら、聞くまでもなく明らかだ。
「わかった。それでは――」
「お待ちください、殿下」
ジャックが割って入ってきた。
「僭越ながら申し上げます。殿下は、ヴァロワ王家の男子で唯一の生き残り。殿下のお命が失われれば、王家正統の血は絶えます」
「そうだな」
エティエンヌの表情は動かない。ジャックの大きな目が、険しく細められる。
「殿下はこの都を、ひいてはこの国を、統べる王となるべき御方。王の生命は、余人の命と引き換えてよい物ではございませぬ。どうか冷静なご判断を」
「私は十分冷静だ、ジャック。安心するといい」
「それでは――」
エティエンヌはかすかに微笑み、熱に潤んだ双眸で、ルネをまっすぐに見つめた。
「ルネ。不死鳥肉の在庫すべてを予防に回してくれ。封鎖区画にて治療業務に従事する者たち、物資の搬入に携わる者たちなど、必要な人員への分配を頼む」
「殿下!」
ジャックから、悲鳴じみた声があがる。
ルネにとっては、わかりきっていた答えだった。彼の知るエティエンヌは、民三百人の命と引き換えに生き延びようとする男ではない。
だがそれでも、心のどこかで思っていた。どこかに別の道があるのではないか。エティエンヌと市民とを天秤にかけずともすむような、上手いやり方があるのではないかと。どこからか、誰かが妙案を持ってきてくれるのではないかと。
そんなものが、あるわけはなかった。物資は限られ時間は減っていく。迷えば迷うだけ事態は悪くなる。
ルネは、胸の内で己へ呼びかけた。決めるなら今決めろ。早ければ早いだけ良い。何をしている、エティエンヌは既に心を決めた。
ひとつ深呼吸をして、胸の動悸を落ち着けて、ルネはようやく言葉を絞り出した。
「……わかった」
「ルネ様!!」
ジャックの叫びは、ほとんど涙声だった。一方でエティエンヌは微笑んでいた。熱に上気し薄紅色に染まった顔が、やわらかく目尻を下げていた。光が差すような笑みだった。
「頼んだぞ、ルネ。私のことは気にするな……自分の力で治る見込みは、まだあるのだろう?」
無言で、ルネは右手を差し出した。
ふふ、と声をあげて、エティエンヌも右手を出した。ふたつの右手が握り合わされた。
「ああ、任せろ。城下の疫病は、この手で止めてみせる」
「頼もしいな。では、私の病は私が止める」
固く、手を握り合う。
エティエンヌの手は、病に冒されているとは思えないほどに、ルネの掌を力強く握り締めた。
◆
貯蔵庫から、白カビに覆われた不死鳥肉を持ち出した。
厨房の調理台に置き、包丁を取ろうとしたところで、不意に背後から殺気を感じた。身の危険を感じた次の瞬間、足を払われ床に倒された。何者かがルネに馬乗りになり、短剣を喉元に突きつけていた。
「ルネ様」
低い声はジャックだった。いつもの丸い大きな目に、おそろしいまでの眼光が宿っていた。
「その肉を、どうなさるおつもりですか」
声に、有無を言わさぬ脅迫の色がある。
「聞いてただろ。あんたも」
「それは、ヴィクトール陛下が遺された王家の財産。王に属する宝を、あなたは有象無象の民に分け与えるおつもりですか」
声が震えている。凄まじいまでの怒りが、伝わってくる。
「それが、あいつの望みだからな」
「望まれれば、相手を見殺しにすることも……あなたは、平気なのですね」
平気なわけがない。
と、返したいのは山々だった。だがこの場では、火に油を注ぎかねない。
代わりにルネは、問いに問いを返した。
「じゃあ、あんたは平気なのか。三百人の命を犠牲に生き延びた悔いを、大事な主人に背負わせても」
「……っ!」
息を呑む音が、はっきりと聞こえた。喉元の刃が大きく震えた。
「あいつは王だ……王となるべき男だ。王となる身に、負わせる気か。三百人を見殺しにした罪を」
「見殺しではありません。貴い命を生かすための、やむをえぬ選択」
「あいつは、そうは思わねえだろうよ」
話しながら、胸の奥に痛みを感じる。あいつがあいつでさえなければ、もう少しばかり冷徹な人間なら、こんな決断はしなくてもすんだ。皆、もっと楽になれた。
だが、あいつは、あいつだ。
「自分の懐に入った鶏一羽さえ、殺せない奴だ。三百人の屍の上に生き延びたとなりゃあ、どれほどの悔いを、死ぬまで抱くことになるのやら。俺には想像もつかねえが――」
ひとつ息を吐き、ルネは目を伏せた。
「――辛いぞ。悔いを抱いたまま生きるのは、な」
「黙れ!」
ジャックが激昂する。
「幼少のみぎりより二十年近く。この身のすべては殿下に捧げてきた。昼も夜も、夏も冬も、いついかなる時も……誰よりも近く、誰よりも長く、我が身は殿下と共に在った」
血走った目が、ルネを見据える。
「その肉は殿下のもの。殿下のために、使うのです。いますぐ」
「断る……と言ったら」
刃が、喉元に押し当てられた。冷たい鉄の感触に、寒気が走る。
だが、引くことはできない。
「俺には俺の、やるべきことがある。あいつとの約束、投げ棄てるわけにはいかねえんだよ」
「私は知っている。誰よりも長く、殿下と共に在ったからこそ。殿下のことは、他の誰よりも解っている……殿下ご自身よりも!」
叫びと共に、高い金属音が響いた。横目に見れば、短剣が床に転がっていた。
熱いものが顔の上に落ちた。
見上げれば、ジャックが泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして、すすり泣いていた。
「解っています。よく、解っています……殿下がどのような方であるか。なにを望んでおられるか。なにを望んでおられないか」
ルネの顔の上に、とめどなく涙が落ちる。拭う気にもなれず、ルネは熱い滴をただ受け続けた。
「どうして……私は、なにもできないのでしょう」
涙声が、聞き取りづらいまでに乱れている。
「殿下の笑顔を、取り戻してさしあげることもできず。病を癒してさしあげることもできず。最後の望みを、叶えてさしあげることもできず」
嗚咽が、混じり始めた。
「ルネ様。私は……あなたが憎い。殿下に笑顔をもたらした、あなたが憎い。殿下を救う力を持ちながら、救おうとしないあなたが憎い。殿下のすべてを奪ってゆく、あなたが憎い――」
そこから先は、言葉にならなかった。
嗚咽混じりのうめきを漏らしながら、ジャックはただ泣いていた。軽く押してやると、馬乗りの身体は簡単にルネの上から退いた。
立ち上がり、背をさすってやる。
「まだ、終わりと決まったわけじゃねえ。あいつの命の力を、今は信じてやれ」
それ以上に言える言葉を、ルネは見つけることができなかった。
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