6章 貴人哀悼
死に至る病
宣戦布告の後も、貴族連合軍に目立った動きはなかった。大軍勢で王都を包囲し、進みも退きもしない。開戦直前の、穀物在庫の徹底した払底ぶりを考えても、意図はあまりにわかりやすかった。
エティエンヌと共に物見塔に立てば、陽光に白く輝く城壁の周りには、砂糖にたかる蟻のような大軍勢が見える。
「俺たちを日干しにするまで動かねえつもりだな。わかりやすすぎて、いっそ笑えてくる」
蠢く黒点どもを、吹いて飛ばすくらいの気合はせめて見せてやろうと、ルネは声をあげて笑った。が、誰も後に続かない。エティエンヌは真面目だから仕方ないが、せめてジャックは付き合えよ、とルネは内心で嘆息した。主人が鬱屈している時には盛り立てるのが、従者の役目ではないのかと思う。
ルネが目配せを送ると、ジャックはエティエンヌの肩を抱いて、赤子でもあやすかのように話しかけた。
「戦は長く続くでしょう。万事をあまり気に病まれませんよう、どうかご自愛なさいませ殿下」
「だめだ。長く続けてはならない」
エティエンヌは、肩に置かれた手をそっと払った。
「包囲が長引けば、疲労と消耗に蝕まれるのは我が軍の側だ。日が経つほどに勝機は薄れていく」
首が横に振られ、一本にまとめられた金髪がゆるやかに揺れる。
「西海岸との連携を急がねばならない。この状況下では、書状一枚の連絡さえも困難ではあるが」
「そこまでどう持ちこたえるかだな……」
ルネは城壁の内側を見下ろした。
前回の王都奪還戦。それ以前の内乱。続いた戦の爪痕は、ほとんどが修復されないまま残ってしまった。崩れたままの街路、家屋、水道――封鎖された王都で、それらはどう都市環境に、治安に、人心に、悪影響を及ぼすのか。ルネとエティエンヌは、十分に予見できずにいた。
◆
包囲下で、ルネを含む王宮料理人一同に休む暇はなかった。
ルネは同僚たちと共に、朝から晩までひたすらパンを焼いた。王都入城時、エティエンヌからの「贈り物」として配布したのと同じものだった。王子の慈悲と寛大さの象徴として、市民たちの安心の拠り所として、ひとつひとつのパンが連帯を繋いでくれるはずだ――そう信じ、ルネたちは備蓄の小麦粉を焼き上げ続けた。いつか在庫が尽きる日のことは、考えないようにした。せめて手を動かしている間だけは、無心になろうとした。
ルネは時間の許すかぎり、食糧配布の場にも立ち会った。「神の料理人」とはあえて名乗らず、配布担当のひとりとして、当番の兵士たちに交じってパンを渡し続けた。不安に翳った市民たちの顔が、受け取りの瞬間だけはほんの少し和らぐ。その、笑顔とまでは呼べない安らぎの表情が、少なからずルネの励みになっていた。
だが日を追うにつれ、市民の表情は目に見えて暗くなっていった。
ある日、配給の列に横から入ろうとする幼子がいた。ひりつくような緊張が周囲に走った。複数人の大人が、幼子を列の後ろに引き戻していった。その折、気になる言葉が聞こえた。
「言うことを聞かないと、王子様に黒い稲妻で撃たれるぞ」
心胆が冷えた。
配給の手を止め、発言者に質してみる。エティエンヌに関するよからぬ評判が、どこからか流布されているようだった。
曰く、逆らえば氷に漬けられ血肉を凍らされる。
あるいは、黒い稲妻で心を壊される。
あるいは、恐るべき幽鬼に喰い殺される。
間違いなく、どれもエティエンヌが使った魔法だ。だが噂の中では実態以上に恐怖が誇張され、王子の非道を強調する内容になっていた。おそらくは何者かが、意図的に事実を歪めて広めている。
戻って報告すれば、既に本人も事態を把握していたようで、エティエンヌは決意を籠めた目でルネとジャックに宣言した。
「明日からは私も陣頭に立とう。民ひとりひとりと向き合いたい」
「さすがに危険ではありませんか?」
ジャックがたしなめる。確かに、暗殺や襲撃の危険を考えれば通常ありえない話だ。
だがエティエンヌは、ゆっくりと首を横に振った。
「このような噂が広がるのは、あの男の影が私に重なっているゆえだろう。であれば、払拭せねばならない……民の恐怖と絶望は、そのまま内からの瓦解に繋がる。だから示さねばならない、私は、あの男とは違うのだと」
父を殺す、父の幻影を殺し尽くす――そう宣言した時と、エティエンヌは同じ目をしていた。
◆
その日以来、エティエンヌは市民の前へ精力的に姿を現すようになった。
配給の食糧を手ずから民に渡す。病人や怪我人が療養する傷病院を訪れ、ひとりひとりに声をかけて回る。民の望みを聞き、励ましの声をかけ、握手をし、陽光が差すような微笑みを贈る。
やがて、流言で語られた「恐怖の支配者」の姿は虚像であるとの認識が、市民の間にも広がっていった。
食糧配給を行うルネたちも、変化は感じ取っていた。食糧を渡す際、エティエンヌへの感謝の言葉を伝えられることが増えた。市民からの言葉を伝えると、エティエンヌは疲れた表情で微笑んでくれた。
相変わらずの包囲下ではあったが、癒されるひとときだった。自分たちの仕事は無駄ではないのだと、確かな実感があった。
エティエンヌは特に、傷病院への慰問に力を入れていた。熱病を患う者たちの手も、ためらわずに握り締め、ひとりひとりに労いの言葉をかけて回っていると、ジャックは言っていた。
傷病院に入る患者は、このところ増え気味だった。急な発熱で運び込まれる市民が、特に第九・第十区画で続出していた。エティエンヌは現地で手ずから布を絞り、高熱の患者を拭ってやっていたと、ルネはジャックから聞かされた。
傷病院での活動が、数日続いた後のことだった。
執務室に戻ったエティエンヌの足取りが、目に見えてふらついていた。
「おい、大丈夫か?」
「問題ない。少し疲れただけだ」
エティエンヌは崩れるように椅子へ腰を下ろした。背に、明らかに力が入っていない。
「どう見ても大丈夫じゃあねえだろ。このところ、ちょっと働きすぎだ」
苦笑いしながら手を取り、驚いた。
異様に熱い。
あわてて額に手を遣ると、こちらもはっきりと熱を持っていた。
「おい、侍医を呼べ! どう見ても、ただの過労じゃあねえ!」
かけつけた二人の医者が、容態を確かめる。二人の意見は食い違ったようで、なにやら激しい言い争いが始まった。だがほどなく言葉は途切れ、双方の表情は異様に暗く沈んでいった。
嫌な予感が、する。
「どうした。そんな、おおごとみてえな顔すんなよ」
冗談めかして笑ってみせても、二人の表情は晴れない。ルネはおそるおそる訊ねた。
「おい。どういうことだ。何があったってんだ」
無理に笑いを作る俺を前に、医者たちは首を振った。
「
「現在、城下で流行している高熱が、この病なのだと思われます。慰問に際し、多くの病人と直に触れ合われたのが原因のように……思われます」
頭の中が真っ白になる。
足から力が抜ける。発するべき言葉を見つけられないまま、ルネはその場にへたり込んだ。
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