4.読解力か、文章力か?

 数ヶ月前から時折、読解力の話で何となくどこかが燃えているのを薄目で眺めていたが、自分は読解力について、よく言われていることとは若干違う考えを抱いており、何となくモヤモヤしながらぼんやり眺めているだけだった。

 ここでは、そのモヤモヤを言語化してみたいと思う。わざわざこんな可燃性の話をするのは、先述したようにうっかり対面の場で口走って燃えたくないという理由もある。長文でつらつら書いた内容で燃える可能性もあるが、その場合文章書きとしては自己責任だろう。


 私は理系なので、学生時代、テクニカルライティングの授業を受けてきた。そこでは、以下のようなことが教えられる。


・英単語二〇個以内で作文しろ。それを大きく超える場合は、二つの文章に分けろ。

・複文は避けろ、少なくとも漫然と繋げるな。

・接続詞は前後の文章の関係に適合するものを選べ。

・動詞の選択の際には多くの意味を持つ抽象的な単語よりも、意味が一つに取れる単語を選択しろ。

・それ以外にも、意味が複数に取れるような文章は避けろ。

・小難しい表現を避け、極力平易な単語を使え。

・事実の説明の際に著者の感想を混ぜるのはやめろ。


 などなど。

 極論するとこれらは、「バカにでも分かる文章の書き方」だ。どれだけ集中力が無い不注意な読者を相手にしていても、説明している内容が頭にするする入ってきて、主張を誤解されないことが理想である。するする入ってこなかったとしても、少なくとも誤解はされない。それが「文章力が高い文章」とされている、ということだ。


 さて、創作ではどうだろうか?

 創作ではまず複文を多用する。そこに生じるリズムが、思考の流れを反映している、などということもある。

 また、伝えたいことがそこまで明確ではない。朝露に濡れる草木を表現した文章があったとして、早起きの美徳を表現したいのか、それとも朝露自体を表現したいのか、それを著者が地の文で言明することはあまりない。

 また、あえて難解・衒学的な単語を多用することで生じる独特の雰囲気こそが表現したいこと、という場合もある。

 それから、作者が書き切らず、読者の想像に任せる、そうして余韻を持たせるのは主要な手法の一つだと言える。

 つまり、創作の文脈では「バカにでも分かる文章」あるいは「決して誤解を受けない文章」がすなわち「文章力の高い文章」とは言えないということだ。


 しかし、一つ共通することがある。

「自分の書いている文章が、意図する内容を表現できており、それが読者に伝わっているのか」

 その問題は常にある。

 少なくとも作品中で誤解されては困ることは誤解されないように書くこと、さらには、読者の想像の余地、その範囲までコントロールするのが理想の作家と言えるかもしれない。


 しかしそうはいかないのが人生であり、創作であり、創作界隈だ。

 作者が意図した内容に対する読者の奇妙な誤解が発生した場合、それを著者の文章力に置くのか、それとも読者の読解力に置くのか。

 一般論としては、何とも言えない。

 強いて作者の側に責任の比重を置きたいわけではない、悪意の誤読というものも存在するからだ。

 しかし、

「誤解されたくない箇所は、極力誤解されないように書く」

 のは多分、戦略として必要なことだろうと、私としては思う。


 それをこの私ができているかと言えば、答えはノーということになるだろう。

 勢いで書いてさっさと公開した短編小説が、よく見ると誤解を受けそうな書き方になってそっと直したり、また読者からの言葉を受けて、ある時は進んで、ある時はモヤモヤしながら直す、という場合も無きにしも非ずだ。


 時として創作者は批判を受ける。

 そして、批判が正当なのか、不当なのか。あるいは正当と不当の割合はどの程度なのか、作者自身には客観的な判断はできない。

 批判を前にして、相手の読解力と自分の文章力、その厄介な問題をどう切り抜けるのか。


 そんな話は次のページですることにしたい。

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