第9話

本店へ連絡をして店に行くと久米は昼休憩を取っていた。彼女に名古屋の販売会の件について話をしてみると、自分も行きたいと返答した。


「名古屋かあ。初めて行きます、ワクワクするなぁ」

「一日だけの勤務になるから前回みたいにびっしりいるわけではない。とりあえず荷物の用意だけしておいてください」

「わかりました。また一緒に働けるんですね」


彼女の素直そうな笑顔を見て、輝はいい人材が入ってきたことを彼も喜ばしく感じていた。


「えっ、名古屋に?今時期に行くの珍しいね」

「うん。昌山さんが急にいけなくなったから、代わりに行く事になった」


莉花に出張の件を伝えると彼女もやや驚きを隠せなかった。


「結衣、あなたがいないのわかっているみたいだから、地方に行くと余計泣きやまなくなるかもしれないな」

「もし心配だったら、実家に連絡してみたらどうだ?」

「そうなるとみんなが寝れなくなってしまう」

「でも、結衣の事だから了解してくれるよ。俺からも電話しておくからさ」

「うん、じゃあ一応聞いてみて」


輝は結衣を抱えながらあやしていくと、彼女が手を伸ばしてきたのでおもちゃのぬいぐるみを与えてみては、興味を持ち出してそれを握っていた。ソファに座ると結衣の身体を支えながら隣に座らせて、おもちゃを振ると両手を叩いて笑っていた。


「だいぶ落ち着いてきたみたいだな。こうして座れるようになっているのも早い方だろう?」

「うん……」

「どうかした?」

「まだこの子が小さいのに、輝がいないのが心寂しい」

「営業は異動がない限りは続けていきたいよ。家族のためにたくさん頑張りたい。この子もいつかわかってくれる日が来ると思うから、莉花も我慢してくれ」


「それもそうだけど、普段も二人きりで行動しているから他の家族とか子どもを見ていると、どうして自分だけ二人きりなんだろうなって考えてしまう」

「もし何だったら、お義母さんに相談したらどう?色々負担がかかっているようだし、俺もできるだけ早く帰れるようにはしているんだよ。ただシーズンごとにある出張を外すことはまずできないんだ。妊娠中もよく話したよね?」

「そうね。これからお母さんに聞いてみる。結衣を見ていてあげて」


そうすると莉花は寝室へ入り実家に電話をし出していった。彼の太ももに結衣が顔を埋めてきたのでベッドへ寝かしつけて浴室へと入っていき、シャワーを浴びて浴槽に浸かると、はあ、と深くため息をこぼしていた。

育児を莉花に任せている状態なので自分ももっと結衣と入れる時間を作りたい。この十年が仕事漬けの毎日で充実はしているものの、子どもができたことで少しだけ億劫な気持ちにもなっていることを、莉花に気持ちを伝えられずにいた。


「父親ってどういう存在なんだ?」


ぽつりと呟き、浴槽の脇に腕をかけては立ち昇る湯気が消えるまで、それらを眺めていた。脱衣所でバスタオルで身体を拭き、部屋着を着てドライヤーで髪の毛を乾かしている時、莉花が近寄ってきて背中を掴まれるとコードの電源を抜きどうしたのか訊いてみた。


「昌山さんのこと、どう感じている?」

「つまり不倫したってこと?」

「うん」

「それは俺らには関係のないことだろう。何、気になるの?」

「仮の話だよ。もし輝が私以外に好きな人ができてその人のところに行きたいってなったら、結衣のことどうする?」

「馬鹿なこと言うな。誰かを好きになるなんてありえない。今は家族と仕事が第一だよ。昌山さんの件は忘れよう。俺らの視界に入れるものじゃないよ」

「信じていい?」

「ああ。じゃあ俺先に寝る。おやすみなさい」

「おやすみ……」


ベッドに入ってからしばらく輝はスマートフォンの画像を眺めていた。彼もまた莉花に嘘をついて久米の事を考えていた。札幌で一夜をともにしたこと、本店の店頭に立ち客と嬉しそうに商品の提供をしている時の眼差し。

これから一緒に名古屋へ行こうと話した時の、瞳を輝かせながら目尻を垂れているつぶらなあの笑顔。彼は胸に手を押さえて襟元とギュッと掴み、彼女の存在が膨らんでいくのを肌で感じていた。


自分は恋などもう終わってしまったようなものだと考えていた。もし選択肢を間違えていなければ、久米への純愛も期待を裏切りたくないと思っている。不純であるが走り出した思いは簡単には捨てられない。どうかしていることも明確に分かっているが、一刻一刻を彼女が満たしてくれるのなら、自分の思慕を伝えてみたいものなのだ。


一週間後、輝は久米と新幹線で名古屋へ行き、JR施設の中にあるビルのフロアスペースに設置されているところに入ると、他のフランス菓子店の店員が挨拶をしてきた。


「東京のプティナンさんですね。名古屋市内にある製菓店フリュオリンヌの坪井です。今日一日よろしくお願いします」

「プティナン本店の久米と言います。よろしくお願いします」

「弊社事業販売部の営業をしています、登坂です。僕も時間を見ながらこちらに立ち寄るので、久米をお願いします」


輝はそのまま市内にあるフランス菓子店へ足を運び、店頭で取り扱ってもらう焼き菓子の詰め合わせのものの打ち合わせに来ていた。電車や地下鉄を乗り継いで数店舗廻り、十七時が過ぎたところで、再び名古屋駅へと戻ってきた。

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